表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夢幻の騎士  作者: 遠坂遥
8/13

あの子のいる世界、いない世界

牧村光士郎の小説の世界へ。

あの子のいる世界、いない世界

牧村光士郎


A

 牧瀬小太郎は空っぽだった。信頼すべき友達も、心を寄せられる恋人もいない、空っぽの存在だった。

 彼はいつも窓の外を眺めていた。そんな彼を人は、気持ち悪いとか、不気味と蔑んだ。クラスのいじめっ子は、しょっちゅう彼をいじめた。

 彼は何も抵抗しなかった。もう何もかも、諦めているかのように。

 彼はそうして、死んだように学校生活を送り続けた。

 彼の楽しみは、小説を書くことだけだった。彼はそんな妄想の世界に入り込むことで自分を保ち続けた。

 彼はいつしかとあることを夢見るようになった。詰まらない日常に、突如として現れ、彼を夢の様な世界に連れて行ってくれる少女。彼はそんな少女が現れてくれることを夢見た。

 そんな少女が本当にいると考えると、彼は空っぽのままでも生きていける気がしていた。

 しかしある時、彼のそんな妄想は現実のものとなった。まるで彼の小説の中から抜け出したかの様に、その少女は彼の理想通りの人だった。

 「行こう! 小太郎!」

 楓は彼の手を引き、彼を連れだしてくれた。こんなロクでもない世界から、夢の様な広い世界へ連れて行ってくれた。小太郎は、彼女が連れて行ってくれる世界のどれもが新鮮に思えた。学生がよく行くゲームセンターも、色々な店があるショッピングモールも、風が気持ち良い学校の屋上も、何もかもが新鮮で、刺激的で、輝かしい世界だった。

 まるで干上がった大地に雨が降るように、彼の心は生きる喜びで溢れていった。

 放課後の教室で、彼は楓と二人きりになった。紅くて幻想的な空間で、彼は生まれて初めて女の子と唇を重ね合わせた。いつもいじめられ、虐げられていただけのこの教室で、まるで見せつけるかのように、彼は幸せを手に入れたのだった。

 いつも一人きりだった学校からの帰り道を、二人並んで歩いた。一人で何の希望も見出せずに机に向かっているだけだった勉強も、お互いに目標を語り合いながら励めるようになった。そして、いつも涙を堪えて意識が落ちるのを待つだけだったベッドの中も、もう一人ではなくなっていた。

 楓の体温に触れることで、心が安らぐのを感じた。楓に頭を撫でられることで、心の傷が徐々に塞がっていくのを感じた。楓と何度も口づけを交わすことで、生きていく喜びを感じることが出来た。

 楓が彼の全てとなった。

 彼はずっと待っていた。自分を救いだしてくれる人を。

 彼は想った。僕は楓と出会うために生まれてきたのだと。

 彼の心は、そうして満たされていった。

 彼の小説も、徐々にその内容を変化させていった。理想を追い求めるだけだった主人公も、今ある幸せを噛みしめられるようになっていった。彼は好んで、楓に似た女の子を描いた。楓が彼を幸せにしたように、楓に似た少女は皆を幸せにした。それは楓さえいれば、僕に怖いものなんて何もないという、彼の心の表れであった。小説を書くことで現実から逃避していた彼は、小説を書くことで幸せを噛みしめるようになった。小説は希望から、幸せの象徴へと変わったのだった。

そして更に、彼は自分と同じ様な不幸な状況に置かれている人たちへ、小説を通してエールを送るようになった。願いはきっと叶う。だから希望を捨てないで。人生に絶望せずに、希望を抱き続けてほしい。彼はそう願った。

 彼の元には、小説で心を救われたという人たちからメッセージが届いた。自分の幸せで他の人までも幸せにすることが出来た。彼は嬉しかった。そうやって、みんなが幸せになって欲しいと思った。

世界が幸せでありますように。それが彼の心からの願いだった。そう、あの日を迎えるまでは……。



 ある日楓が倒れた。ただの風邪だと思っていた彼女の容体は、瞬く間に悪化していった。

 数日後、彼は医者にあまりにも残酷なことを告げられる。楓の両足はもう動かない。そう言われた。

 信じられなかった。つい最近まで一緒に商店街を歩いて、休日は二人で遠出をした。彼女は元気いっぱいに歩いていた。なのに、もう歩けないだなんて信じられる訳がなかった。

 だが、悲劇はそれだけでは終わらなかった。

 「手術をしても、治る可能性は半々といったところです……」

 医者は申し訳なさそうに言った。彼は医者が何を言っているのか分からなかった。

 二分の一。二分の一で、医者は楓が死ぬと言ったのだ。そんな現実を、受け入れろと言ったのだ。受け入れられる訳がなかった。足が動かなくなることだけでもあんまりなのに、命すらその病気は奪いかねないと言うのだ。

 彼は思った。どうしてそんな酷いことをあの子に強いるんだ。あんなに良い子にどうしてそんな過酷な運命を強いるんだ。世の中にはクズみたいな人間が山のようにいるのに、どうして楓だけがそんな目に遭わなければならないんだ、と。

 病室で楓は彼に何も文句を言わなかった。彼女は笑い、逆に彼を励ました。彼にとってそれは逆に辛いことであった。彼は彼女に吐き出してほしかった。ありとあらゆる鬱憤を、この理不尽さに対する憎しみを、彼にぶつけてほしかったのだ。

 そんな時、彼の元に一通のメールが来た。そのメールにはこう書いてあった。

 “小太郎さんの小説のお陰で心が救われ、死ぬことを思いとどまりました。そして信じて頑張り続けていたら、僕のことを心から理解してくれる人と巡り合うことが出来ました。彼女と出会えたのはあなたのお陰です。本当に、ありがとうございました! そしてこれからも、素敵な小説を書き続けてください!”

 彼は近くに置いてあった時計を手に持ち、そして力いっぱい壁に投げつけた。時計はバラバラに壊れ、もう二度と彼に時刻を告げることはなかった。

 彼はメールを削除した。そして、全ての小説を消去した。

 病室では、彼は努めて平静を装った。だが、彼の心の動揺が楓に悟られないはずがなかった。

 ある日楓は彼を病室に呼び出した。そして、初めて見せる様な真面目な顔でこう言ったのだ。

 「私たち、別れましょう」

 彼は動揺しきった声で、「どうして?」と尋ねた。彼女は答えた。

 「これ以上、あなたに辛い想いはさせたくないから」

 そうして彼女は精一杯笑った。それはまるで、今にも泣き出しそうな、そんな笑顔だった。

 彼は力なく病室を出た。そしてヨロヨロとした足取りで、病院の階段を昇り始めた。

 彼の心には、ある一つの感情だけが渦巻いていた。それは、後悔だった。あの時僕が、楓と出会っていなかったら、今頃どうなっていただろうかと、彼は思った。

一人で孤独に学校生活を送り、何の感動もなく日常を送っていただろうと彼は思う。だがそれは、決して不幸なことではないのかもしれない。だって、その世界の彼は、小説に逃げ込むことが出来るのだから。辛いことから目を逸らしても、誰も文句を言わないのだから。自分以外の誰の不幸も背負っていないのだから。だから彼は幸せだと思った。

 彼は風を感じた。出来ることなら、この世界を全て吹き飛ばしてほしいと思った。

 彼は金網に足を掛けた。そして力を込めて上まで昇る。

 そこから見える光景は、泣きたいほど綺麗だった。世界はこんなに綺麗なのに、幸せでない自分がいることが辛くてしょうがなかった。

 彼は金網の向こうに降り立ち、下を見た。

 そして最後に彼は、誰にでもなくこう言った。

 「あの時、楓と出会わなければ良かった。出会わなければ、こんなに辛い想いをしないですんだのに。ずっと一人でいれば良かった。幸せになんてならなければよかった……」


 風が吹いている。そこにはもう、誰もいなかった。



B

 牧瀬小太郎は空っぽだった。信頼すべき友達も、心を寄せられる恋人もいない、空っぽの存在だった。

 彼はいつも窓の外を眺めていた。そんな彼を人は、気持ち悪いとか、不気味と蔑んだ。クラスのいじめっ子は、しょっちゅう彼をいじめた。

 彼は何も抵抗しなかった。もう何もかも、諦めているかのように。

 彼はそうして、死んだように学校生活を送り続けた。

 彼の楽しみは、小説を書くことだけだった。彼はそんな妄想の世界に入り込むことで自分を保ち続けた。

 彼はいつしかとあることを夢見るようになった。詰まらない日常に、突如として現れ、彼を夢の様な世界に連れて行ってくれる少女。彼はそんな少女が現れてくれることを夢見た。

 そんな少女が本当にいると考えると、彼は空っぽのままでも生きていける気がしていた。

 彼は少女に、ありとあらゆる願望をつぎ込んだ。容姿や性格はもちろんのこと、自分が言って欲しい台詞や、やって欲しいことを全て小説の中の少女にやらせた。時には卑猥なことを考えもした。故に、彼の妄想は時に度が過ぎるものだった。

 彼には何もなかった。だけども彼は、その妄想だけで充分満足だった。そんな少女がいてくれたらと思うだけで、彼の心は満たされたのだ。

 彼が三年生になる頃、ピタッと彼に対するいじめが止んだ。彼の学校は進学校だ。恐らく彼に構っている時間があるなら、勉強をしていた方がましだといじめっ子も考えたのだろうと、彼は思った。

 月日があっという間に走り去っていった。彼は普通に受験し、それなりの大学に進学した。

 大学は高校までとは違い、好きな人とだけ関わりを持つことが出来るコミュニティだ。だからもういじめは存在していなかった。学生は、嫌いな人をいじめるのではなく無視すればいいだけの話だからだ。

 彼は大学では文芸サークルに入った。そこには、自分と同じ様に小説が好きなのだが、内気なせいでいじめを受けていた人が何人もいた。彼はその人たちと仲良くなった。彼らは誰かを仲間はずれにはしなかったから、彼はとても居心地が良いと感じた。

 彼は大学で、小説以外ではサブカルチャーにも興味を持つようになった。深夜にやっているアニメを見あさり、オタク友達とアニメ談議を楽しんだ。そして年に二度あるコミケに参加し、自分の小説を販売したり、同人誌を買いあさったりした。

 それでもやはり、彼の楽しみは憧れの女性を妄想することだった。いつか必ず夢に見た少女が現れてくれるはずと信じ続けた。彼が妄想したのは、そんな女性とのデート、そして時には夜の生活を思い浮かべたりもした。その度彼は、あられもない少女の姿を夢想して自慰行為に励んだ。彼はそんな自堕落な大学生活を謳歌した。彼の人生は非常に充実したものになった。

四年生の夏ごろ、彼はとある中堅の出版社の内定を獲得し、大学卒業と同時に一人暮らしを始めた。

就職と同時に彼の生活は大きく変わった。忙しくて息を付く暇もなかった。だが彼の妄想だけは変わらなかった。彼の頭の中には、あの時と変わらずあの少女がいた。

彼が忙しなく働いていた時だった。頑張り屋の彼に好意を持つ女性が現れたのだ。そして彼も、その女性の好意に気付いていた。彼は、周りが言うままに彼女を食事に誘い、休日には映画に誘ったりもした。そして二十六歳の時、彼は生まれて初めて本物のセックスをした。だが、それは思っていたよりも気持ちの良いものではなかった。

彼は女性と交際をスタートした。

彼の妄想は、まだ続いていた。



 女性との交際は長くは続かなかった。

 女性は度々彼に対して怒った。彼は何が不満なのか分からなかった。

 最後の日、彼女は彼に尋ねた。

 ――本当に私のこと好きなの? と。

 彼は好きだと言った。でも、好きじゃないと分かっていた。

 彼は未だに信じていたのだ。あの少女が、自分の前に現れることを。

 結局それ以降も、女性との関係はなかなか上手くいかなかった。

 次第に女性から敬遠されるようになった。何かがおかしいと、遠巻きに噂されるようになった。不憫に思った会社の上司は、彼にお見合いの話を持ちかけた。

 彼は最終的にその女性と結婚した。理由は早く身を固めた方が良いと、両親に口酸っぱく言われたからだった。

 その女性との生活はそれなりに上手くいった。彼は三十を過ぎた頃、自分の元にはもう理想の女性は現れないのだろうと思った。その女性で妥協したとまでは言わないが、もう潮時なのかもしれないと、彼は思ったのだ。

 彼には子供が二人できた。子供は可愛かった。妻も大事だと思った。だが、彼は自分の生活に心から満足出来ていなかった。

 無理だ、妄想だ、あり得ないと思いながらも、彼はまだ信じてみたいと心のどこかで思っていた。あの少女が、ある日ひょっこり自分の前に現れるとことを、彼は望んでいたのだ。

 ある日彼は、大学時代の友人と飲んだ。その中の一人は、未だにサブカルチャーに傾倒しているらしく、同人誌を描いて生計を立てていた。彼は、この歳で未だに女性と交際したこともない学友が、エッチなシーンばかりの同人誌を描いていることがおかしくてならなかった。そんな彼が不意に言った。

 「俺はあの時妄想し続けた、ゆきちゃんを今でも描いているんだ。同人誌の中では、ゆきちゃんといくらでもエッチが出来る。彼女は歳を取らないから、ずっと美しいままなんだ」

 別の学友が、その言葉に対して「お前相変わらずバカなままだな」と言って笑った。だが、彼は笑わなかった。くだらないことかもしれないが、彼にとっては凄いことだった。彼は本気で、その学友を羨ましく思ったのだ。

 そして彼は帰りに、その友人に頼んだ。

 「俺の嫁の同人誌って、描けないかな……?」

 友人はバカ笑いしながら、その提案を受けてくれた。五千円でだが。

 妻も子供もいて、仕事もそれなりに順調。それでも彼は、未だに満ち足りていなかった。あの時、あの子が現れてくれさえすればと、彼は思わずにいられなかった。あの子が今いてくれれば、自分は心から幸せであったに違いない。仕事が上手くいかなくても、子供が出来なかったとしても、彼は満ち足りていたはずだ。休日に楓を主人公にした同人誌を読みながらマスターベーションをしている自分もいなかったはずだった。

 ある日の夜、彼は近所の川辺で無線機を拾った。トランシーバーみたいで、彼はカッコイイと思った。彼は通信をするみたいに、それに向かって語りかけた。

 「もしもし、ぶーぶー、もしもし?」

 くだらないと思いながらも、彼はいつしか本気になっていた。彼は、心の中に思い描くとある人物と交信をすることにした。

 「ぶーぶー。えーと、おっほん。もしもし、小太郎さん、聞こえていますかー? あっちの世界の小太郎さん、聞こえていたら返事をお願いします」

 「はいこちら小太郎。おやおや、あなたはそちらの世界の小太郎さんじゃないですか。今日はどうされたんですか?」

 「今日連絡したのは他でもありません。実はあっちの世界の小太郎さんは、今どんな生活を送っているのか知りたくなってしまったんですよ」

 闇夜に響く中年男性の声。だけど彼は気にせず寸劇を続けた。

 「生活はとても楽しいですよ。楓が作るご飯はとても美味しいですし、身の回りの世話は完璧にこなしてくれます。それにそもそも僕は、彼女を眺めているだけで幸せなんです。楓がいるだけで、僕は世界一の幸せ者でいられるんです」

 「そうですか。それは羨ましい。やはり僕は、僕は……」

 言葉に詰まる。言ってしまっていいものか。誰も聞いてやしないのに、彼は躊躇ってしまっていた。

 「えーと、あ、あれ、おかしいな。別にこんなこと、悲しくなんて、ないはずなのに……」

 彼は口に手を当てる。なぜか無性に泣けてきてしまった。彼は必死に涙を堪えた。

 唐突に、壊れて捨てられていたはずの無線機が大きな音を発した。その音を聞いて、彼の心臓は危うく破裂しそうになるほど脈打った。それはまるで、お化け屋敷に入ってすぐに驚かされた時の様な慌て方だった。彼は恥ずかしさで耳まで真っ赤にしながら、無線機に向かって叫んだ。

「す、すみません、今のなしです! 楓なんて子、僕は知らない! あの時楓と出会ってればなんて思ってません!」

 彼は情けない声で言い訳を言い続ける。しかし無線機からは何の音も聞こえてこない。彼はもしや聞き間違いかと思った。彼はそれをコンコン叩いた。やはり反応がない。彼はその様子を見て、一度大きく溜息をつくと、それをもう捨ててしまうおうかと考えた。

しかし、その時だった。

 「楓と……」

 聞き間違いだと思っていた無線機から、今度は本当に声が聞こえたのだ。彼は急いでそれを耳に近付けた。声ははっきりと彼の耳に届いた。

「あの時、楓と出会わなければ良かった。出会わなければ、こんなに辛い想いをしないですんだのに。ずっと一人でいれば良かった。幸せになんてならなければよかった……」

一体どこから、そしてなぜこんな捨てられた無線機に連絡をしてきたのかは分からないが、彼はその人の言葉に耳を傾けた。

向こう側の人物は酷く落ち込んでいる様だった。それもかなり切羽詰まっている。彼は焦った。このままでは無線機の向こうの人物が自殺でもしかねないと思った。

 彼は、その人を落ちつけるために話を聞くことにした。彼はその人に何があったのか詳しく話してほしいと頼んだ。

 その人は答えた。恐らく、もう自分の中だけに留めておくことは出来なかったのだろう。

 その人の話によれば、その人は自分が理想としていた女の子と巡り合い、仲を深めることができ最近までは本当に幸せであったのだが、つい最近その子が大きな病を患い、自分は彼女に別れを告げられ、思いつめて今まさに命を断とうとしていたということだった。

 彼は驚いた。その人の元々の境遇から理想まで、自分のものと完全に一致していたからだ。彼はその人がその女の子と巡り合えたことを羨ましいと思った。だがそれだけに、彼が今どれほど悩んでいるのかが痛いほど分かった。

 “楓と出会わなければ良かった”。その言葉は、彼の心に深く突き刺さった。自分は今、こんな歳になっても追い求めているほど楓という少女に憧れているのに、無線機の向こうの人物は、彼女と出会わなければ良かったと言っている。その人にどれほど辛い試練が降りかかっているのか、それは想像に難くないことだった。

 だけれども、だ。

 「こう言うのもなんですが、それは随分と贅沢な悩みだと思いますよ」

 無線の主は少なくとも自らの理想と巡り合い、これまで素晴らしい時を過ごして来たのだ。どんなに今辛かろうとも、その事実だけは決して揺らぐことはない。

 「それに比べて僕は、この歳になっても未だに理想のあの子のことを追い求め続けているんです。もう妻も子もいるのに、未だに理想のあの子のことを妄想して、夜毎に自慰行為に励んでいるようなどうしようもない人間になってしまったんです。もう現れる訳ないと分かっているつもりでも、未だに諦められない、情けない人間にね」

 無線の主がどう思おうがもう知ったことではなかった。彼はたまりにたまったものを吐き出すかのように、はたまた全然関係ない人に八つ当たりでもするかのように喋り続けた。

 「一回フラれたくらいでなんだ。まだその子のことが好きならそれ位で諦めるな。諦めるくらいなら、出会わなければ良かったと思うくらいなら……、最初から僕と代われ! 僕が代わりに楓と出会ってやる! そして僕が彼女と幸せになってやる!」

 どんなに彼女の病気が重くても、どんなに彼女が別れたいと言っても、彼は彼女から離れるつもりはなかった。十年以上、彼女を妄想し続けていきた彼には、それが出来る絶対の自信があった。

 「こんな気持ちの悪いおっさんに取られたくないなら自分でちゃんと彼女を守れ。それに、もし彼女と上手くいかなかったとしても、絶対に死んだりするんじゃない。確かに心残りはある。だが、彼女が、楓がいない人生だって、決して捨てたものじゃないから」

 彼は家で待つ妻と子を思い浮かべた。そう言ってから思ったことだが、彼は思ったよりも家族のことが好きだということを、今この場で理解していた。彼は自分の顔がほころんでいるのを感じていた。

 彼はそれだけ言うと、静かに無線機を持つ右腕を下ろした。

 彼は川の向こう側を睨み、そして、右腕を思いきり振った。無線機は弧を描き、ポチャリと音を立てて水底に沈んでいった。

 そして川に向かってこう叫んだ。

 「僕は一生、楓を想い続けてやるからなああああああ!!」

 家族は好きだが、アイドルは別物。そんな四十、五十代の主婦が韓流スターを大好きな様に、彼も楓のことがいつまでも好きだった。

河原の夜道を、何人かの会社帰りの人が歩いていた。散歩で通りかかった学生もいた。だがそんなものは関係ない。彼は満足すると、サッと踵を返し、そのまま全速力で河原の土手を駆けあがっていった。



A

 風が吹いている。そこにはもう、誰もいない。

 そこには、ただ古ぼけた無線機だけが残されていた。

彼の決意とは?

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ