第1話 満了日の朝、離縁届と三年分の沈黙
白い結婚の期限は、結婚から三年。
今朝が、その最終日だ。
私、セレステ・ハルトウィンは、朝いちばんに髪をきつく結い上げ、机の引き出しから一枚の書類を取り出した。離縁届。三か月も前から用意してある。
夫は辺境伯ガルディス・ローエン。戦場では「黒狼」と呼ばれ、敵兵は名前を聞くだけで震えるそうだ。
そんな人が、名目上は私の夫だった。
初夜の挨拶は「……ああ」。
初めての朝食の感想は「……そうか」。
私が熱を出して寝込んだときは、扉の前に三十分も立ち尽くし、侍女長に「閣下、入るか帰るかどちらかに」と言われて帰ったらしい。
帰ったんですね、とその話を聞いて、私は笑ってしまった。
たぶんあの瞬間に、この人に何かを期待するのをやめたのだと思う。
でも、悪い三年間ではなかった。
辺境の屋敷は広くて、帳簿は穴だらけで、使用人たちは温かかった。私は持て余した時間で領地の収支を整え、水路の補修を進言し、余った時間にパンを焼いた。気づけば、離縁後にパン屋を開くための貯金は、金貨二百枚を超えていた。
食堂に入ると、ガルディス様はもう席についていた。
黙々とスープを飲んでいる。大きな背中は、今日も壁のように動かない。
「おはようございます、旦那様」
「……ああ」
いつも通りだ。私は向かいに座り、パンをひとつ取ってから、あらかじめ用意した紙をテーブルの上に滑らせた。
「本日が契約の満了日です。離縁届をお持ちしました。あとは旦那様の署名だけです」
カチャン、と音がした。
スプーンが皿に落ちた音だった。
壁際に控えていた侍女長が、そっと目を閉じた。給仕の青年は、持っていた水差しを抱えたまま石になっている。
黒狼は、紙を見つめたまま動かない。
「……何、だ」
「離縁届です」
「…………そう、か」
そうか、が出た。いつもの「そうか」だった。
ほら、やっぱり。私は小さく息を吐いて、ペンを差し出した。
「ご迷惑はおかけしません。引き継ぎ書も、水路の工程表も、帳簿の見方も、すべて執務室に置いてあります」
そのとき、ガルディス様が立ち上がった。
椅子が倒れた。ものすごい音がした。
「待て」
聞き間違いかと思った。
三年間で初めて、命令でも相槌でもない、必死な声を聞いた気がした。
「……五分、待て」
「五分、ですか」
「五分でいい。動くな。そこにいろ」
そう言い残すと、黒狼は食堂を飛び出していった。
廊下を駆ける足音。階段を上る音。遠くで、何かを引き出しごとひっくり返す音がする。
私はパンを持ったまま、侍女長を見た。
侍女長は、天井を仰いで「やっとですか……」と呟いた。
「やっと、とは」
「いえ。奥様、どうか最後までお付き合いくださいませ。五分だけ」
きっかり四分四十秒後に、扉が開いた。
ガルディス様は肩で息をしていて、腕に革張りの箱を抱えていた。蓋が閉まりきらないほど、紙の束が詰まっている。
彼はそれを、私の目の前のテーブルにどさりと置いた。
「これは」
「……手紙だ」
「どなたの」
「君、宛てだ」
箱の中には、同じ封筒が整然と、びっしり並んでいた。
一通ごとに、日付が書いてある。結婚した日から、昨夜の日付まで。
「千と、八十二通ある」と、彼は言った。
「……十三日だけ、書けなかった日がある。戦場にいた。すまない」
謝る場所が、そこなのだろうか。
私は、言葉を探して口を開いたけれど、うまく出てこなかった。
「渡すつもりだった。毎晩。だが、いざ君の前に立つと……何を言えばいいか、全部、飛ぶ」
彼の耳が、見たことのない色に染まっていた。
壁の黒狼が、真っ赤になっている。
「だから、書いた。書けば、言える気がした。……結局、言えなかったが」
「三年、ですよ」
「ああ」
「毎晩、書いていたんですか。私に」
「……そうだ」
私はそっと、いちばん上の封筒を手に取った。
日付は、昨夜。震えるほど真面目な、角ばった字で書かれている。
「……読んでから、判を押してくれ。頼む」
そんな言い方をされたら、断れるはずがない。
私は封を切って、一行目に目を落とした。
『今日の君は、パンを三回おかわりした。嬉しかった。理由を聞けなかった』
思わず、顔が熱くなった。
黙って見られていたのだ、三年間も。
金貨二百枚の、パン屋の計画。
その堅牢だったはずの未来が、ぎしりと音を立てて傾いた気がした。




