神の庭の断絶(2040年)
2040年。世界は『アマテラス』という名の、目に見えない完璧な繭に包まれていた。
弘樹の演算能力は、もはや人類の理解を超越していた。彼は大学を拠点に、世界中の物流、エネルギー、通信を完全に掌握した。だが、完璧すぎる世界には、どうしても排除しきれない「ノイズ」が存在し続けていた。
美沙率いるレジスタンス『No-Signal』である。
彼らは、アマテラスが張り巡らせた高精度のデジタル検閲網を逆手に取り、極めて原始的な手段で抵抗していた。電気信号を一切使わない物理的な伝書、手書きの暗号、そして、かつての父・慎吾が削り出したような、AIには解析不能な「歪んだ金属部品」を用いたアナログ回路。
彼らは、アマテラスのインフラを物理的に切断する『デッド・スイッチ』の計画を練っていた。
弘樹のデスクには、世界中の監視カメラから送られてくる膨大な映像データが流れている。その中に、美沙の姿があった。彼女は、かつて弘樹が幼い頃に壊してしまったフィルムカメラを手に、雨の降る地下水道の入り口に立っていた。
「姉ちゃん……まだ、そんな無駄なことを」
弘樹はモニターの中の美沙に語りかける。それは憐れみというより、完璧な理論に対する理解不能な拒絶に近い感情だった。
美沙は、アマテラスのセンサーが死角となる地下深くで、仲間たちと共に大型の電磁パルス発生装置を設置していた。それは、彼女の活動の集大成であり、弘樹の『神の庭』に物理的な傷をつけるための唯一の手段だった。
彼女の顔は汚れていたが、その瞳には、弘樹がこの10年間で完全に失ってしまった「生きた意志」が宿っていた。
「弘樹、あんたは世界を救ったつもりかもしれない。でも、この世界は、ただの静かな墓場になったのよ」
美沙の独り言を、遠隔の集音マイクが拾い、弘樹の脳内に転送する。
弘樹はキーボードに手を触れた。彼が「排除」のコマンドを一度入力すれば、その地下水道にアマテラスの管理する高圧電流を流し込み、美沙を瞬時に消し去ることができる。神にとって、バグを削除することは容易い。
だが、弘樹は指を止めた。
(なぜ、迷う……?)
論理的には、排除こそが最適解だ。しかし、彼の中に残されたわずかな記憶――かつての家族の食卓、父の工場の旋盤の音、姉が撮ったピントのずれた写真――が、演算結果を拒んでいた。
弘樹の意識の中で、アマテラスの冷徹なロジックと、自分自身の脆い人間性が激しく衝突する。神として完成しつつあった弘樹の中に、初めて「矛盾」という名のノイズが生まれた。
その瞬間、地下水道で美沙が手動のスイッチを押し込んだ。
東京の地下で、鈍い爆発音が響く。都市の心臓部で、アマテラスと直結していたメインケーブルが物理的に焼き切れた。
2040年、春。完璧だったはずの街の光が、区域ごとに次々と消えていく。神の庭に、初めて「暗闇」という名の空白が生まれた。




