貧乏草とオオイヌノフグリ
あなたは、ふと目を覚ます。
暗い森。そよぐ風。ざわめく木々。
樹木の太い枝に縛りつけられた丈夫な麻縄が、月明かりに照らされてゆらめいた。
「…………」
周囲に満ちるしっけた土の匂いをすんすんと嗅ぎながら、その小さな白い手で、ほんぽうに跳ねた後ろ髪を雑にすく。
がざがざとした感触。ネコ毛みたいな栗色の髪に絡まっていたのは、赤黒い乾燥した体液がべったりと付着した一枚の落ち葉だった。
「…………」
あなたはどこか不機嫌そうに唇を横一文字につぐみ、小さな手のひらの上にある落ち葉を、その大樹の洞のような真っ黒な瞳で、ただただ無言で凝視する。
そして、あなたは、それを。
「――――」
喰った。
レベルが上がった。
レベル一に到達した。〝筋力Ⅰ〟を獲得した。
ばりばりと、自身の体液が固着した落ち葉を咀嚼し、飲み下す。
ぐーっと、お腹がひとりでに震えて音が鳴る。
可愛らしいキャラクターが彩る着衣の上から、たいらなお腹まわりをいくどかさすった。
おそらくは妖精をモチーフにした子供向けのキャラクターなのだろう。
二対の翅と尖った三角耳を持つ、金髪碧眼のメルヘンチックな妖精が、着衣に広がる黒ずんだ体液の染みの中ではつらつと笑っていた。
夜半。
月下の深い森。
あなたは踵のすり減った、しかし履きなれないスニーカーを重そうに引きずって、暗い森をあてもなくさまよい歩く。
山道と呼ぶのもおこがましい、山間を縫うように走る曲がりくねった獣道。
鋭利な枝と葉を持つ下草が、衣服で守られていないむき出しの四肢を容赦なく傷つける。
隆起した木の根に足を取られ、あなたは受け身もとれずに顔面から地面へと転倒する。
両ひざと両手をすりむき、しめった腐葉土が顔中を黒く汚した。
それでも起き上がる。
それでも歩き出す。
あなたは、おもむろに地面に落ちていた折れた木の枝を拾い上げると、自分の腕ほどの太さがあるそれを勢いよく叩き折り、いっさいのためらいなく全力で齧りついた。
「……?」
泥土に汚れた丸いほっぺをもちもちと動かして、無表情のまま樹木の枝をバリバリと咀嚼する。前歯がすべて砕けた。上あごの大臼歯の半数が割れた。口内の違和感に小首をかしげながらも、砕けた乳歯ごと堅い枝を噛み砕いて飲み下す。
レベルが上がった。
レベル五に到達した。〝知覚Ⅰ〟を獲得した。
損傷が全回復した。
「――――」
強化された聴覚が遠くの水音をとらえたのは、手足の傷の修復が完了し、砕け散った前歯と奥歯が歯茎から綺麗に生えそろった直後のことだった。
いつの間にか夜が明けていた。
倒木につまずいての転倒五回、切り立った暗い崖から転がり落ちること三回。
着衣はあっという間に穴だらけ、顔から足元まで全身生傷だらけになりながら、それで執拗に空腹を訴え続けるお腹をさすりつつ、山中をのろのろと歩き続けて丸一晩。
しらむ空。大きくなる水音を頼りに、朝霧に煙る雑木林をかき分ける。
「…………」
ついに渓流が現れた。
深緑の樹木と丸い白石に彩られた、美しい翡翠色の川だった。
流れは急だが、水質はどこまでも清らかで透明度が極めて高い。まだ日も十分に高いとは言えないのに揺らめく川底が顔を見せている。
ふらふらと、そのせせらぎに吸い寄せられていく。河岸に鎮座する巨岩に手をつき、玉砂利を踏み締め、いつもの調子で清流へと足を踏み入れた。
一歩、二歩、三歩、四歩目。
あなたは流された。
「……?」
もがく。手足を最大出力で稼働させ、姿勢制御に努めた。
けれど、手足は水面を無様に叩くのみ。手足は水をかけず、すり抜ける。
白く泡立つ水中に、腹を上にしてのろまに泳ぐ魚影がひとつ。その銀発色の魚影を掴み取ると、さらに勢いづく河流になすすべもなく押し流されていった。
時おり滝つぼに突き落とされながらも、捕らえた川魚を握りしめ、どうにかこうにか川岸へとたどりつく。どうやら随分と下流へと流されたようだ。川幅は広がり、水深は深く、流れが格段に穏やかになっている。
すっかり息絶えた銀発色の川魚を、あなたは喰らった。
全身から水滴を滴らせながら、柔らかな川魚の腹にかぶりつく。すっかり泥土の洗い落とされた青白い顔面に栗色の前髪を張りつけて、魚の頭をかじりながら河岸の砂地へと座り込む。
三口ほどで食べ終えた。
物音がした。
視線を落とし、両手についた赤い血液をちろちろとなめとっていく。
レベルが上がった。
枯れ枝が折れる音。
レベル三〇に到達。〝耐久力Ⅰ〟を獲得した。
遠くの茂みから重たい足音が猛烈な速さで近づいてくる。
損傷が全回復した。
能力〝析出〟を獲得し――。
直後、視界が真横に吹き飛んだ。
「……ぁ」
右わき腹を押し潰され、潰された右肺がふいごとなって喉を鳴らす。
鋭く重たい一撃が、あなたの右半身を横合いから抉り取ったのだ。河岸の砂地の上をゴム玉もかくやとバウンドしながら跳ね飛ばされることしばし、襲撃者は追撃の手を一切緩めなかった。
赤く濁った視界に、慈悲なき襲撃者がようやく映り込む。
それは黒い剛毛が全身を覆う巨大なクマであった。
四肢を地面につけた状態で、その体高はあなたの肉体の二倍弱、直立すれば三倍以上の体長になるだろうか。風を切って振り抜かれる前腕は丸太も同然の直径であり、その先端に生えそろう尖ったかぎ爪は、鉄製の檻にすら深い爪痕を刻むだろう。
「…………」
ほとんどひきにくにされて使い物にならない邪魔な右腕を、その場でぶちぶちと引きちぎって左手に吊り下げる。全身からとめどなく流れ落ちていた透明なしずくは、今はもう赤黒い体液に染まりきっていた。
極度に興奮した様子のクマが、鼻息荒く、唸りを上げて突進してくる。
猛然と駆け寄ってくるクマの鼻ずらめがけて自ら引きちぎった右腕を投擲した。
いくらかひるんだ様子だが、それでも猛進する巨体の内包するエネルギーは、あなたを三度ひき肉にしてもおつりがくるだろう。
背後は岸壁。左右に逃れたところで意味がない。
敵の敏捷性はあなたの肉体の能力をはるかに凌駕している。
時間もない。さきほどの先制攻撃によって生命維持に不可欠な血管と臓器の複数損傷していた。まもなく、この肉体は停止する。
退路など最初からありはしないのだ。
衝撃に備えて腰を落とし、上体を小さく丸めた。
「――――」
あなたは〝析出〟の能力を使用する。
再度振るわれた剛腕を真正面からその身で受けた。
太い枝が連続して砕かれる音が、かぎ爪が深々と突き刺さったあなたの肉体から鳴り響く。
あの黒い巨体が初めてよろめき、悲鳴に似た唸り声をあげて後ずさる。
剥離し、引き裂かれた木片が砂地に舞い落ちた。
続けてぼろりと地面に落ちたのは、根本から折れた黒いかぎ爪と獣毛の生えた肉片。
滴り落ちる巨獣の鮮血。
あなたの全身に、剣山さながらに密集して生えそろった太い枯れ枝が、クマの前腕の横なぎを受け止め、跳ね返し、さらには手傷すら負わせてみせたのである。
「…………」
能力によって体表面上に生やした枯れ枝の表面に、まばらに付着したクマの肉片と血液を指先でこそぎ取り、その黒い獣毛ごと口内へと運んだ。
くちゃくちゃと咀嚼する。
飲み下す。
燻ぶっていた炉に純青の火が灯る。
力が湧き上がる。
レベルが上がった。
レベル一二〇に到達。〝敏捷性Ⅰ〟を獲得した。
損傷が全回復した。
能力〝変身〟を獲得した。
「――――」
レベルの上がった恩恵を行使し、瞬く間に右腕を片口から生やして、潰れた右半身の正常な状態に戻したあなたは、新しく得た能力を使用した。
生えそろった両腕が別の生き物さながらにうごめきながら、骨格と筋組織が人体の枠から大きく逸脱して、隆起し、巨大化する。
獰猛なかぎ爪、肉球、黒い剛毛に覆われたアンバランスなほどに巨大な獣の前腕。見る間に発達して、だらりと地面まで垂れ下がった手の甲が、その自重によって砂地に沈む。
腕部から駆け上るように生えた黒い獣毛は、着衣として最低限の機能すら喪失したボロボロの布切れに代わって、上半身の大部分を覆い尽くしていく。
ついには首上にまで獣化は進行した。髪色は黒くなり、丸い耳が頭上で立ち上がり、獣相が現れる。鼻と口がとがり、犬歯が鋭く発達する。
体毛に覆い尽くされた黒い相貌が、眼前の標的を次の獲物に定めて指向する。
あなたは叫ぶ。
「ニャー」
クマがびくっと体を震わせた。
その隙を逃さない。
発達した巨大な左前腕で地面を蹴って瞬時に肉薄すると、振りかぶった右前腕を頭部へと叩き込む。
漆黒の首が宙を舞い、翡翠の清流が緋に染まる。
喰らう。
喰って、食って、喰いまくる。
レベルが上がった。
レベル五〇〇に到達。〝魅力Ⅰ〟を獲得した。
レベルが上がった。
レベル一二〇〇に到達。〝知力(外付け)Ⅰ〟を獲得した。
能力〝分割思考〟を獲得した。
「……げふっ」
あなたは三日三晩、この川岸でクマを食べ続けた。
肉の一片、血の一滴、骨すらも残さず平らげた。
「…………」
あなたは上機嫌だった。近くの雑木林の下草を刈って寛げる場を設けると、獲得したクマの獣相を維持したまま、肋骨の最後の一本をしゃぶりながら仰向けに寝転がった。
なんだかとても満たされているような気がする。
清流のせせらぎ、吹き抜ける風。
木々の隙間から降り注ぐ陽光のなんと温かく心地よいことか。
生き物の声が聞こえない森の中で、手足を無防備に広げて目を閉じた。
「ねぇ、起きてよ! ねえっ、起きてってば!」
まもなく幻聴が聞こえた。
あなたは鬱陶しそうに重たい瞼を片方だけ持ち上げる。
目の前に変な生物がいた。淡い黄金色の燐光をまとい、四枚の薄い翅を広げ、一度も羽ばたくことなく優雅に浮いている。
「…………」
なんだかよくわからないので、あなたはそれを食べてみることにした。
「わっ、わっ! ちょっと! むぐぅーっ」
仰向けの体勢のまま、長くて太いクマの腕で羽虫みたいに俊敏に飛び回るそれをむんずと掴んで引き寄せる。間近で見た発光するやかましい羽虫は、なぜか人間の身体的特徴が随所にちりばめられていた。
「たべないでーっ! 私まずいよーっ! おいしくないよーっ! 可食部ないよーっ! お腹壊すよーっ!」
ぎゃー、ぎゃー、とさらに騒がしくなった。
たしかに食べ応えはなさそうだ。
今はまだ満たされて上機嫌なあなたは、そのやかましい羽虫を素直に手放した。
「はー、たすかったー」
羽虫は弱々しく自発光しながら、へなへなとした光線を描いて地面に不時着する。
あなたはむくりと起き上がると豪快に胡坐を組んで、頭上からその羽虫を見下ろした。
「とにかく自己紹介しましょ! 私の名前はオオバコ・ベロニカ! 見ての通りの妖精よ! よかったら気軽にオオバコとか、ベロニカって呼んでね!」
「…………」
「で、あなたの名前は? もし無いなら、私の名前と同じように、今ここで適当に考えてあげましょうか?」
妖精を自称する羽虫、オオバコ・ベロニカ。彼女、もしくは彼だろうか?
おしゃべりな妖精の名前を繰り返し口ずさみ、あなたはたった今、自分で思いついた、自分の名前を初めて口に出す。
「……ハルジオン」
「ハルジオン。なんだか呼びづらいわね。……ハルって呼んでいい? わたしのこともバコとか、ベロとか、ニカって呼んでいいから。ね?」
「……うん」
あなたは無表情のまま頷いた。
ベロニカは無口なあなたの分までしゃべり続けたが、日が暮れるにつれて口数も少なくなっていった。
だが、このままおとなしくしているのか思えばそうではなく。
彼女(暫定)の提案によって焚火をすることになり、火を熾す過程において羽虫以下の働きしか期待できないベロニカのやかましい応援に長時間さらされるはめになった。
「――つまり私は、あんたが投げ捨てた右腕から生まれた妖精ってわけなの!」
ででーん。ベロニカは自分の口で効果音をつけながら、両手を腰に当てて、そのまっ平らな胸を大きくそらした。
「どう? びっくりした?」
「…………」
「もう、反応薄いなー」
彼女から一世一代の大告白があるからと黙って耳を傾けていたが、どうやらこれがその大告白であるようだ。ようするにベロニカは、黒い大熊との戦いの最中に引きちぎり投擲した右腕から発生した妖精であるらしい。
なお、発生原因は不明である。彼女いわく、気合であるらしい。
「ふー、人生で一番大切なことを伝えたからなんだか疲れちゃった。さ、今日はそろそろ寝ましょ? 私だって、まだ発生して数日の赤ちゃんなんだし。赤ちゃんは寝るのが仕事ってね」
ほら、ここに横になって。
ベロニカは小さな体を焚火のそばに横たえて、自分のとなりの地面をぽんぽんとたたく。
なんとなく、このまま寝てしまってもよかったが。
なんとなく、口寂しくなってきたような気がしたあなたは、ベロニカの首根っこをむんずと摘まみ上げる。
「みぎゃあっ、ちょっとなにすんのよ⁉」
騒がしい妖精を頭の上の丸耳の間にしがみつかせ、あなたは夜の森を疾駆する。
「あー、お腹が空いてきちゃったから夜食を探しにいくのね?」
どうしてわかるのだろうかと、あなたは思った。
「そりゃわかるわよ。だって、私はあなた。あなたは私なんだから。文字通り、一心同体だったわけだしね」
「…………」
「ねえねえ、店屋物はなに獲るの? やっぱりお寿司? わたし、近所のお寿司屋さんの特上がいいなー ほらー、でっかい桶に入ってるやつー」
「…………」
あなたはおしゃべり羽虫の意味不明な戯言を聞き流しながら、暗い森を縦横無尽に駆け抜けた。
闇夜に溶け込む漆黒の剛腕が、かすかな風切り音と共に鹿の首をねじり飛ばした。
吹き出す鮮血を全身に浴びながら、二頭目、三頭目と、山間の闇夜で息を殺していた草食獣の群れを食い荒らす。
そのまま一息のうちに三頭の鹿を仕留めたあなたは、クマの獣相の剛力にものを言わせて、大きな鹿の体を近くの川岸へと引きずっていく。
あなたは最後の小ぶりな一頭を頭上へと担ぎ上げ、腐葉土の体積した見通しの悪い獣道を踏み締めた。
「ジビエ料理かー、私も山生まれだけど、ジビエって生まれてこの方まだ一度も食べたことないのよねー。どんな味が――」
あなたが森の奥を凝視して息を殺したのと同時に、ベロニカも口を閉ざした。獣相の体毛に小さな体を半分以上も埋没させて、怯えた表情で小刻みに肩を震わせた。
「うそ。なにあれ?」
その答えを持ち合わせているものはこの場にいない。
木々の暗がりから指向性の高い赤い光線が伸びて、あなたの額にぴたりと定まる。
光線の伸びる方向から鳴り響く低い駆動音を察知した途端、耳をつんざく爆音が闇夜に轟いた。とっさに大切な獲物を投げ捨て、五体を投げ出し地べたに伏せる。
「――!」
初弾を避けられたのは奇跡と表現してよかった。
無数のどんぐり型の金属塊が音よりも早く連続射出され、射線上のありとあらゆる自然物を薙ぎ払っていく。大切な仕留めた鹿は、投げ捨てた直後に空中で被弾して霧状に飛散し、闇夜の森を肉の色で彩る奇妙なマーブル模様になり果てた。
「なんなのよ、もう! あんなのあり⁉」
「…………」
理不尽な暴威が過ぎ去るのを待ち望む。
彼我の距離はクマの獣相の全速力できっちり一〇歩。爆音が途切れたのを見計らって飛び起き、対象へと肉薄する。あの威力を勘案するに、遮蔽物に身を隠しながら接近するのは得策ではない。
真正面から、まっすぐ、一直線に、最大速力で距離を詰めていく。
あなたから振り落とされまいと後頭部にしがみつくベロニカの唸り声は、掃射を再開した爆音によって儚くかき消された。
それでもあなたは決死の猛進を完遂し、ついにこれまでの常識が通用しない未知の敵の全容を肉眼でとらえた。もちろんこの新しい脅威は新種のクマなどではないし、そもそもこの山に存在してよい存在でもない。
「なにあれ。ロボット?」
おしゃべりな妖精がまたなにか意味不明なことを呟いている。
月下に煌めくそれは、なめらかに湾曲した金属製のプレートが全身を覆う銀の巨人である。
あなたと同じく五体があり、回転する円筒形の機構を両腕で保持し、指先ひとつで音よりも早く飛翔するどんぐり型の金属塊をばら撒いている。
脅威ではある。だが実際のところ、あなたは対象の戦闘能力をそれほど高く評価しているわけではなかった。戦闘の緊張具合で言えば、クマに先制攻撃を許した時のほうが遥かに勝ると評価せざるを得ない。
「……ぬるい」
その証拠に、対象の身のこなしがあまりにもお粗末だ。両手に抱えた武具の性能を過信している証拠である。だからこうして一度でも懐に潜り込まれてしまえば、このように——。
股下から抉るように繰り出されたクマのかぎ爪が、巨人の銀白色の流線形の胸板を深々と切り裂いた。
スパークと共に火花が噴き出す。
巨人の胸板の奥から聞きなれない発声の悲鳴を聴く。
あなたは確信した。
間違いない。やれる。こいつは、楽勝な獲物だ。
剛腕を駆使して銀の巨人を地面へと引き倒すと、斬り裂いた胸板に両手の爪を突き立てて、強引に切れ目を押し広げていく。より甲高い悲鳴が白銀の胸板の奥から鳴り響いていた。最後の柔らかな被膜を引き裂くと、透明な赤い結晶が現れた。その八面体の結晶は、外気に触れた途端に小刻みに震えて露に濡れた。
あなたは巨人の胸部からその結晶を引き抜くと、結晶体を握りつぶす。
砕けた結晶から汁がにじみ出た。あなたは何度も匂いを嗅いでから、圧搾によって流れ出た液体に口をつけた。
レベルが上がった。
レベル三万二〇〇〇に到達。〝運Ⅱ〟を獲得した。
能力〝無機物消化〟を獲得した。
無機物が食べられるようになった。
「あの赤い結晶の汁、まあまあおいしいわね。フルーティ?」
「…………」
味覚も共有しているらしいベロニカの批評に耳を傾けながら、あなたは獲得した能力を遺憾なく発揮し、白銀の巨人から金属板を引き千切っては口へと運び、バリバリと噛み砕いて飲み下す。
「うへー、そっちの銀色のはまずい。なんか粘度みたいな味」
次は腕を食べてみようか。
そう思って銀の巨人の腕を持ち上げた直後だった。
周囲の風景がぐにゃりと歪む。
「ちょっと、なに⁉」
瞠目するベロニカが頭にしがみつく。
「――ハルっ」
周囲が白い光に包まれ、あなたとベロニカはこの惑星上から消失した。
レベルが上がった。
レベル九〇〇億に到達。〝筋力Ⅱ〟を獲得した。
銀の巨人に搭載されていた緊急脱出装置が起動したのだろう。空間的な隔たりを跳躍して、あなたが瞬間的に送り込まれたのは、あの銀の巨人という外骨格を製造した生命体の母船、そのエネルギー貯蔵タンクの内部だった。
おそらくあなたとの戦闘で装置が故障して、戻る座標に狂いが生じたのだろうとベロニカはいろいろな予測を披露してくれていたが、あなたにはよくわからなかった。
生命体が数百万規模で暮らし、星々を渡る巨大母船。
その貯蔵タンクに蓄えられたエネルギーの総量はいかほどであろうか。
極限まで濃縮されたエネルギーの塊の中に放り込まれたあなたは、それをあまさず、一滴残さず、喰らい尽すと決めた。
レベルが上がった。
レベル三兆八〇〇〇億に到達。〝耐久力Ⅱ〟を獲得した。
能力〝自律型思考ナノマシン〟を獲得した。体内にナノマシン生成叢が形成された。
ナノマシンは外分泌腺を通して、現状において毎分五十億から百億個程度を外部へと連続して放出することができる。あなたは意のままにナノマシンを操り、標的とした捕食対象を分子レベルで分解し、エネルギーとして吸収することができる。
あなたはナノマシンを体外へと放出、貯槽タンクに蓄えられた未知の溶液を自分の肉体に活用できるエネルギーへと消化して、吸収する。
体内で濃縮に濃縮を重ねた超高密度のエネルギーが出口を求めて、あなたの肉体という殻を突き破らんと暴れまわる。
レベルが上がった。
レベル八二〇京に到達。〝魅力Ⅱ〟を獲得した。
損傷が全回復した。
「――――」
「――ハルっ」
ベロニカが叫び、その小さな体であなたを抱きしめる。
全身の血管が次々と破裂し、意識が濁り、思考は途切れ、死と再生を繰り返す。
己がなにをしているのか、それすらも定かではない。
レベルが上がった。
レベル五〇垓に到達。〝知力(外付け)Ⅱ〟を獲得した。
損傷が全回復した。
「…………」
自分とはなにか。なぜ発生したのか。自然発生か、人工的に生み出されたのか。この肉体の本来の持ち主であるはずの存在はなぜ、あの山中でひとり横たわっていたのか。この力はなんなのか。なぜこんな意味不明な強大な力がこの矮小な身に宿ったのか。
わからない。なにひとつわからない。
「…………」
あなたは、秒間二万回の頻度で脳漿を炸裂させながら、あれこれと思考を巡らせる。数万倍に引き伸ばされた時間感覚の中で、瞬きほどの実時間を費やし、永久無限に尽きないかに思われた異星生命体の母船のエネルギー源を喰い荒らす。
「……っ」
波が来る。
体内で暴れるエネルギー密度がまた一段と高まったのを感じる。
クマの獣相などは、破壊と再生を繰り返す中でとうに消し飛んでいた。電球のフィラメントも同然に白熱した肉体は、いまにも焼き切れてしまうのではないかというほどに、体内からまばゆい閃光を発し続けている。
まもなく頭部から綿毛のような黒い何かがふわふわと落ちてきたので、あなたはそれを両手でそっと受け止めた。
明滅する視界を動かして、手の中に視線を落とす。
「…………」
それはベロニカだった。
投げ捨てた右腕から発生したという小さな妖精。
彼女の美しい翅も、髪も、瞳も、その特徴的な三角耳も、もはや影も形もない。
彼女は恒星に比肩するほどの高熱を発するこの身にへばりつき、レベルの上昇と共に死と再生を繰り返しながら、己が肉体を焼き続けたのだ。
死を受け入れたのか、起き上がる最低限度の意思すらも燃やし尽くされたのか、真っ黒な消し炭になりはてたベロニカは、とても静かだった。なんだかそれが悲しかった。
「…………」
あなたは彼女の残骸を喰らった。
吸収し、融合し、合一する。
欠けていた最後のピースがカチッとはまった。
臨界点へ至る。
全身からこれまでにない黄金色のひかりが溢れ出し、 ひとつの爆発が起こった。
析出する。
体内で練り上げられたエネルギーの塊が、成果物が、超高密度の縮退物質となって体表面上に析出する。光すら捻じ曲げるほどの重力場を纏い、一匹の生物が、異星の生命体が造り上げたエネルギー貯蔵タンクという卵の殻を力強く突き破って誕生したのだ。
レベルが上がった。
レベル七溝九〇〇〇穣に到達。
〝運Ⅲ〟〝筋力Ⅲ〟〝知覚Ⅲ〟〝耐久力Ⅲ〟〝敏捷性Ⅲ〟〝魅力Ⅲ〟〝知力Ⅲ〟を獲得した。
損傷が全回復した。
周囲に放出された黄金の燐光を放つナノマシンの濁流が、周囲のありとあらゆる物質を有機物無機物関係なく、原子レベルで分解し、エネルギーへと変換する。
レベルが上がった。
あなたの新しい体が、析出した縮退物質で形作られた妖精型の外装が、さらなる成長と進化を開始する。
急激に巨大化するその体が、異星の船の格納庫を頭から突き破る。
直後、二度目の爆発が起こった。
数百万の異星の生命体が幾世代にもわたって星から星へと旅した母船、地球の千分の一ほどの直径を誇る雄大な宇宙船、その銀白色の外郭が吹き飛び、黄金色の燐光を発する一対の白い手によって内側から引き裂かれていく。
母船の船体上で綺羅星のごとく散りばめられた閃光の一つひとつが、水爆に匹敵するエネルギーの発露であり、幾千幾万の異星の生命体たちの確実な死であり、身を裂かれるほどの嘆きである。
レベルが上がった。
レベル一七正五三〇〇澗に到達。
今、再誕する。
砕かれた母船の外殻からあふれ出た無数のフィラメント形状の長大な構造体は、その一本一本が、その存在にとっての毛髪であった。金色の毛髪は後背へと流れた後に左右へと分かれ、すみひとつない白亜の後背を二対の薄い翅と共に飾り立てた。
あなたは船体の外殻に両手をつき、背中から上体を引き上げる。真空中を一陣の風が吹き抜け、金色の長髪が宇宙空間に大きくはためいた。
異星の母船はナノマシン群によって跡形もなく分解され、チリひとつ残らない。
レベルが上がった。
レベル四七〇極二二〇〇載に到達。
あなたは妖精になった。
妖精は無邪気だ。
妖精は気まぐれだ。
その残虐な行いに悪意はない。
人間の善悪の尺度などは意味をなさない。
ゆえに――。
レベルが上がった。
レベル六八〇〇恒河沙に到達。
〝運Ⅴ〟〝筋力Ⅴ〟〝知覚Ⅴ〟〝耐久力Ⅴ〟〝敏捷性Ⅴ〟〝魅力Ⅴ〟〝知力Ⅴ〟を獲得した。
あなたは、能力〝ワープ〟を獲得した。
「…………」
もはやあなたの前に、時間的空間的な隔たりはこの銀河系において存在しない。
跳んだ。
全長五〇〇キロメートルの妖精が一足飛びに星々を跨ぎ、恒星系を横目に宙を舞う。
優美に光速度よりも速く宇宙を飛び跳ねながら、ベロニカと合一したことで知りえた彼女の好みに合わせて、この妖精としての外殻を装飾する。
太陽系の属するオリオン腕を抜けてペルセウス腕へと到達し、そのまま銀河系の中心部へと遡上する最中、わがままなベロニカの好みを余すことなく盛り込んだ妖精の外装が、収奪した異星の母船を資材として、衛星規模の構造体として編み上げられていく。
「ねえ、ベロニカ」
妖精の王子様。白銀の甲冑を纏い、薄翅で踊るように宙を舞う、無口で勇敢な、黄金の長髪をなびかせた貴公子。
「……どう、かな? 似合って、る?」
返事はなかった。
「…………」
白銀の甲冑を身に纏い、後ろ髪をなびかせ、ペルセウス腕を遡上すること一万光年。
戦争だろうか。
青白く輝く巨大な恒星の近傍で、数万隻規模のふたつの大艦隊が、十九世紀の戦列歩兵さながらの一糸乱れぬ密集陣形を宇宙空間に構築し、真正面から激しく砲火を交えていた。
両軍合わせて一〇万七八〇〇隻。小型戦闘艇や母艦から続々と発艦する戦闘機を数量に加えれば、総戦力は五〇〇万ユニット以上。
直径一光年の現宙域において感知した生命体の総数は、一億はくだらない。
あなたはそれを、鎧袖一触薙ぎ払う。翼開長一天文単位の光の翅が、両軍入り乱れる戦線の中央、もっとも獲物が密集している宙域を根こそぎ喰い尽す。翅に触れたものはすべて形を失って、光へと還元され、あなたという存在を補強する資源へと加工されていく。
レベルが上がった。
レベル三那由他九八〇〇阿僧祇に到達。
宙域を飛び交い十万隻の艦艇をたいらげた勢いそのままに、その生命体たちの母星が連なる星系を強襲する。
あなたは星を喰らった。
恒星を喰らった。
星系を喰らった。
星々が形作る星雲を喰らった。
銀河系の中心に鎮座する巨大ブラックホールを喰らった。
レベルが上がった。
レベル一無量大数に到達。
〝運Ⅹ〟〝筋力Ⅹ〟〝知覚Ⅹ〟〝耐久力Ⅹ〟〝敏捷性Ⅹ〟〝魅力Ⅹ〟〝知力Ⅹ〟を獲得した。
能力〝願い〟を獲得した。
「…………」
一切の物質が存在しない虚無の空間、ボイドと化した銀河系の中心で、全長六〇光年にまで拡張された妖精の外郭を脱ぎ捨て、あなたは単身地球へと帰還する。
あなたは、新たに獲得した能力を、その代償を理解した上で行使する。
レベルが一無量大数から、〇になった。
獲得したすべての能力を失った。
あなたの〝願い〟が叶った。
ベロニカが生き返った。
周囲が再び騒がしくなった。
「ただいま!」
「……おかえりなさい」
ちょっとだけ、あなたはわらった。




