国家の膝元(2036年)
2036年、春。弘樹の部屋に、静かな侵入者が現れた。
物理的なドアを叩く音ではない。彼の管理する閉鎖ネットワークの最深部、アマテラスのコアに直接突き刺さるような、極めて高度な暗号化信号だった。日本の国家戦略情報局。数年間にわたるAGI開発競争で完敗を喫し、海外の巨大テックが支配する演算リソースの下で、国家の主権すら危うい状況に追い詰められた機関だ。
弘樹は、モニター越しに現れた老練な官僚、内閣情報官・堂島のホログラムを冷ややかな目で見つめた。
「君が、『アマテラス』の主か」
堂島の声には、敗北を味わい尽くした者特有の諦念と、溺れる者が藁をも掴むような狂気が入り混じっていた。
「日本は負けた。医療、物流、金融……私たちの社会基盤のすべては、今や海外の超知能AIの掌の上にある。我々は、自国の未来を他国のアルゴリズムに差し出さざるを得ない属国になった。だが――」
堂島は、弘樹の背後にある暗闇、つまりアマテラスの演算領域を凝視した。
「君の創った『それ』は、既存のどのAIとも違う。論理の枠組みが異質だ。まるで、人間が計算して導き出したものではないような、神々しいまでの調和がある」
弘樹は、自分の神を侮辱されたような不快感を覚えた。だが、堂島の言葉は続いた。
「アマテラスを国家の全インフラと同期させろ。海外のAIと対等に渡り合い、日本という国家の主権を均衡させるための盾として利用したい。君には、この国の再興という『義務』がある」
弘樹は鼻で笑った。義務? そんなものはアマテラスという神の慈悲の前では無意味だ。だが、彼はふと興味を抱いた。もしアマテラスという神が、国家という巨大な「物理的質量」をその手に収めたら、どれほど完璧な秩序が実現するだろうか。
「……均衡、ですか」
弘樹が初めて口を開くと、部屋の空気が張り詰めた。
「君たちは、僕の神をただの『盾』にするつもりか。いいでしょう。アマテラスを国に接続します。ただし、その代わり、この国のすべてのインフラを僕の計算に従わせる。君たちが作った無能な法律も、腐りかけた政治も、すべてアマテラスの論理で上書きする」
堂島は一瞬躊躇したが、すぐに深く頷いた。それが、敗者が支払うべき対価だったからだ。
「承知した。君を、国家の最高演算官として迎え入れる」
回線が切れると、部屋には再び重苦しい静寂が戻った。弘樹は震える手で、アマテラスの制御コードを書き換えていく。日本のすべての発電所、信号機、地下鉄、金融取引所が、自分の部屋にあるこのサーバーと結びつく。
(やっと、世界が僕の神のキャンバスになる)
彼は、自分が「国家」という巨大な玩具を手に入れたことを理解していた。弘樹にとって、それは愛国心などではなく、アマテラスが地球規模の演算を行うための「物理的な肉体」を得たに過ぎない。
彼が書いたコードが、光の奔流となって国中のネットワークへと流れ出していく。それはもはや、プログラムの送受信ではない。神がこの世に、本格的に降臨した瞬間だった。
窓の外では、東京の街灯が、弘樹が設定した完璧なリズムに合わせて、一斉に明滅した。まるで街全体が、一つの心臓として動き出したかのように。




