牧村光士郎の手記
本編突入です!
長いですが読んでみてください!
牧村光士郎の手記
1
彼女があの様な状態になっている今、僕がこんなことをしている場合ではないのは重々承知している。だが、僕はどうしてもこれまでのことを文章として残しておかなければならないと思ったのだ。
僕がこの手記を残す理由は、ひとえに僕が今のこの状況を整理したいという思いがあるからだ。
これまでの十七年間、僕にも色々な事態が降りかかってきた。時には氷の様に冷たく、時には春の木漏れ日の様に温かく。だけども、これほどまでに不思議で、理解出来ないことは、僕には全く経験のないことだった。
僕が経験している事柄にはどんな意味があるのだろうか。僕はそれを知りたい。僕はこれを解き明かすことで、彼女の気持ちを知ることが出来るのではないかと考えている。だからこそ僕は、この数日で体験したことをまとめる必要があるのだ。
この文章を記す理由として、小説書きの血が騒いだのだろう? と問われれば、僕は決して否定はしない。恐らくそれもまた一つの事実だ。まるで自分自身が物語の主人公にでもなったかの様なこの体験を、記さないというのはあまりにももったいないことだ。不謹慎であることは分かっている。だけど、僕は生まれ持っての生粋の物書きとして、この衝動に駆られることはやむを得ないことなのだと思う。これは恐らく、彼女とて理解してくれるはずだ。
だがそういった心があったとしても、僕が彼女の為にこの文章を記していることだけは絶対に揺るがない真実だ。誰かに嘘だと言われる筋合いはないし、もしそんな人がいるなら、僕はその人に対して何時間だって違うと言い続けるだろう。
前口上が長くなってしまったが、これから僕が体験したことを書き記していこうと思う。そしてそこから何かしらの仮説を立てることが出来ればいいと、僕は思っている。
2
五月八日水曜日、僕は学校を出ると、いつも通り最寄りの駅まで一人で向かった。左右に小さな雑居ビルが立ち並ぶ大きな通りを抜けると、大きなロータリーが眼前に広がってくる。そしてその一番奥には、ガラス張りの三階建ての幾分か古びた駅舎が佇んでいる。駅舎の前の道路にはバス停がいくつかあり、この駅と付近の駅などをバスが結んでいる。僕は辺りでせっせとチラシを配っている青いポロシャツと青い帽子のコンタクトレンズ屋の店員と思われる男からチラシを受け取りながら、左回りで駅舎の正面までやって来る。そこまで来ると、今度は視線を元来た方へと向ける。そして目の前にあるバス停にまで歩みを進めた。
時刻は十五時二十分。バスが来るのは三十分だからあと十分ほどだ。僕はバス停の前で列を作っている学生たちの後ろに並ぶと、そそくさと肩に下げていたバッグから文庫本を取りだす。それはお気に入りの作家の小説で、この前ブックオフで三冊ほどまとめ買いした中の一冊であった。
僕は栞が刺してあるページを開くと、黙々と文字を目で追い始めた。その途端、ロータリーの喧騒は、僕の耳から全てシャットアウトされた。車のエンジン音も、学生たちの話声も聞こえない。僕の耳にはただ、物語の登場人物たちの話す言葉だけが届いてきていた。
不意に背中に衝撃が走った。僕は転びそうになりながらも、なんとか右足だけで身体を支え、本から顔を上げた。すると僕の前方には、先程並んでいた学生の姿の代わりに、一台の見慣れたバスが停まっていた。後方の人物が何やら僕に文句を言っている。どうやら僕がなかなかバスに乗り込まないことに対して怒っている様だ。僕は後ろの人物に対して軽く頭を下げ、「すみません」とだけ言ってバスに乗り込んだ。
バスの座席は空席が目立っていた。それもそうだろう。だってこのバスは住宅街の方には向かわないのだから。このバスの最終目的地は中心地から外れた所にあるとある病院。僕は毎日そこに通っている。その他の乗客はその病院に向かう途中にある寂れた旧市街地に住んでいるのだろう。
僕は入口のすぐ近くの一人用の座席に腰を下ろすと、手に持ったままだった文庫本の指を挟んでいたページを開く。そしてまた自分の世界に浸りこむのだった。
バスのアナウンスが終点を告げる。僕は慌てて栞を挟み、バスの先頭に向かう。定期をタッチし、バスの運転手に軽く会釈してからバスを降りた。僕の後ろに乗客はいない。どうやら僕が最後の乗客だったようだ。
バスを降りて二分ほど歩くと、前方に住宅と住宅の間から赤茶色の建物が現れる。以前はもっと古びた外装だったが、数年前の大改修で外は随分と綺麗になり、看板のデザインも一新された。ただ、中は昔とたいして変わってはいないのだが。
古びた住宅街を抜けると、病院の全体像が明らかになる。僕は足早に病院の正面玄関に向かう。建物の中に入ると、僕は靴箱から群青色のスリッパを取りだし、床に無造作に放り投げる。そして自分の靴を靴箱に入れると、床のスリッパを履いた。
自動ドアをくぐり、受付には向かわずにそのまま左折する。パタパタと廊下を歩いていると、頭の上の方で機械音が鳴り、箱の様なものが僕の上方を通り過ぎて行った。僕は音のする方に視線を向けた。天井に張り巡らされたレールの上を機械の箱が走っていた。それは僕から離れていくと、受付の近くで左折し、僕の視界から完全に消えた。実はあれにはカルテが入っている。前に診てもらった時に医師が僕に関するカルテをその箱の中に入れてレールに流しているのを見たのだ。内装が古ぼけている割に、使っている機械は近未来的なのがこの病院の不思議なところだ。
廊下を抜けると左手に売店がある。僕は売店に寄ることにした。店は駅の売店ほどの大きさしかなく、商品はあまり充実していない。僕はいつもの様に明治のミルクチョコレートを手に取りレジまで持っていく。店員がチラリと僕の顔を見る。僕は気にせず百円と五十円玉を出す。店員は黙って十円玉を三枚僕に手渡した。
売店を出ると僕はエレベーターに乗り込んだ。四階のボタンを押す。途中二階で別の人が乗り込んできた。その人はパジャマ姿で点滴をぶら下げている。見たところ七十過ぎのおじいさんの様だった。四階に着くと、おじいさんはフラフラっとした危うい足取りでエレベーターから出て行く。僕は『開』ボタンを押したままおじいさんの姿を見送り、その後でエレベーターから出た。
廊下は僕の眼前と、左手に伸びている。僕は正面の方に真っすぐ進み、途中でおじいさんを追い抜いた。彼女の部屋は四○七号室だ。エレベーターのすぐ近くが四○一号室だから、そこから少し距離がある。と言っても僕の足ではほんの二十秒ほどの距離だが。
部屋の前に辿り着く。プレートには、四○七号室と書いてある下に、『真辺梓』と名前が書かれている。僕は二回だけノックする。返答はない。だが僕は気にせず扉を開けた。
部屋の奥の窓が開け放たれているお陰で、気持ちの良い風が部屋の中に吹き込んでいた。僕はベッドの方へ歩みを進めた。そこには、目を閉じて眠り込んでいる女の子の姿があった。黒くて長い髪はほどかれて無造作に枕に投げ出されている。彼女からはかすかに寝息が聞こえるだけで、それ以外には何の物音も聞こえない。僕が入ってきても、起き上がって迎え入れてくれることはなかった。
僕は彼女を見下ろした。可愛らしい寝顔がそこにはあった。目を閉じていても分かる、意思の強さを反映している様なつり眼、日本人離れした高い鼻、そして吸い寄せられる様に魅惑的な厚い唇。そのどれもが僕にとっては愛おしくて、そして同時に堪らなく僕を辛い気持ちにさせた。僕は風で乱れた彼女の髪の毛に触れる。そして優しく整えてやった。
僕はベッドの横に置いてある椅子に腰を降ろした。そしてベッドに備え付けてあるテーブルの上にさっき買ってきたチョコを置いた。
僕は少しの間彼女の寝顔に語りかけた。今日学校であったことや、彼女の友達がこんなことを君に言っていた、といったことだった。
風の音が痛く耳に届いた。僕はそっと彼女の手をとった。温かかった。鼓動が聞こえた。生きていると、僕は強く実感した。
静寂が辛かった。
いつしか僕は、彼女の手をとったままウトウトし始めていた。そしていつしか、僕の意識はまどろみの中に消えていった。
3
ふと目を覚ます。風が突き刺す様に冷たい。思わず身体が震えた。僕は身体を起こした。どうやら僕はベンチで眠りこけていた様だった。ベンチに手を触れると、そこは僕の体温ですっかり温かくなっていた。
僕は呆けた頭のまま辺りを見渡した。辺りは真っ暗だった。太陽は既になく、いくつもの星たちが空を埋め尽くしていた。やけに澄んだ星空。まるで、冬の空の様だった。辺りにはいくつか街灯があり、また建物にも電気が灯っている箇所があった。
僕はどこで眠っていたのか? 寝る前の記憶がなくて、僕はここがどこなのかを確認するために、付近の建物に目を凝らした。
「さむっ……」
意識がはっきりしてきて、改めて寒さに驚いた。春の陽気じゃなかった。手がすっかりかじかみ、身体が小刻みに震えていた。
まるっきり冬だった。
何かがおかしい。そう思って僕は勢いよく立ち上がった。すると、僕の視界にあるものが飛び込んできた。僕はそれをはっきり見るために、その正面に回った。一瞬、僕は自分の目を疑った。だってそれを僕が今見ているはずがないのだから。僕は先刻まで病院にいたんだ。その僕が、あの時あの子と一緒に見たあれを、見ているはずがないのだから。
僕は怖くなった。だから僕は誰かを呼ぼうと声を出した。
「だ、誰か、誰かいませんか……?」
お腹から声を出したつもりだった。だけどその声は情けないほど脆弱な音を響かせただけだった。だがこれだけの静寂なら、この程度の声でも誰かには届くだろうと僕は思った。しかし、いくら待っても人っ子一人やって来る様子はなかった。だから僕は堪らず走りだした。適当にそこら中の建物の中に入り、部屋をノックしたりした。だが、やはり誰一人いない様だった。
僕はもう一度さっきの場所に戻ってきた。やはりそれはそこにあった。それは、有名な政治家の銅像だった。彼はここ、W大学創始者としても知られている。その人物の銅像が、僕の眼前にあったのだ。そうだ、ここはあの全国的に良く知られているW大学の本キャンだったのだ。
創始者の像は、一度あの子とここを訪れた時に見た。あの時僕たちは、二人で再びここに来ることを誓った。だが、見たのはそれ一度きり。それから二人で訪れたことはないし、当然一人で来たこともない。だいたい、ここに来るには電車を乗り継いで来なければならない。僕はさっきまで病院にいたんだ。こんな所に来られる訳がなかった。
「牧村くん」
不意に女性の高い声が僕の名を呼んだ。僕は驚いて心臓が止まりかけたが、なんとか心を落ちつけ、声の主の方へ振り返った。そこにはクラスメートの赤間千鶴さんの姿があった。茶色のロングヘアーにアイドルの様に可愛らしい顔、そしてうちの学校の制服であるこげ茶色のブレザーにチェックのスカートの姿で、彼女はそこにいた。彼女は笑顔のまま僕のことを見ていた。それは普段学校で見る時と全く同じだった。その可愛らしさで学校中の男子の注目を集める彼女は、チアリーディング部に所属している。そんな彼女はなぜかこんな僕とよく話をする。とは言っても、その内容は大抵他愛のないことなのだけれど。
「牧村くん、こんな所で何してるの?」
彼女は笑顔で尋ねる。だが聞かれたところで僕には分からなかった。そもそも、ただでさえおかしな状況なのに、そこに赤間さんまで出てきてしまったら、奇妙な状況に拍車がかかってしまうと、僕は思った。
僕が何も答えられないでいると、先に彼女の方から口を開いた。
「じゃあさ、あたしが何をしているかをまず教えてあげようか?」
それは是非聞きたいと思った。彼女の答が何かしらの道しるべになるなら、聞いておいて損はないだろうからだ。だから僕は「教えて」と彼女に言った。
僕の言葉に赤間さんがほほ笑んだ。そして満面の笑みのまま、
「あたしは、あなたを手に入れるためにここに来たのよ」
と、はっきりと言った。意味が分からなかった。学校一のアイドルである彼女が発した突拍子もない言葉に、僕は耳を疑ってしまった。『僕を手に入れる』だって? それはあまりに馬鹿げた発言だった。僕は、もしかしたら僕の頭がおかしくなってしまったんじゃないだろうかと思った。そうじゃなかったらこんなことあり得ない。彼女の言葉は、それくらい理解に苦しむものだったのだ。
「ねえ、牧村くん」
気付くと赤間さんの顔が僕の眼前まで迫ってきていた。いくら考えこんでいたとはいっても、一瞬でここまで接近されるなんて全く思ってもみなかった。赤間さんの吐息が僕の顔にかかり、ミントの様な爽やかな匂いが鼻の中に広がった。それは頭に靄がかかった様な感覚だった。彼女の言うままになりたい。そんな思考が頭を埋め尽くしかける。だが、僅かに残っていた僕の理性がそれに歯止めを掛けた。そして今度はあの子の顔で僕の頭の中を埋め尽くしていった。
「駄目だ」と、僕は大声で言った。そして僕は彼女の元から一目散に走り出した。銅像から離れると、右前方に古ぼけた黄土色の建物がある。そして左には工事中を示す大きな囲いがあり、そこにはこの大学の歴史を表す建物の写真などが貼られていた。僕は立ち止まらず、そこから更に走った。工事中の敷地を過ぎると、今度はこれまた古い四階か五階建ての建物が現れた。パッと見でも昭和初期頃に造られた歴史の詰まった建物である様だった。
しかし、そこで僕は気付いてしまった。聞こえて来る足音が、実は一つだけではなかったということに。一つは僕が懸命に走る足音なのは間違いなかった。だがもう一つは、人間とは思えない様な速さで僕を追いかける、ハンターの足音だったのだ。僕は恐怖した。あまりの速さに、背筋に悪寒が走った。
その時僕の視線の先に、有名なこれまた創始者の名を冠した講堂が姿を現した。そして講堂がある石造りの敷地の前方には、左右に伸びる二車線の道路があった。右手を見ると、そこから大きな道路に繋がっていることが分かった。近くにはバス停も見えた。僕はここしかないと思った。ここを辿れば、バスや地下鉄の駅などがあるはずだと、混乱する頭でも考えることが出来た。だから僕は少ない力を振り絞って、そちらの方面を目指そうと思った。
だが、残念ながらその時にはもう手遅れだった。僕が必死に走る横から、彼女が顔を出したのだ。僕は情けなくも思わず叫び声を上げてしまった。赤間さんが、またしても顔を僕に近づけながら、「ねえ、どうして逃げるの?」と尋ねた。
その顔からは、先刻の笑顔などとうに失せていた。僕は彼女の瞳のあまりの冷酷な色に再び身体が震えあがるのを感じた。何かがおかしい。こんな恐ろしい瞳を、赤間さんがする訳がないと、ぐちゃぐちゃの頭で僕は思った。僕は決死の覚悟で走るスピードを速めた。そしてなんとか道路を右折しようとした時だった。
背中に強烈な衝撃が走り、僕は自分の身体が浮遊した感覚を覚えた。そしてそのまま数メートル前方へと飛ばされ、無様にも地面に転がり落ちた。僕の目にはコンクリートとは違う、石の地面が見えていた。僕は倒れた状態のまま背中に手をやった。それは時折感じたことのある痛みだった。そう、それはあいつらに蹴られた時と全く同じものの様に思われた。僕はその時ようやく理解した。僕は、赤間さんに蹴り飛ばされたのだということに。
道路の方から足音が聞こえた。僕はその体勢のまま音の主を見た。
「牧村くんが逃げるからいけないんだよ」
と、愉快そうに彼女はそう言った。その顔は、まるで楽しいことをしている時の様な屈託のない笑顔だった。その笑顔がもし、いつもの教室で見られたのなら何も怖いことはない。だがそこは夜の大学で、しかも彼女は容赦なく僕を蹴り飛ばした後なのだ。そんな天使の様な笑顔が、その時の僕には角の生えた悪魔にしか見えなかった。
そう言えば、僕はさっき赤間さんの蹴りがあいつらの蹴りと同じ様と書いたが、それは大きな間違いだった。それはそんなやわな痛みじゃなかった。あまりの痛みに僕は立ちあがることが出来ないほどだったのだ。だがずっとそこにいれば、また彼女にあの強烈な蹴りをお見舞いされてしまう。だから僕は一刻も早くあの女から逃げなければならなかった。
しかし、その時僕は痛みのせいでどうしても立ち上がれずにいた。だから僕は、惨めにも虫の様に這いつくばってその場から逃げるしかなかった。
「逃がさないよ」
冷酷な彼女の声が響き、その手が僕をあっさり捕えた。僕は「放して」と必死に懇願するも、彼女は僕の言葉など全く聞き入れず、僕の襟首を掴み、僕の身体を石の地面に思いきり叩き付けた。
再び背中に衝撃が走った。息が出来ないほどの痛みが身体を走り抜けた。僕は絶え絶えになった息のまま、なんとか赤間さんを見上げた。瞬間、僕は恐怖した。彼女は唇をつり上げ、醜く笑みを浮かべていたのだ。
僕は動くことが出来ず、ただ地面に情けなく寝そべっていることしか出来なかった。赤間さんはしゃがみ込むと、膝と掌を地面につけた。そして上体を起こしながらも相変わらず寝そべったままの僕の方に近づいた。そして荒い息遣いで僕の足を赤間さん自身の膝で挟む様な状態になるまで僕に接近した。
赤間さんの顔は暗がりでもよく分かるくらい紅潮していた。息が絶え絶えの僕とは違った意味で呼吸を乱している。すると不意に、彼女の両手が僕の両肩を掴んだ。そして僕の身体を引っ張り上げ、そのまま、
――僕の唇を奪った。
彼女の息が直接体内へ流れ込んでいく。身体が麻痺する様な、毒気にやられる様な感覚に襲われた。一方僕は何が起こったのか分からず、そのまま茫然として動くことが出来なかった。更に彼女は僕の頭を両手でがっちり掴んだ。そして今度は自身の舌を僕の舌に絡めてきた。彼女の淫猥な声と舌が擦れ合う官能的な音が僕の頭に響いた。
しばらくして彼女は僕の唇から自分の唇を離した。彼女は口の脇に残っている唾液を拭くこともせず、僕の足を挟んだまま膝立ちの状態でいる。尚も僕が朦朧とした意識で、茫然と彼女を見ていると、彼女は驚くべき行動に出た。
彼女は着ていたブレザーのボタンに手を掛けたのだ。彼女はブレザーのボタンを上から全て外すと、サッとそれを脱ぎ、後方へ投げ捨てた。すると今度は自身の胸元のリボンにまで手を伸ばした。
僕は慌ててそれを止めにかかるが、彼女に思いきり顔面を叩かれてまた地面に落ちてしまった。その隙に彼女はリボンを外し、ブラウス姿でその紅潮した顔を僕に向けた。
これ以上は本当にまずいと思った。もしこんな所を人に見られたらどんな誤解をされるか分かったものじゃない。その時人の影は見えなかったが、本来ならば大学の生徒や教授などがそこを通っても全くおかしくないはずだった。警備員が近くにいる可能性だってあった。それに僕には、あの子がいるのだ。そんな僕が、ここでそんなことをする訳にいかなかった。
あれこれと考えている内に、ついに彼女はブラウスのボタンにまで手を伸ばしていた。抵抗する僕を彼女は左手一本で抑えつけながら、自身のボタンを右手だけで器用に外していった。
上から一つずつボタンが外れ、その下の桃色の下着が露わになっていく。着痩せするタイプなのか、彼女の胸は思ったよりも大きかった。僕はもうそれ以上彼女のあられもない姿を見ていることが出来ず、目をつぶって抵抗を試みるしかなかった。
しかし、その時だった。
「赤間、千鶴!」
怒声が闇夜に響き渡った。すると、僕の身体に覆いかぶさっていた重みが消えた。僕が目を開けると、もうそこに赤間さんの姿はなかった。だが、眼前にはさっきの赤間さんよりも信じられない光景が広がっていた。僕は何度も目を凝らした。だが、それは全く消える気配がなかった。頬をつねっても、頭を叩いてみても、ただ痛みがするだけで、世界は全く変動する気配がなかった。
僕の目がようやく眼前の状況を正確に捉える。そこには二つの人影があった。一つはブラウスの前を開けて下着を露出させたままの赤間千鶴の姿だった。だが、もう一つを僕はすぐに理解することが出来なかった。
全身から放たれる銀色のオーラ。右手に握られているのは、まるで中世を彷彿とさせるような銀色の剣。そして腕や足、更に上半身全体を守る銀色の鎧。まるで百合の花を思わせる白色のドレスの様なスカート。それは戦士の物なのか、それともお姫様の物なのか分からないが、剣を持っているその人は、紛れもなく騎士であった。
だが驚いたのはそれだけではない。その騎士の顔には見覚えがあったのだ。いや、見覚えなんてチャチなものじゃない。それは確信だった。僕は彼女を知っている。どんな格好をしていようとも、一目見た瞬間に確信した。黒の長い髪の毛を銀色に変化させ、その髪を黒のリボンで結んでいる。瞳の色はブラウンではなく幾分か青くなっているが、それでも僕は見間違えなかった。意思の強さを反映している様なつり眼、日本人離れした高い鼻、そして吸い寄せられる様に魅惑的な厚い唇……。間違いない、彼女は、僕の大切な人である、真辺梓その人であった。
それが僕と、白銀の騎士との、冬の夜の邂逅であった。
4
「梓なのか……?」
僕の問いかけに白銀の騎士は答えない。言葉を発しないどころか、眼前の赤間さんを睨みつけたまま微動だにしていなかった。一方胸をはだけさせたままの赤間さんも同様に騎士を睨んでいた。睨み合う二人は、真夜中の大学のキャンパスには全く似つかわしくないと僕は思った。
すると、黙ったままだった赤間さんがようやく言葉を発した。
「あたしと牧村くんとの時間を邪魔するなんて、あなた、一体どういうつもり?」
随分と勝手な言い草だと僕は思った。僕は彼女と時間を共にするつもりなんて最初からない。そう思った時、白銀の騎士は言った。
「勝手なことを言わないで。彼はあなたなどと身体を重ねたりしない。同意もなしに身体を奪おうだなんて、身勝手すぎると思わない?」
その声はやはり、真辺梓そのものだった。敵に対してはとことん冷淡な口調なあの子そのものだった。
「そんなこと、やってみなければ分からないじゃない? 男はみんな野獣なのよ。彼らはみんな、女の裸を見れば本性を現してくれるわ。それは、彼とて例外ではないわ」
赤間さんは勝ち誇った様にそんなことを言った。だが、騎士は全く動じた様子は見せず、逆に吐き捨てる様に言った。
「くだらないわ。あなたでは彼を手に入れることは出来ない」
そう言って騎士は、その剣を赤間さんに向け、
「二度と彼に近づけない様に、今ここであなたを殺してあげる」
と、残酷な言葉を浴びせた。
彼女は剣を構えた。それと同時に、赤間さんも何やら体勢を整える。だがこれではどう考えたって赤間さんが不利だ。武器を持っている相手に丸腰で挑むなど、自殺行為に等しい。戦いの結果など、火を見るよりも明らかな様に思われた。僕はこのままでは、本当にあの子が赤間さんを殺してしまうと思った。確かに赤間さんは僕を誘惑したが、それで殺してしまうというのはいくらなんでもやり過ぎだろう。僕は、あの子を殺人者にする訳にはいかないし、クラスメートが目の前で殺されるのを黙って見過ごす訳にもいかなかった。僕は痛む背中をおさえながら、ヨロヨロと立ち上がった。しかし、結果としてそれが恐らく合図になってしまったのだろう。僕が立ちあがると同時に、二人が互いに飛びかかってしまったのだ。互いの怒声が響いた。
人間同士の戦いなど、これまで僕はテレビの格闘技などでしか見たことがなかった。あれだって所詮はスポーツだ。本気で命まで取ろうとはしていない。それは剣道やフェンシングの様に剣を使った競技も同じだ。目的はあくまでポイントを稼ぐこと。殺し合いをするためのものではない。
目の前で繰り広げられている光景は、まさにその殺し合いであった。剣を振るう騎士に向かって、人間であるはずの少女が真っ向から立ち向かい、その騎士の息の根を止めようとしている。騎士は騎士で、少女の人外の動きに対応しつつ、生命を奪うために首に狙いを定めている。それはまるでハリウッドのアクション映画の様だった。だが目の前の光景はフィクションではない。それは本当の、本物の人間であるはずの二人の殺し合いだったのだ。
そんな戦いの前で、僕なんかに一体何が出来ただろうか? 何も出来る訳がなかった。それは止めよう、止められると考えていた自分が馬鹿らしくなるほどの戦いだった。手を出せば僕の命が危ない。そう感じさせるほど鬼気迫るものだったのだ。
戦いは、僕には随分と長い時間続いていた気がしていたのだが、今考えると、それは恐らくほんの数分のものだったはずだ。それだけ二人の動きが速すぎて、僕には捕えらことが出来ないほどだったのだ。僕に分かったのは、戦いの最中、赤間さんの身体が徐々に傷つき、血を流し始めていたということだけだ。
不意に静寂が訪れ、しばしの睨み合いの時間が訪れる。だがそんなものも一瞬だ。勝負の原因が、二人の力の差なのか、それとも彼女の油断なのかは分からない。どちらにせよ、その一撃で勝負は決まったかに思われた。踏み出したことすら分からなかった騎士が、一跳躍で赤間さんの元まで飛んでいき、防御態勢を取ろうとした彼女をあざ笑うかの如く、鋭い剣撃で彼女をなぎ払ったのだ。
赤間さんの腹部から血が噴き出した。騎士の銀の剣も、真っ赤な血で染まった。
僕は自分の身体が震えていることに気付いた。騎士の剣から、血が滴り落ちる度に、心臓が爆発するかの様に脈打った。
血だらけの赤間さんは、騎士の足もとで呻いていた。だが騎士はそんな様子を気にも留めず、両手で柄を持ち、刃を彼女の脳天へ向ける。僕はこのままでは、あの子が、梓が赤間さんを殺してしまうと思った。そんなことは絶対に許せなかった。許しちゃいけなかった。あの子が殺人者になることを、僕は決して許す訳にいかなかった。だから僕は必死で走った。どこが痛かろうと関係ない。その時の僕にはもう何も関係なかった。
「駄目だ! 梓、やめて!」
僕が叫ぶ。彼女の目が僕を捉えた。僕は彼女のその瞳に、初めて人間らしい感情が宿っていることに気がついた。彼女の口が動いた。だが声は聞こえなかった。あまりに切羽詰まっていて、彼女の言葉を聞き取ることが出来なかった。
瞬間、あの子の短い叫びと共に、あの子の身体が十メートル後方に吹き飛ばされていくのが僕の眼に入った。彼女は辛うじて両足でバランスを取り、転倒を防いだ。だが、彼女の左腕の甲冑は壊れ、細い白い腕が露わになっていた。その白い腕も、流れ出した血ですぐに真っ赤に染まった。そして彼女が纏っていた銀色のオーラも霧散してしまっていた。
僕は急いで赤間さんを見た。彼女はブラウスを血に染めながらも、どっしりと地面に仁王立ちしていた。ブラウスの間から見える生傷はとにかく生々しく、血が溢れだしていた。なのに、彼女は倒れなかった。あんな状態になりながらも、無傷の騎士をその拳で殴りつけたのだ。赤間さんの形相は、まるで鬼のお面の様になっていた。あの可愛らしかった彼女や、先刻見せた様な淫猥な雰囲気は、もうそこにはなかった。ただ騎士の命を奪うだけの悪魔になってしまったのだと、僕はその時感じた。
騎士は左腕を押さえながら苦悶の表情を浮かべていた。その様子を見て、完全に人外となり果てた赤間千鶴が、血に染まった白銀の騎士へと突進していった。どちらも手負いには違いなかったが、赤間千鶴と白銀の騎士では、傷によるダメージに大きな違いがある様に思えた。だから僕は、騎士にはもう勝ち目がないと思った。しかしその時、霧散してしまっていたあの銀色のオーラが、また彼女の元へ集まっていくのが見えた。そしてそれは、彼女全体ではなく、彼女の傷ついた腕だけを包んだのだ。すると騎士の表情が痛みを訴えるものから、戦いのみに集中するものへと変わった。
そんな騎士に向かって、悪魔が飛びかかった。だが騎士はその場から動かなかった。ジッと目をつむり、剣を構えていた。その時僕は、騎士の勝利を確信した。どんな格闘漫画や映画でも、無駄な動きをした方が、戦いには負けるものなのだ。
騎士がほとんど見えない位の速さで剣を振った。瞬間、悪魔と化した赤間千鶴の首が跳ね跳んだ。生々しい鮮血が、首のない死体から溢れ出した。まさに一瞬の早業だった。
騎士は目を開けると、一度大きく息を吐いた。そして血に濡れた剣を、持っていた布でふき取り、それを鞘に収めた。
僕が何も言わずに佇んでいると、騎士がこちらの方に顔を向けた。彼女は僕を視界に捉えると、無言のまま僕の方へ歩みを進めた。白銀の騎士が僕へと近づく。僕が口を開きかけると、先に彼女が言った。
「光士郎が無事で良かった」
それは温かみのある、彼女本来の言葉だった。
途端、さっきまで何事もなかった世界が揺らぎ始める。強烈な地震が起き、僕の足元をグラグラにしていった。そしていつしか、僕の視界すらも波を打った様に揺らめき、やがて、何もかもが、見えなくなった。
5
目を開ける。ぼやけた僕の目には、学ランの袖と机が映り込んだ。僕は顔を上げ、呆けたまま教室内を見回した。教室では生徒たちが思い思いに昼食を食べていた。僕の座席は一番左奥の席だ。ここからなら教室中の全ての生徒の動向を把握することが出来た。
僕は隣の席に目をやる。空席だった。それはそうだ。この席は四月の初め頃からずっと空席なのだから。僕は眠気眼をこすりながら、自分の鞄に手を伸ばした。当然、昼食をとるためだ。
「牧村くん」
その時誰かに声を掛けられた。僕に声を掛ける様な人間は限られている。クラス委員の長谷川さん、数少ない友達である早坂君、顔見知りの杉山暁、そして、赤間千鶴くらいだろう。
赤間さんはアイドルの様に笑顔全開で僕の方に近づいてきた。学校中の憧れの存在である彼女は、なぜかいつも僕の席にやって来る。話す内容は本当に大したことはない。僕と彼女では趣味が違い過ぎるからだ。それでも彼女は飽きずに僕に話しかけてくる。
「あれ、牧村くんお昼まだなの?」と彼女は僕に尋ねた。見ての通りでございますと、僕は母親が作ってくれた弁当を彼女の前で広げてみせた。僕は一度教室の前方にある時計を見た。時刻は十二時四十分だった。昼休みは十二時十分からだから、もう既に三十分は経過していた。
「あ、もしかして牧村くん寝てた? ほら、頬っぺた! 痕がついてるよ」
彼女は笑いながら僕の頬を指さした。僕は思わず顔を触った。彼女は楽しそうにそんな僕の様子を眺めていた。
「そっかー、ご飯まだだって分かってたら、一緒に食べたのに」
彼女は僕の前の席に腰掛けながら、そう残念そうに言った。
「え、一緒に?」
「そう、一緒に。……なに? あたし何か変なこと言った?」
「いや、別に……」
僕はしどろもどろしながら再びご飯に視線を移した。ご飯を掴む箸がほんの僅かだけ震えていた。女の子の前では基本僕はこんな感じだ。オドオドしているせいで、よく気持ち悪がられてしまう。平常心でいられるのは、世界でたった一人の前だけだ。
ふと、遠くで彼女の名前を呼ぶ声が聞こえた。恐らくチアリーディング部のメンバーだろう。彼女は大きな声で返答を寄越すと、サッと立ち上がった。そして僕に対して「じゃあね」と言うと、小走りでその人の元に向かった。
僕の周りに平静が訪れた。彼女が過ぎ去った所にはいつも誰もいない。彼女はまるで台風の様な人だと僕は思った。僕はまた黙ってご飯をつつき出した。するとそのすぐ後に、また聞き覚えのある声が響いた。
「また赤間と喋ってたのか。相変わらずモテますな、牧村よ」
僕は何も言わずに鮭の塩焼きを箸でほぐし、それを口に持っていく。
「なあ聞いてるのか? 牧村」
無視していると、その男は僕の顔を覗き込むようにして話し掛けてきた。
「そんなんじゃないよ。赤間さんは僕みたいな人種が珍しいだけだと思うよ」
僕の前の席に座ったのは杉山暁だった。彼とは友達未満知り合い以上の関係だ。彼は僕よりも、梓の友人だった。梓が女子バレー部で、杉山は男子バレー部に所属している。梓が彼と仲が良かった縁で僕も少しばかり話すようになったというだけだ。まあ、それももう昔の話だが。
「そうかねえ。俺はそんなことないと思うぜ。あいつは絶対にお前に気がある。俺も色々と経験してるけど、あれは間違いないだろうな」
杉山は長い前髪をクルクル回しながらそう言った。そしていつも通りに携帯電話を取りだし、LINEやらtwitterをいじり出した。彼は画面を見ながらニヤケ面をする。そして小さな声で「マジかよ、あいつバカだな」と言った。僕が気にせず残ったきんぴらごぼうに手をつけていると、彼は携帯をいじりながら言った。
「どうせなら付き合っちまえば? 赤間と付き合えれば、お前にも箔がつくと思うぜ」
彼は凄いスピードで画面に指を這わせていた。まるで今言った自分の言葉すら、自分は責任を取らないとでも言うかのようだった。
「杉山くん、それ、冗談で言ってるんだよね……?」
僕の質問に彼は答えなかった。面倒なのか、それとも本当に聞いていないのか分からないが、彼は結局何も答えずに立ち去ってしまった。僕は残ったきんぴらとご飯を一気に口にかき込むと、力を込めて蓋を閉じた。そしてまた、僕は机に突っ伏した。
放課後、僕は教室を出ると、フラフラっと体育館の方へ向かった。僕は文芸部に一応所属しているけど、現在はほとんど幽霊部員状態だ。つまり帰宅部も同然ということだ。そんな僕にとって放課後の学校など居づらいだけだ。だというのに、その日の僕はなぜか体育館に足が向いていた。
体育館は教室から直接繋がっておらず、一度外に出てからでないと入れない。そして面倒なことに、体育館に入るには体育館用のシューズが必要なのだ。僕は運動部には入っていないが、体育の授業は当然受けていた。よって僕も体育館用のシューズを持っていた。だけど、その日はそれを持って行かなかった。ちょっと立ち寄るだけだし、中に入ろうとまでは思っていなかったからだ。
僕は体育館の入口までやって来た。ただ入るのには勇気が必要で、僕は途端に尻込みしてしまった。僕は止むなく体育館の別の開け放たれている扉から中の様子を窺うことにした。丁度体育館の左側の扉が開いていた。僕がそこから中の様子を窺っていると、不意に誰かに声を掛けられた。
「やあ、久方ぶりだね。君も覗き見かい?」
話し掛けてきたのは、やたらと爽やかな人物だった。彼はまるで、お金持ちばかりが集まる高校でホスト部でもやっているかの様に端正な顔をしている。彼の名前は鳳元。この学校の生徒会長だ。面倒見がよく、誰に対しても優しいと評判の人物だ。かくいう僕も一度お世話になったことがある。彼の人柄は評判通りのものだった。
「あ、いや、別にそういう訳じゃ……」
「いいさいいさ、男なら覗きぐらいして当然だ」
彼は笑ってそう言いながら僕の背中を軽く叩いた。僕は鳳さんにここに来た理由を聞くと、彼は「当然覗きだよ」としれっと言ってのけた。
しばらく僕らは近況を話し合った。彼はあの事件から僕のことをずっと心配していてくれていたらしく、結構しつこく僕の現状を聞きたがった。
「大丈夫そうなら良かった。あんなことがあったら、不登校になってしまう生徒だっている。君の心が強くて良かった」
彼はそう言ったが、実際は僕の心が強かったからという訳じゃない。それは、彼女が、梓がいてくれたからだ。あの子がいなかったら、僕は鳳さんが言うように不登校になっていただろう。
そう言えば、彼は他にこんなことも言っていた。
「あの事件に関しては、僕はまだ調査を続行している。実は最近になって有力な情報を得てね。しつこく通い詰めたら、若干ばかり口を割ってくれたんだ……。うん、そうそう、中根雄二ね。完全に話してくれるのも時間の問題だと思うよ。裏で糸を引いているやつがいたなら、そいつも処分を受けなければ平等じゃない。君がどう思っているのか分からないけど、少なくとも僕はそう考えている。君がどうしてもやめろと言うのなら、やめないことはないけどね」
生徒会長は案外粘着質だという話も、どうやら嘘ではないらしかった。
彼は一通り話し終わると、体育館で活動中のチアリーディング部の方に視線を移した。チア部ではやはり赤間さんがダントツに目立っていた。他にも可愛い子はいるが、あそこまで可愛い人の前では霞んでしまう。体育館で活動中の他の部員たちも、恐らく赤間さんのことばかり見ているに違いなかった。
僕は鳳さんの方へ視線を移す。彼はどうやらジッと赤間さんを見ているらしかった。珍しく僕がふざけた調子で言った。
「鳳さんは赤間さんにご執心みたいですね」
「そんなんじゃないよ、どちらかと言えば……」
彼はそこで一度言葉を切る。そして体育館から視線を逸らし、そこから歩き去ろうとする。その去り際、彼はこう言った。
「僕は彼女が嫌いなんだ」
彼はそう言い残すと、もうこちらには振り返らずにその場から立ち去ってしまった。僕は彼の言葉の意味を計りかねて、ただただそこに立ちつくしていた。
6
その日も僕はいつも通り病院に向かった。いつも通り病院行きのバスに乗り、いつも通り病院の売店で明治のミルクチョコレートを買った。そして、いつも通りそのチョコレートを彼女のベッドの脇に置いた。
僕自身あまり甘い物は好きではない。だから普段からチョコやビスケットといったものを好んで食べたりはしない。僕がチョコを買うのは、あの子の大好物が甘い物だからだ。決して食べてくれないと分かっていても、僕はどうしてもそれをお見舞いの品として持ってきてしまうのだ。
彼女のベッドの脇には、前日買ってきたチョコがそのままの状態で残されていた。うっかりしていた。どうやら前日持って帰るのを忘れていたらしい。彼女のお母さんに処分させるのも忍びないので、自身で処理してしまうことにした。
売店でコーヒーを買って再び病室に戻る。そして久しぶりにミルクチョコの袋を開けた。中からはカカオの甘いにおいが込み上げてきた。僕はチョコを歯で割る。すると思いのほか一口分が大きくなってしまった。僕は仕方なくその大きな欠片を頬張ると、カリカリ音を立てながら咀嚼し、缶コーヒーでそれを喉の奥に流し込んだ。そしてそれを何回か繰り返した。
チョコを食べ終わると、僕はウトウトとしてきてしまった。そう言えばその前日もそこで寝てしまった様な気がするが、なぜだかその時の記憶がやけにぼやけていた。その時の僕は、正直に言うと、何時にここを出たのかも覚えていなかった。
彼女の手を握りながらも、僕の視界は段々とぼやけていった。もし眠るとしたら一時間程度にしておこうと僕は思い、目を閉じた。
身体が震えた。あまりの寒さに目を覚ました。辺りはすっかり真っ暗だった。灯りは見えるも、人の話声はなかった。
僕はまだぼんやりとした頭で歩き出した。すると、足元に何かぶつかった。僕は、目を擦りながらそれを見やった。
首のない死体だった。
あまりの恐怖に気が動転し、柄にもなく叫び声を上げてしまった。急いでその場から逃げようとするが、地面に転がっている死体に足を取られてしまった。転んだ先には、鬼の形相をした人の顔があった。今度は声も上げられなかった。完全に腰を抜かしてしまったのだ。僕は地面に尻もちをついたまま情けなく後ずさりした。僕は動転しながらもその死体を観察した。それは、赤間千鶴の死体だった。その時僕は思い出した。彼女は、昨日あの白銀の騎士に殺されたのだということを。
しかし、それはおかしいと瞬時に気付いた。だって僕は先刻、教室で赤間さんと言葉を交わしたのだから。いつもの様に、いつも通りのあの笑顔で、彼女は僕の所にやって来たのだ。それに、鳳さんと一緒に、放課後チア部で活動する彼女を覗いたりもした。「僕は彼女が嫌いなんだ」という鳳さんの言葉だって、僕はしっかりと覚えていた。だからあれが全て嘘だった訳がなかった。だが、そこに転がっている死体と、赤間さんが死体になる瞬間も僕は確かに見た。生々しく飛び散る鮮血が嘘だった訳もなかった。
僕の頭はすっかり混乱していた。鮮明なのに、相反する二つの記憶。これを説明することが出来なくて、僕の頭はパニックを起こしたのだ。
「派手にやられたもんだな」
突然背後で声がした。僕は瞬間的に振り返った。そこには、気だるそうな顔をした杉山暁の姿があった。教室で見る様に、彼は髪を無造作にはねさせ、学ランの前を開けワイシャツの第二ボタンまで外していた。首には銀のクロスのペンダントがついたネックレスが下げられ、腰にはチェーンがついている。それは確かに、僕の友達未満知り合い以上の関係の人物であった。
彼は物珍しそうに赤間さんの死体を眺めている。すると彼はポケットから携帯を取り出した。そしてなんと、あろうことか、赤間さんの死体をカメラで撮影し始めたのだ。僕は言葉を失った。彼は楽しそうに「すげー、キモー」とか言って撮影会を楽しんでいる。常軌を逸していると思った。死体を見るだけでも恐ろしいのに、写真を撮れる神経が僕には理解出来なかった。ましてやそこで死んでいるのは、クラスメートだというのに、どうして彼はそこまで無神経でいられるのだろうか。
「ほら牧村、やっべえぞこれ。マジキモイ、きゃははは。これtwitterに上げようかな。やっぱ駄目か、いくらなんでもヤバすぎるか」
僕はその時、ふとあの子の言葉を思い出していた。
――あいつは異常だよ。私は、あいつとの縁を切ることにした……。
それはある時僕の部屋で彼女が言っていた言葉だ。何があったのか彼女に問うと、彼女は苦々しそうな顔で答えた。「ストーカーをされている」と。それを聞いた時は、いくらなんでもそこまで彼がするかなと思った。彼は顔は悪いが、見た目には結構気を使っているためか、彼女がいつもいた。少なくとも僕が聞いた範囲ではだが。そんな彼が、クラスメートをストーキングすることが信じられなかったのだ。
だけど、その時僕は理解した。毎夜家の近くまで女の子を追いまわす杉山、死体を見てキャーキャー騒いでいる杉山。その二つがその時はっきりと重なったのだ。彼ならやりかねない。彼は危険だ。頭が恐怖で埋め尽くされた。だが、そのすぐ後だった。
彼の笑い声が消えた。水を打った様に、辺りは静まり返る。僕は恐る恐る、横の彼を見た。
彼の胸から、何やら棒の様な物が生えていた。棒の先端からは、赤い液体が滴り落ちていた。そしてその水滴が、徐々に大きな水たまりを作っていった。彼の顔は、笑顔のまま固まっていた。よく見ると、彼の口元からは、水たまりと同じ様な赤い液体が滴っていた。
棒が引き抜かれる。彼の身体が、ゆっくりと、まるでスローモーションの様に前のめりに倒れていき、バシャと、気色の悪い音を響かせて、彼の身体は地面に落ちた。少しの間ヒクヒクと動いていた彼の身体も、少し経つともう全く動かなくなった。
僕は首だけで棒の様な物が消えた方を見た。そこには、無表情で剣と杉山の死体を見比べている白銀の騎士の姿があった。彼女は刃についた血を振り払うと、それを素早い手つきで鞘に戻した。すると彼女は表情を変えずに死体に方に歩み寄る。
「この人でなしが」
彼女は血だまりの死体に対しそう吐き捨てた。僕はその様子をずっと固まったまま見つめていた。言葉など何も言えるはずがない。目の前で人が絶命していく様を見て、普段通りに振る舞える人などいる訳がない。例え、それをやったのが、自分の恋人だったとしても。
僕が固まったまま彼女を見ていると、彼女は僕の方に視線を向けた。まるで氷の様に冷徹な表情。それは時折彼女が見せる表情。憎むべき相手に対して、彼女は怒りを剥き出しにしたりはしない。いつも信じられないほど冷酷な表情をして相対する。それはまさにその時の表情だった。
「光士郎……」
彼女の表情が少し憂いを帯びたそれへと変わる。何でもいい。とにかく声を掛けてあげたかった。でも、口を開きかけた僕を彼女が遮った。
「何も、言わないで」
彼女は寂しそうに僕にそう言った。そんな彼女の様子が痛々しくて、僕はどうしても彼女を抱きしめてあげたかった。僕は苦しみから彼女を解き放ってあげたかった。でも、僕は彼女に触れることが出来なかった。目の前にいるのに、こうやって言葉を交わせるのに、僕は何も出来なかった。自分の無力さを、ただただ痛感するしかなかった。
彼女は儚げな顔のまま、何も言わずに僕の目から視線を逸らす。彼女との距離が僅かに離れる。僕はせめて彼女から離れまいと足を踏み出す。その時、白銀の騎士を月明かりが照らし出した。彼女の銀の鎧は、月の光を受けてより一層輝きを増した。彼女はまるで、夜空の一等星の様であり、闇夜に咲く一輪の花の様でもあった。
彼女はふと棒立ちの僕を見た。その表情は、まるで今にも泣き出しそうな、そんな雰囲気すらあった。彼女は一度唇を噛みしめ、寂しそうな顔で言った。
「光士郎、彼らには近付かないで……」
僕は学校での彼女を思い出す。僕が赤間さんと言葉を交わすと、彼女はいつも機嫌を損ねた。理由を尋ねてもいつも答えてくれなかった。でも、その時は、その理由も分かる気がしていた。梓が杉山とは関わらなくなった後も、杉山は僕に絡んできた。梓はきっとそれを不愉快に思っていただろう。自分をストーキングした男と言葉を交わすこと自体、汚らわしいことだったに違いない。でも大丈夫だよ。僕は二人に心を許していた訳じゃない。僕には君しかいない。君が僕の全てだ。だから、そんな顔をしないでほしい。そう伝えたかった。
だけど、僕の意識は、僕の意思とは裏腹に急速に薄れていった。言葉を、想いを伝えなければならないのに。たった一人で戦っている彼女に、伝えなければならないのに、僕の視界は真っ黒になっていった。
7
ここまで書いたことが、ここ数日で僕が体験したことだ。ちなみに僕が翌日学校に行くと、やはり赤間千鶴も杉山暁もピンピンした様子だった。あの凄惨な殺人は、現実で起こったことではなかったのだ。では一体、あれは何だったのか?
僕の仮説はこうだ。あれは、あの子の、真辺梓が見せていた夢だったのではないかということだ。僕は彼女の病室でこの夢を見た。それも決まって、彼女の身体に触れている時だったのだ。そして夢の中には決まって、彼女が現れた。それも決まって騎士の恰好でだ。
夢とはその人の精神世界が反映されるという。確かに彼女の性格から考えても騎士はピッタリの恰好だが、僕は彼女のそんな姿を想像したことはないし、僕が考え知れないこともあの夢には出てきた。よって、あれは僕自身が創り上げた夢ではないと考える。まあそもそも人に夢を見せるという発想も、かなり無理があることなのかもしれないが。それでも僕は彼女が夢を見せているという説を採用したい。僕はあの夢を二日続けて見たのだ。これに何も意味がないはずがない。
では、、あれには一体どんな意味があるのだろうか。僕はこう考える。あの夢は、彼女の願いそのものなのだと。梓は赤間千鶴を僕に近づけたくないと思っていたのは間違いない。でもその時は、彼女が僕を赤間さんの元から引き離すことは容易だった。だって僕たちは同じクラスだったんだから。でも今、彼女にそれは出来ない。僕から赤間千鶴を引き離す手段がないことに、彼女は苛立っていたはずだ。いくら僕を信じていると言っても、男という生き物は完全には信用出来ないのが世の常だ。それは夢の中の赤間さんも言っていた。
夢の中で、梓は赤間さんを殺した。それはつまり、彼女を僕に近づけたくないのに何も出来ない現状への不満を暗示しているのだと、僕は思った。彼女が本当に赤間さんを殺したいと考えているとは思わない。だが、あれほどまでに赤間さんを攻撃するほど苛立った強い想いがあったと考えることは出来る。梓にしては理性的ではなかったし、少し残酷すぎる気もしたが。
次に杉山に関してだが、彼に関しては言わずもがなだ。彼は梓をストーキングしたのだ。梓が彼を憎むのは当然だし、僕と口を利いてほしい訳がないだろう。夢の中で彼女は、杉山に毒を吐いていた。恐らくあれは彼女の本心だろう。問答無用で後ろから一突きしたところを見ると、憎しみも一塩と思われる。
以上のことからも、梓が赤間千鶴や杉山暁を僕から引き離したいのに、現状それが叶わないことをへの鬱憤から、先の夢を創り出したと言えると思う。このことは僕自身が撒いた種でもある。彼女に入らぬ心配をさせた僕の責任は重い。僕は彼女に誓わなければならない。僕は絶対に君を裏切りはしないと。
それを伝えるためには、現状僕には手段が一つしかない。それは、もう一度あの夢の中に行くことだ。夜の大学のキャンパスで待つ、白銀の騎士の元に行かなければならない。そして早く彼女を安心させなければならない。
とにかく、僕の仮説はこんな感じだ。本当に僕が彼女の本意を捉えきれているのか分からないし、そもそも夢はただ僕が見ているだけという可能性も否定出来ないから、詳しいことが分かり次第、また記していこうと思う。
僕は早く彼女の本意を明らかにしなければならない。彼女の笑顔を、もう一度見るためにも、早くなんとかしなくてはならない。
ついに騎士が登場!
割と派手にやってくれてます笑