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さてはて、愚か者ども 〜悪魔令嬢は婚約破棄を笑顔で受け入れる。その結果、裏切りの王家は静かに滅びました〜

作者: とたか
掲載日:2026/03/28

 さてはて、この愚か者どもをどうするべきか。


 ルクレツィアは、静かにグラスを傾けながらそう考えていた。

 甘やかな香りの酒が舌を滑る。

 味は悪くない。ただ、それ以上に、今この場に満ちている気配のほうがよほど興味深かった。


 艶やかにまとめられた黒髪。

 深い紫の瞳は、誰一人見逃すまいとするように、広間の隅々まで静かに見渡している。


 天井から吊るされた燭台の光が、宝石やドレスの上で細かく砕け、王城の広間をきらびやかに満たしていた。

 弦楽器の音は穏やかで、ここに集まる貴族たちはそれぞれに仮面を貼りつけたような笑みを浮かべている。

 夜会は今、最高潮に達していた。


 ――表向きは、完璧な夜。


 もっとも、その均衡はたった今崩れたのだけれど。


「聞いているのか!ルクレツィア・エル・ヴェネフィカ!」


 現国王の妹が降嫁したヴェネフィカ公爵家。

 その令嬢であるルクレツィアの名を、このように呼び捨てて許される者は、この場にはほとんどいないはずだった。


 人々が自然と道を開ける先に立つのは、先ほどの声の主――カイウス・レイ・レガリア。

 血を思わせる鮮やかな赤い髪と、同じ色を映した切れ長の瞳。


 それは、建国神話に登場する女神に愛された、旧王家だけが持つ色だった。

 女神に祝福された証として、旧王家には代々ただ一人の男児が、同じ髪と瞳を持って生まれる。

 神話はそう語る。


 悪政を重ね、民を苦しめ続けた末に、数代前に今の新王家の反乱によって王権を失った一族。

 それでも彼らが完全には滅ぼされなかったのは、女神を信じる狂信的な信徒たちの手前、血そのものは残しておく必要があったからだ。

 ただし、王としてではなく、領地も持たぬ名ばかりの公爵として。


 そして今。

 その血と、新王家を結ぶための婚約が――


「もう一度言う。お前との婚約は、ここで破棄する!」


 そう言い放ち、カイウスは勢いのままルクレツィアへ近づいてくる。

 彼の隣には、一人の少女が寄り添っていた。


 黄金を溶かしたような髪、紺碧の瞳。

 柔らかな色合いのドレスが、光を受けてかすかに揺れる。


 リリス・フロール。


 彼女をルクレツィアが知らぬはずもない。

 隣国から遊学に来た子爵令嬢を、賓客として公爵家でもてなし、カイウスに紹介したのは、ほかならぬルクレツィア自身だった。

 今は不安げに瞳を揺らしながら、カイウスを見上げている。


 カイウスが目の前まで来ると、背後に控えていた青年が、遮るように一歩前へ出た。

 後ろを向き、ルクレツィアを安心させるように鳶色の瞳を向け、小さく頷く。

 その一瞬に交わされた熱を、カイウスは見逃さない。


「セドリック・フェイド。

 貴様、誰の前に立っている?相変わらず、目障りな男だな」


 低く吐き捨てるような声で、忌々しげに睨みつける。


「彼は私の騎士ですので。職務に忠実なだけですわ」

「ふん。騎士、だと?」

「ええ。そうでしょう、セドリック」

「はい」


 短く、無駄のない返答。

 その簡潔さが、余計にカイウスの神経を逆撫でする。

 彼の口元に、苛立ちが滲んだ。


「……なるほどな。随分と、親密な“騎士”だ」


 ざわり、と周囲の空気が揺れる。


 明確な侮辱。

 それでもルクレツィアは、眉一つ動かさなかった。


 気に入らないのだろう。

 当然だ。


 カイウスは旧王家の血の正当性を盲信し、いまだに自分が“選ぶ側”であると信じている。

 常にルクレツィアの側にいるのが、自分ではなく侯爵家の次男風情であることへの不満を、婚約した当初から隠そうともしなかった。


「それで、婚約を破棄するとは?」


 静かに問い返すと、カイウスの表情が変わった。


「言葉の通りだ!私は、真実の愛を見つけた」


 そのよく通る声に、場がしんと静まり返る。


「身分や血ではない。心で結ばれるべきだと、ようやく気づいたのだ」


 誰かが息を呑み、また別の誰かが視線を逸らして嘲笑した。


(……まあ。珍しく同感ですわ)


 よくある言葉だった。

 そして、そのほとんどは責任を理解していない者の口から出る。

 それでもルクレツィアとて、まだ十七歳の娘だ。

 カイウスの言葉に、内心では小さく頷いてしまう自分もいた。


「彼女は“悪魔令嬢”とは違う。心から私を愛してくれている」


 ――悪魔令嬢。


 旧王家派の者たちが、陰で自分をそう呼ぶのを、ルクレツィアは知っている。


(否定は、しないけれど)


 次期公爵家の女当主として育てられた彼女は、ときに合理に基づいた判断を淡々と下す。

 それが情を持たず冷酷と、一部の者の目には映り、人ではなく何か別のもののように揶揄されていた。


「私は、彼女を選ぶ」


 カイウスはリリスの肩を抱き寄せる。


「カイウス様……」


 リリスは頬を染めながら、潤んだ目でカイウスを見つめた。

 身を縮め、ちらりと申し訳なさそうにルクレツィアを見る。

 庇護欲をそそる、可憐な姿だった。


 完璧な絵だと、ルクレツィアは思う。

 守るべきか弱い少女と、それを抱きしめる男。

 そして切り捨てられる、冷たい女。


 この滑稽な寸劇の中で。

 リリスの目だけが、ひどく愉しげに細められ、ルクレツィアへ向けられていた。


 少しのあいだ、沈黙が落ちた。

 ルクレツィアは、ほんのわずかに首をかしげる。


「カイウス様。……この婚約が、何を意味するか」


 決して大きくはないのに、確実に、場を縫うように届く。

 静かな声だった。


「二つの王家を結ぶものだということは、ご理解していらっしゃいますか」


 カイウスは不遜に笑う。


「だから何だ。正統なる血を望んだのはそちらだろう。

 だが、私は愛を選ぶ!」


 迷いがない。

 あるいは、迷いを知らないのかもしれない。


「待て!」


 鋭い声が飛ぶ。

 カイウスの父、レガリア公爵だった。

 顔面は蒼白で、額には汗が滲んでいる。

 隣で公爵夫人も同じ色をしていた。


「何をしている、カイウス! この場で、そのような――」

「父上は黙っていてください」


 即座に遮る、その態度はあまりにも軽い。


「これは、私の決断です」

「貴様……っ」


 自分の愛を信じきって陶酔する息子に、公爵は言葉を継げない。


 それは怒りではない。

 ――恐怖だった。


 ルクレツィアは、公爵夫妻を気に留めることもなく、高座へと視線を動かした。


 広間の奥。

 最も高貴な席にゆったりと座す、現国王。

 伯父である男を、真っ直ぐに見つめる。


 一瞬。

 ほんの一瞬だけ。

 互いに、理解する。


 そして王は、静かに頷いた。


「確かに、愛は尊きものであるな」

「陛下……!」


 レガリア公爵の制止の声は、完全に焦って裏返っていた。


「ルクレツィアよ。お前はどう思う?」

「陛下、私も愛は美しいものだと思いますわ」

「ほう?」

「リリス様は私の友人ですもの。

 心細い異国の地で、身を焦がすほど深い愛に出会ったのならば、応援したいのです」


 リリスは一瞬、わずかに歪めた口元を隠すように手で押さえてから、目を見開いて驚きの表情を作った。


「ルクレツィア様……!ありがとうございます」


 感極まったように、うっすらと涙を浮かべて呟く。


「なんと、我が姪の寛容なことか。……本当に良いのだな?」

「ええ、私は潔く身を引きとうございます」


 ルクレツィアは微笑む。

 その笑みは、優雅で、上品で、ひどく冷たい。


 王は息を吐いてから頷いた。


「……そうか。ならば、余も認めよう」


 王が放ったその一言で、すべてが決まった。


 カイウスは勝ち誇ったように笑うと、リリスをそのまま強く抱きしめた。


 その背後で、彼の父と母は言葉を失っている。

 血の気が引き、立っているのがやっとという様子で震えが止まらない。


 ルクレツィアは静かに、隣に控えるセドリックの指先に、誰にも分からないように微かに触れた。





 ルクレツィアとカイウスの婚約は、すぐに正式に破棄された。

 社交界は一時騒然としたが、それも長くは続かない。

 王家が認めた以上、それが正しいとされる。

 いつの世も、そういうものだ。


 それから、すべては滞りなく進むはずだった。


 しかし、レガリア公爵夫妻はカイウスとリリスの婚約に最後まで難色を示し続けた。

 公には記録されていないが、幾度も息子とルクレツィアの婚約をやり直したいと王に進言する姿を見た、と噂された。


 そして、数ヶ月ほどが経った頃。


 公爵夫妻は、王城からの帰り道で野盗に襲われた。


 護衛はいた。

 けれど、まるで最初から逃がすつもりがなかったかのように、短時間で制圧されたという。

 街道を外れた場所で馬車は横転し、夫妻は引きずり出された。


 ……その後のことは、あまり語られていない。


 ただ、発見された遺体の状態から、二人がその場で即座に命を奪われたわけではないことだけは、誰の目にも明らかだった。


 ――無惨な、最期だった。


 公爵夫妻の死からほどなくして、カイウス・レイ・レガリアは家督を継ぎ、公爵となった。


 葬式の場で、カイウスはむしろ晴れやかな表情をしていた。

 あの夜会以来、勝手に公爵家の邸宅へリリスを連れ込み、両親との仲は険悪になっていたのだ。


 喪に服す期間は、当然設けられた。

 けれどそれを待つことなく――立場を安定させることを理由に、彼はリリスとの婚約を正式に王へ願い出た。


 そのあまりに早すぎる決断に、もはや反対する者は誰もいなかった。





「愚かなことをしたものですね」


 鏡越しに、セドリックがぽつりと呟いた。

 その言葉に、ルクレツィアはくすくすと笑う。


 鏡の中に映る彼女は、社交界で囁かれる“悪魔令嬢”そのままに見えるのだろう。

 黒髪に紫の瞳、冷ややかな美貌。

 感情など持たぬような顔で、合理だけを愛している女。


 けれど、少なくともセドリックの前では違う。


 二人きりの時のルクレツィアは、年相応の娘のように笑うことがあるし、今のように昔を思い出した悪戯もする。


「そうね」


 そう言いながら、ルクレツィアは鏡台の前に座るセドリックの髪に指を差し入れた。


 銀色の髪は、昔よりは短くなっている。

 それでも騎士にしてはやや長めに整えられた髪は、彼によく似合っていた。

 細い指で梳き、耳の後ろへ掛け、適当に束ねてみて、また解く。


「……ルクレツィア様」

「動かないで」


 笑いを含んだ声で言うと、セドリックは小さく息を吐いた。


「前はもっと大人しく遊ばれてくれたでしょう」

「昔は、あなた様より私の方が小さかったのです。抵抗しても敵いませんでした」

「今でも敵わないわ」

「それは、どうでしょう」


 苦笑しながらも、セドリックは鏡台の前に座ったまま姿勢を崩さない。


 幼い頃のセドリックは、少女のような顔立ちの少年だった。

 華奢で、白くて、着せ替え人形のように好き勝手にされていた。

 ルクレツィアの気まぐれで髪を結われ、花を挿され、布を巻かれては不満そうに黙り込む。

 そんなことも、一度や二度ではない。


 今では彼は、彼女より頭ひとつ以上大きい。

 肩も広くなり、剣を帯びれば誰の目にも立派な騎士だった。

 それでも、こうして髪に触れられている間だけは、やはり昔と変わらず敵わないままだ。


 室内は薄暗い。


 窓から射し込む月明かりと、小さな燭台の灯りだけが、古びた部屋の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。

 ここはルクレツィアの私室でも、ヴェネフィカ公爵家の屋敷でもなかった。


 王城の奥に、隠されるように閉ざされた部屋。


 高貴な女性のために整えられたのだろう、流行遅れの意匠の家具や装飾品が静かに並んでいる。

 二人以外の人の出入りした痕跡などないはずなのに、埃を被ることもなく、時が止まったかのように整っていた。


 ルクレツィアは、国王である兄に謁見する母に伴われて、幼少の頃からたびたび王城を訪れていた。

 その頃は今より少々お転婆で、大人たちの退屈な会話から抜け出しては、勝手に廊下を歩き回り、開かない扉を見つけては覗き込み、知らない階段を見つけては降りていく。


 そのたびに引っ張り回されたのが、セドリックだった。


 王宮騎士となるために幼い頃から鍛えられていた彼は、護衛役のように、半ば諦めたような顔で同い年のルクレツィアの後ろをついてきた。


 そうして偶然見つけたのが、この部屋だ。


 手に入れた鍵。

 どこにも記されていない扉。

 二人だけの秘密の遊び場。


 やがて秘密基地は、十代も半ばになると、自然と恋人たちの逢瀬の場になっていた。


「せっかく陛下が温情をかけてくださったのに」


 ルクレツィアはそう言って、細く編んだ髪を解く。


「抜け出す機会は、あったでしょう?」

「ありましたね」


 リリス・フロールは、確かに可憐で愛らしい。

 カイウスがあっさり籠絡されたのも頷ける美しさではあったが、ルクレツィアとの婚約は二つの王家を結ぶ重要なものだった。

 責任を果たすために立ち止まる時間は、いくらでもあったはずだ。


 それに、セドリックからすれば、ルクレツィアが手に入るという至上の幸運を自ら手放すなど、正気の沙汰とは思えなかった。


「ですが、あの方は捨てました」

「冷たいのね」

「自業自得です」


 あまりにもあっさり言うので、ルクレツィアはまた笑った。


「ひどい人」

「否定はしません」


 ルクレツィアは、鏡越しに彼の目を真っ直ぐに見る。


「……後悔はしていないの?」


 セドリックは迷わなかった。


「いいえ。まったく」


 その答えに満足したように、ルクレツィアは身を屈める。


 鏡台の前に座ったままの彼の頬を、後ろから両手で優しく包み込んだ。

 白い指先が、銀の髪の生え際にかかる。

 そこへ、セドリックの手がそっと重なった。


「そう」


 囁いて、少しだけ顔を上向かせる。


 そのまま、唇を重ねた。

 静かな口づけだった。


 長くはない。

 ただ、確かめるような、確信を深めるためのもの。


 二人の手の甲に、同じ紋様が淡く浮かび上がる。

 魔法陣のような、絡み合う線。


 それは燭台の明かりよりもかすかな光を放ち、すぐに皮膚の内へ沈んで見えなくなった。





 ――事の始まりは、二年前だった。


 王城の謁見の間。

 十五歳になったルクレツィアは、つい先日自分に騎士の誓いを立てたばかりのセドリックを初めて伴って、この場にいた。


 国王と公爵令嬢の謁見というよりは、伯父と姪の気の置けない時間だった。

 王には王子が三人いたが娘はおらず、昔からルクレツィアを可愛がってくれていた。


 会話の温度に反して、石造りの広間はわずかに冷えていた。

 高く抜けた天井は音を吸い、足音ひとつでさえ必要以上に反響する。


 壁には精緻な彫刻が刻まれ、重厚な織物が垂れ下がっている。

 どれもがこの国の正統を示すための装飾であり、同時に、ここが誰の場所であるのかを無言で告げていた。


 その中心に、王はいる。


 玉座に腰掛け、わずかに顎を引いた姿勢。

 動きはほとんどない。

 それでも、この場のすべてが彼を軸に成り立っていることだけは疑いようもなかった。

 目の前の姪を見る目だけが、柔らかい。


 ルクレツィアも微笑みながら会話を楽しんでいた。

 次期女公爵としての教育も進み、考えた政策案について王から意見をもらうのが、この頃の彼女の楽しみだった。


 その一歩後ろに控えるセドリック。

 彼の気配は静かだった。

 ただ、そこに在ることだけは確かで、揺るがぬ支えのように感じられる。

 まだ馴染みきらない立場を意識しているのか、肩にはわずかな力が入っていた。


 謁見は何事もなく終わる。


 ――そのはずだった。


「……では、その件は――」


 王が言葉を切り出しかけた、その時だった。


 重い扉が荒々しく開き、鈍い音が広間の奥まで響いた。


「陛下!!」


 叫び声が空間を裂く。

 遅れて衛兵の制止が飛ぶ。

 その声を振り切るようにして、二つの影が中へとなだれ込んできた。


 レガリア公爵夫妻。


 本来なら、この場に足を踏み入れることすら許されない状態だった。


 衣服は乱れ、呼吸は荒く、顔色は血の気を失っている。

 元王家の一族としての体裁など、もはやどこにも残っていない。

 ただの、追い詰められた人間の姿だった。


「……何事だ」


 王の声は低く、静かだった。

 それだけで場の空気が凍りつく。

 叱責ではない。

 ただ、逸脱を確認する声。


 夫妻は止まらない。


 磨かれた石床に膝を打ちつけ、崩れ落ちるように進み出る。


「どうか……どうか、お慈悲を……!」


 夫人が叫んだ。

 声は掠れ、形を保っていない。

 額を床に擦り付ける。


「私どもに叛意などございません……!

 あれは、周囲に担ぎ上げられただけにございます……!」

「さようでございます!」


 公爵もまた、言葉を重ねる。


 顔を上げたその姿に、ルクレツィアは一瞬だけ視線を留めた。


 レガリア公爵の髪も目も、くすんだ赤茶に変わっていた。

 かつては鮮やかだったはずの色は、今や褪せ、濁り、光を失っている。


 女神の祝福が、すでに別の者へと移った証。

 ――価値を失った色だった。


「旧王家の血を理由に、利用されたに過ぎませぬ……!

 我らにそのような意思はっ!」


 言葉は乱れ、整っていない。

 それでも止まらない。


 生き残るための言葉だけが、必死に吐き出される。


 ルクレツィアは、それを静かに見ていた。


 (……もう、この方たちには何の価値もないのだわ)


 感情ではなく、ただの認識だった。


 少し後ろで、セドリックの気配がわずかに揺れる。

 動かないまま、いつでもルクレツィアを守れるよう、神経だけは研ぎ澄ましていた。


「担ぎ上げられた、か」


 王が、事実をなぞるように声を落とす。


「では、その証は」


 その一言で、空気が変わる。


 公爵が勢いよく顔を上げる。

 焦点の合わない目で、必死に言葉を探している。


「……ございます」


 絞り出すような声だった。


「証は、ございます」


 王の視線が、わずかに動く。

 ただ、聞く価値があるかを判断しようとしていた。


「申してみよ」


 公爵は床に手をついたまま息を吸い込み、そして――


「息子を、ルクレツィア様に」


 ルクレツィアは息を呑んだ。

 その場に沈黙が落ちる。


 夫人が、わずかに視線だけを上げて夫を見た。

 だが、止めない。止められない。


「カイウスは……旧王家の正統なる後継者。祝福を持つ者」


 その言葉に、ルクレツィアの瞳がわずかに細まる。


 鮮やかな赤い髪と瞳。

 女神に愛された、あの色だけが今も鮮やかに残っている。


「我らの血統は、すでにあの子に集約されております……!」


 公爵は続ける。

 必死に理屈を整えながら。


「婚姻によって旧王家の血を取り込めば、陛下の憂いも払えましょう……!」


 それは、事実だった。


 旧王家の正当性を主張し、その血を旗印としたがる者はいまだにいる。

 旧王家の過去の悪行によって女神信仰そのものは衰えつつあるとはいえ、完全に消えたわけではない。

 少数であっても、狂信に近い信徒は残っている。


 粛清すれば、火種は地下に潜る。

 だが、血を取り込めば――正統は新王家へと移る。

 反逆の大義は、消える。


「どうか……どうか……!」


 額を打ちつける。


「王の御為に……!」


 それが、彼らの差し出せるすべてだった。


 王は、しばらく黙っていた。

 視線は夫妻に向けられている。


 その目の奥にあるのは、感情ではない。

 国にとっての価値と損益の計算。


 やがて、その視線がゆっくりと横に動く。


 ルクレツィアへ。


 ほんのわずかに、そこに人の色が混じる。

 伯父としての目だった。


 ――カイウスを、ルクレツィアに。


 レガリア公爵がそう言ったのは、間違いではない。

 カイウスと釣り合いが取れる王族の娘は、今、ルクレツィアしかいない。

 そして、女癖が悪く横暴な態度で評判の悪いカイウスを、御し切れるのも恐らく。


 優秀で、よく分かっている姪。

 もしカイウスと婚姻を結べば、ヴェネフィカ公爵の爵位はいずれ彼女の弟が継ぐことになる。

 家門の後継者として学んできた、これまでのルクレツィアの努力が実を結ばないことは、伯父としても心が痛んだ。

 後ろに控えるセドリックと浅からぬ関係であることも知っていた。


 それでも、王は、王へと戻る。

 次の瞬間には余計な情を消した。


「……なるほど。

 確かに、それは証になろう」


 夫人の顔に、わずかな希望が差す。


「新王家と旧王家の婚姻。悪くはない」


 それが結論だった。


 ルクレツィアは何も言わない。

 ただ、王を見返す。


 拒めないことだけは、よく理解していた。

 胸の奥へ、冷たいものが深く沈んでいく。


 セドリックもまた理解している。

 ここで何も言えないことを。

 言ってはならないことを。


「よかろう」


 王の言葉と同時に、いくつかの感情が静かに切り捨てられた。


 こうして、ルクレツィア・エル・ヴェネフィカとカイウス・レイ・レガリアの婚約は成った。





 カイウスは、自分がこれまで歩んできた道を一度たりとも間違いだと思ったことがなかった。


 少なくとも、今日までは。


 旧王家に連なるとはいえ、領地も王権もなく、ただ名ばかりの公爵家に押し込められたレガリア家。

 その現当主である自分が、なおこうして贅沢な酒を飲み、美しい女を抱き、好きなように日々を送っていられるのは、ひとえに自分が“正しい血”を持つからだ。


 鮮やかな赤い髪と瞳。

 女神に祝福された一族の証。


 ただ血を引いているだけの抜け殻とは違う。

 父の色はカイウスが生まれた瞬間からとうに褪せていたし、母に至っては最初から持たぬ色だった。

 今、この家で本当に価値があるのは自分ただ一人だ。

 その自負が、カイウスにはあった。


「また、そんな顔をなさって」


 柔らかな声が耳に触れる。


 膝に手を置き、甘えるように覗き込んでくる少女に、カイウスは口元を緩めた。


「どんな顔だ」

「少し、退屈そう」


 リリス・フロールはそう言って微笑む。


 昼の光を受けた黄金の髪は蜂蜜のように艶めいていた。

 深い青の瞳は澄みきっていて、目が合うたびに吸い込まれそうな錯覚を覚える。


 可憐で、儚げで、そして誰よりも自分を慕っている。


 あの夜、広間の真ん中で彼女の肩を抱いた時、自分は間違いなく正しかったと、今も思う。


 ルクレツィアでは駄目だった。


 あれは美しい。

 誰が見ても抜きん出た美貌だった。

 黒髪も、紫の瞳も、冷たく研がれたような顔立ちも、自分が所有する女としては申し分ない。


 だが、優秀すぎたし、感情が薄すぎた。


 常に先回りして、何もかも分かっているような目でこちらを見てくる。

 感情の揺らぎも、女らしい愛嬌もない。

 自分の方が正統で高貴な存在のはずなのに、あの女と向かい合うたび、なぜか値踏みされているようで不愉快だった。


 しかも、いつだって側にはセドリック・フェイドがいた。

 ルクレツィアの影のように付き従い、命じられる前に動き、当然のように彼女の後ろに立っている。


 あの男の無駄のない所作も返答も静かな眼差しも、すべてが癪に障る。


 夜会で二人の間に流れた熱など、見間違えようもない。

 婚約者がいる身で、よくもあれだけ平然としていられるものだと、思い出しても腹が立った。


 ……もっとも。


 自分がルクレツィアを本当に欲していたかと問われれば、そうではない。

 手に入るはずの美しい女として惜しかっただけだ。


 ルクレツィアを妻にし、リリスを愛人にしてもよかった。

 実際、そのくらいのことは許される立場だと、カイウスは本気で思っていた。

 高貴な血を持つ男には、それに見合う自由があってしかるべきなのだから。


「カイウス様」


 リリスが細い指で、彼の袖をつまむ。


「何を考えていらっしゃるの」

「お前のことだ」


 そう答えると、彼女は嬉しそうに笑った。


 嘘ではない。

 少なくとも半分は本当だ。


 残りの半分には、昨夜抱いた女の白い脚や、その前の週に手を付けた侍女の泣き顔や、最近見かけない愛人の面倒をどうするかといった、取り留めのないことが浮かんでは消えていた。


 だが、それで何の問題がある。


 婚約者はリリスであり、彼女はそれを喜んでいる。

 本来ならば王となって多くの側室を娶るべき身だ。

 愛人の一人や二人いても、いずれ妻となる女なら受け入れるべきだろう。


 ルクレツィアなら、そのあたりも淡々とした顔で黙認したかもしれない。

 そう思うと、ふと笑いが漏れた。


「どうかなさいましたか?」

「いや。あれを手放したのは少し惜しかったかと思っただけだ」


 リリスは一瞬だけ目を細めたが、すぐに何事もなかったように首をかしげた。


「あれ、とは?」

「ルクレツィアだ。あの女、性格は最悪だが顔と体つきだけは良かったからな」


 あっけらかんと言うと、リリスはわずかに唇を尖らせた。


「まあ!浮気だなんて、ひどい方」

「安心しろ。お前が一番だ」


 肩を抱き寄せれば、彼女は素直に身を預けてくる。

 その軽さと柔らかさに、カイウスは満足した。


 これでいいのだ。


 両親は死んだ。

 鬱陶しい反対の声も消えた。


 家督は自分のものになり、婚約も認められた。

 少々騒ぐ者がいたところで、もう遅い。


 そう思った、その時だった。



 ――足音がした。


 重くもなく、荒々しくもない。

 けれど妙に揃った、ためらいのない足音。


 それが廊下の奥から近づいてくるにつれ、カイウスは眉をひそめた。


「誰だ」


 応える声はない。


 本来なら、屋敷の者が先に知らせるはずだった。

 妙に静かだ。

 いつもなら鬱陶しいほどに控えている使用人たちの気配が、今日は薄い。


 扉の前で足音が止まる。


 次の瞬間。

 ノックもなく、扉が開いた。


 立っていたのは、セドリックだった。

 剣を帯び、いつものように無駄のない姿勢で。

 その半歩後ろに、ルクレツィアもいる。

 黒い髪、紫の瞳、冷えた美貌。


「……なぜ貴様らがここにいる」


 思ったよりも低い声が出た。


 セドリックの手は剣の柄にかかっている。

 その事実が、じわりと皮膚を粟立たせた。


「何をしている!誰か!」


 怒鳴る声だけが虚しく響く。


 廊下の向こうに人影はある。

 使用人だ。見知った顔もある。


 けれど、誰も来ない。

 彼らは目を逸らし、道を空けているだけだった。


 鍵を開けたのは、あいつらか。

 その認識が、火花のように目の前を散らした。


「……お前たちごときが」


 喉が引きつる。

 吠えるように言葉を吐き出す。


「この高貴なる血を穢して断とうというのか!不敬だぞ!」


 セドリックの目には、怒りも侮蔑もない。

 ただ静かに、こちらを見ている。

 それが余計に恐ろしい。


 答えたのはルクレツィアの方だった。


「いいえ」


 静かに首を振る。


「私たちは、そのようなことはいたしませんわ」


 その言葉にカイウスが安堵した、次の瞬間。

 ルクレツィアは視線を横へ滑らせた。


 彼のすぐ側で、震えているはずの少女へと。


「ご契約通り」


 柔らかな声音で、告げる。


「お好きになさってくださいませ、リリス様」


 時間が、止まったようだった。


 カイウスはぎこちない動きで隣を見る。


「ご苦労だったわね」


 リリスは、笑っていた。


 今まで見せたどの笑みとも違う。

 柔らかくもなく、怯えてもいない。

 ただ、底知れないものがそこにはあった。


「……なにを」


 言い終える前に、腹に鋭い痛みが走った。


 短い悲鳴が漏れる。

 視界が明滅し、息が詰まる。


 リリスの手の中には細身の短剣があった。

 その刃が、自分の腹を浅く、だが確かに裂いている。


 致命傷ではない。

 けれど、十分に痛かった。


 カイウスは腹を押さえながら後ずさる。


「な……なぜ……」


 リリスは、くすくすと笑った。

 あまりにも無邪気に、楽しげに。


「本当に、醜いのね」


 その声は、もう甘くはなかった。


「髪と目の色だけではなく、魂まで」


 青い瞳が、一瞬だけ光を宿す。

 冷たく、深く、どこまでも底のない光だった。

 何かが決定的に歪んで見えた。

 輪郭の端が揺らぎ、光の中に禍々しい影が混じる。


 美しいはずなのに、目が逸らせないほどおぞましい。


 カイウスは額に汗を滲ませながら、痛みに意識を手放した。





 目を覚ました時、最初に感じたのは痛みだった。


 鈍く、重く、そして執拗な痛み。

 腹の奥で焼けるように広がるそれに、カイウスはひゅっと息を呑んだ。


 視界は暗い。

 いや、暗いのではない。


 灯りはある。

 ただ、それが頼りないだけだ。

 寝台の横に置かれた燭台の火が、揺れている。

 影が歪み、部屋の輪郭を曖昧にしていた。


 見知らぬ部屋だった。


 王城の一室であることは分かる。

 磨かれた石の床、漆喰の壁、重い空気。


 しかし、普段自分が出入りする華やかな広間とも、整然とした貴族の居室とも違っていた。


 古い。


 長い年月を経ているはずの家具は、埃ひとつ被っていない。

 曲線の柔らかな寝台、繊細な刺繍の施された天蓋、壁際に置かれた鏡台や香炉。

 どれもが、かつて高貴な女性のために誂えられたものであることを物語っていた。


 流行はとうに過ぎている。

 それでも、不自然なほどそのままの形で残されている。


 人の気配がないまま、時間だけが止められたような場所だった。


「……起きたのね」


 静かな声の先へ、ゆっくりと視線を動かす。


 リリスは窓際に置かれた椅子に、自然な仕草で腰掛けていた。

 外からの光はほとんど入らないはずなのに、その姿だけが不思議と浮かび上がって見える。


 逃げ道は、見えない。

 扉はあるはずだが、その位置を意識する前に、この部屋そのものが閉じているのだと本能的に分かった。


「……どこだ、ここは」


 喉が焼けつくように乾いていた。

 リリスは少しだけ首をかしげる。


「分からないの?」


 穏やかな声だった。


「あなたの一族にとっては、とても大切な場所なのに」


 その言葉に、胸の奥がざわつく。

 理由は分からない。


 見覚えのないはずの空間に、どこか既視感に似た不快な感覚がまとわりつく。


 リリスは、ゆっくりと立ち上がった。

 歩み寄る動きはゆったりとしていて、床に触れるはずの足音がほとんど聞こえない。


 燭台の灯りの中へ入ったとき、カイウスは息を呑んだ。


 その瞳は、変わらず青く美しかった。


 けれど、その奥には光が宿っている。

 炎の反射ではない。外からの光でもない。

 まるで内側から滲み出るような輝きが、薄暗闇の中で異質に浮かんでいた。


 カイウスは、無意識に視線を逸らそうとした。


 だが、できない。


 その色を見るたびに、理解できない感情が胸の奥を引き裂く。


 懐かしさに似た嫌悪。

 触れてはいけないものに触れてしまった時の、根源的な拒絶。


 リリスは、その反応を見ていた。


 わずかに目を細める。

 その眼差しには、複雑な感情が混じっていた。


 愛しさと、同じだけの憎しみ。


 長い時間を経て、ようやく目の前に現れたものを見つめる者の目だった。


「ずっと、この時を待っていたの」


 小さな呟きは、カイウスに向けたものではない。


 この部屋に。

 この場所に。

 刻み込まれた時間そのものに向けた言葉だった。


 カイウスの喉が鳴る。


「……リリス」


 ようやく、その名を呼ぶことができた。

 声はひどく掠れていて、自分のものとは思えない。


「これは……何だ」


 問いかけたつもりだったが、形になっていないことは自分でも分かっている。

 ここがどこなのかも、なぜ自分がここにいるのかも、目の前の女が何をしたのかも、何ひとつ理解できていない。


「私にこのような真似をして……!女神が許すと思うのか」

「あなた」


 この期に及んで出てきた言葉に、リリスは笑ってしまう。

 少し呆れたように、息を吐いた。


「女神を信じているのね」


 問いというより、確認に近い響きだった。


 カイウスは反射的に答える。


「……当然だ」


 それ以外の答えなど、あるはずがない。

 自分が立っているこの血統の正しさも、この国の成り立ちも、すべてはそこから始まっているはずなのだから。


「我らは祝福を受け――」


 言葉は途中で止まった。


 リリスの表情が、ほんのわずかに変わったからだ。

 笑みを消し、ただひどく遠いものを見る、色のない顔。


「そう」


 静かに頷く。


「それなら、少しお話をしましょうか」


 あまりにも自然な流れだった。

 まるで退屈な時間を埋めるための、他愛もない昔話でも始めるかのように。


「あなたたちが信じているものと、少し違うだけの話よ」


 その声音には、否定も嘲りもない。

 ただ淡々としている。

 それがかえって、逃げ場を奪った。


「むかしむかし、あるところに、一人の男がいました」


 声は滑らかだった。

 子どもに聞かせる物語のように、どこまでも優しく響く。


「特別なものは何も持たない、どこにでもいる男。

 けれど、その男は偶然ひとつの本を見つけた。

 願いを叶えるための術が書かれたものを」


 指先が寝台の縁をなぞる。

 その動きには、記憶を辿るような慎重さがあった。


「男はそれを使った。

 そして、人ではないものを呼び出したの」


 燭台の火がわずかに揺れ、影が壁を這う。


「それは、とても美しい姿をしていたわ。

 少女の形をしていて、まるで人と見分けがつかないほどに」


 その言葉には、わずかに温度が宿る。

 消えきらない記憶の残滓のように。


「男は、その少女に一目で恋をした。

 そして、少女もまた、男を愛したの」


 静かに言葉が積み重なっていく。


「男は優しかったわ。少なくとも最初は。

 少女に微笑みかけ、手を取り、未来を語った。

 彼女にとって、それだけで十分だったの」


 リリスの瞳が、さらに光を帯びる。


「でも、男は諦めきれなかった。

 富も、権力も、地位も。

 すべてを手に入れたいと願ってしまった」


 その声は変わらない。

 カイウスは何も言えず、ただ物語に聞き入っていた。


「少女は愚かだったわ。

 恋に溺れて、人の世の理を知らなかった。

 だから、男の望むものをすべて与え続けたの。

 自分の力を隠しながら、貴族の娘として振る舞い、婚約者となった男を引き上げ、道を整えていった」


 語られない過程が、かえって鮮明に浮かび上がる。


「男は、やがてすべてを手に入れた。

 地位を、名声を。国を。

 そして――王になったの」


 その言葉が落ちた瞬間、空気がわずかに重くなる。


「けれど、そのときになって、男はようやく気づいたのよ」


 リリスは、ゆっくりとカイウスを見る。


「自分は少しずつ老いていくのに、隣にいるものは何ひとつ変わらないということに」


 その差が、恐怖へと変わるまでに時間はかからなかったのだろう。


「男は、少女を遠ざけるようになった。

 少しずつ、確実に。

 やがて、完全に切り離すために――婚約を破棄し、別の女を王妃に迎えた」


 淡々とした語りの中に、冷たい刃のようなものが混じる。


「そして」


 リリスの視線が、この部屋へとゆっくり落ちた。

 天蓋の影、鏡台の縁、床に刻まれた見えない何かをなぞるように。


「ここに。この部屋に」


 その一語に、微かな重みが宿る。


「封じたの」


 “閉じ込めた”ではなかった。

 もっと意図的で、もっと確実な行為。


 カイウスはその言葉の違いを、理解しきれないまま感じ取る。


「呼び出すことができたのだから、その逆もできると思ったんでしょう」


 リリスは足元へと視線を落とす。


 石の床は何の変哲もないように見える。

 けれど、灯りの揺らぎの中で、わずかに――ほんのわずかに、線のようなものが浮かび上がって見えた気がした。


 幾重にも絡み合い、閉じるように描かれた紋様。

 目を凝らせば消えてしまいそうなほど淡い痕跡。


「人の理で縛れると思ったのね」


 その声には、わずかな嘲りが混じる。

 けれど、それ以上に深く沈んだ感情があった。


「遠ざけられ、裏切られ、最期には消される――」


 ほんの一瞬だけ、言葉が途切れる。


 そして。


「許せなかった。だって、愛していたのに」


 青い光を揺らしながら、リリスはカイウスを見た。

 その視線にも、その声音にも、確かな憎しみがあった。


「だから、消えるその瞬間」


 リリスは、ゆっくりと息を吐く。

 遠い時間を思い出すように。


「彼女は、笑ったのよ」


 その言葉に、カイウスの背筋が凍る。


「ひどく、ひどく……醜い笑顔で」


 その瞬間から、愛はもはや別のものに変わってしまった。


「男の血に呪いをかけた」


 指先が、カイウスの赤い髪へと触れる。

 優しく、確かめるように撫で、瞳を覗き込む。


「魂を引き継がせる呪い」


 逃げ場を与えないために。

 終わらせないために。


「何代先でも、どれだけ時が経っても必ず辿り着くように。

 同じ髪と目の色を目印に」


 カイウスの呼吸が乱れる。

 理解が、遅れて押し寄せてくる。


「……そんな……」


 言葉が崩れる。


「女神が……そのような……」


 リリスは、わずかに吹き出した。

 その無邪気な笑みには、慈悲も救いもない。


「そうね」


 肯定も否定もしない声音。


「女神は、そんなことはしないでしょうね」


 柔らかく言いながら、寝台に腰掛けると、カイウスに被さるようにして軽く口づけた。


 青い瞳が、間近で光る。

 その光は、先ほどよりもはっきりと強くなっていた。

 覗き込めば、引きずり込まれそうなほどに。


「じゃあ」


 耳元に口を寄せて囁く。


「男が呼び出したものは、いったい何だったのかしら」


 美しい姿。

 願いを叶える力。

 人の理の外にある存在。

 そして、愛と裏切りと呪い。


 カイウスの脳裏で、断片が繋がる。


 神話の挿絵。

 金の髪と青い瞳。

 慈悲深く微笑む女神。


 ――けれど。


 目の前にいるそれは、同じ姿でありながら、まったく違うものだった。


 その美しさは、救うためのものではない。

 引き寄せるためのものだ。

 信じさせるためのものだ。

 そして、奪うためのものだ。


 ふと、幼い頃に読んだ物語の一節が脳裏をよぎる。


 ――悪魔は、ときとして、神よりも美しい姿で人を惑わす。


 カイウスは、ようやく理解した。


 この部屋が何であるのか。

 目の前の存在が何であるのか。

 そして、自分という存在が、何の上に積み上げられてきたのかを。


 すべてが、最初から間違っていたのだと。





 レガリア公爵が婚約者と共に姿を消した。


 屋敷には、両親の死を悔い、自らの未熟を恥じる文面の手紙が残されていたという。

 心を病んだ若き公爵は、人知れず婚約者と共に旅立ったのだと、そういう筋書きで話は落ち着いた。


 何ひとつ持ち出されてはいなかった。

 行き先を知る者もいない。

 主人の帰りを待つほどの忠誠も、もはやあの家には残っていなかったのだろう。

 使用人たちはほどなく散り、屋敷は閉ざされ、荒れ、やがて忘れられていった。


 一つの国を打ち立てた旧王家の血は、そうして呆気なく途絶えた。



「秘密基地がなくなってしまいましたね」

「そうね」


 春にはまだ少し遠い午後のことだった。


 窓辺で、セドリックの銀の髪が柔らかな光を受けて輝いている。

 その眩しさに少し目を細めてから、ルクレツィアはゆったりと茶器を傾けた。


 カイウスをあの部屋へ運び入れたあと、二人が外へ出ると、扉はまるで最初から存在しなかったかのように消えていた。

 見慣れたはずの廊下を何度辿っても、二度と同じ場所へは行き着けない。

 鍵も、もうどこにも合わなかった。


 幼い頃から幾度となく忍び込んだ秘密基地は、二人の罪と願いを飲み込んだまま、王城のどこからも失われてしまった。


 二つの王家を結ぶ婚約が正式に成立した日、二人は最後の逢瀬のつもりであの部屋を訪れていた。


 ルクレツィアは、カイウスとの婚姻を思うだけで息が詰まりそうだった。

 あの男と夫婦になり、そっくりの赤い髪と目を持つ子を産む未来を想像するたび、胸の奥へ冷たいものが流れ込んでいく。

 王の決定は覆らない。

 ルクレツィアには、その絶望に深く沈んでいくのをただ待つことしかできなかった。


 それでも、セドリックといる時間だけは、その鉛のような感情をひととき忘れられた。


 名残惜しむように、部屋の中のものをあれこれ手に取っては、意味もなく触れて遊んだ。

 鏡台の引き出し、古い香炉、装飾の剥げた小箱。

 あの本も、そのひとつにすぎなかった。


 願いを叶える本。


 そんなものを本気で信じていたわけではない。

 けれど、笑いながら手順をなぞる指先には、冗談では済まない切実さがあった。


 二人の願いは、たった一つだけだった。


 最後の頁まで辿り着き、記された通りに手を重ねて血を一滴落とした瞬間、部屋は青い光に包まれた。


 強い光が収まったあと、床の淡く光る紋様の中心に立っていたのは一人の少女。


 呆けたように辺りを見回し、それからルクレツィアたちへ目を向けて微笑んだ。

 その姿は、建国神話の女神と見紛うほど、挿絵からそのまま抜け出してきたように美しかった。


 ――あれが何だったのか、今でもルクレツィアには分からない。


 神だったのか、悪魔だったのか。

 それとも、人がそう名づけることすらできない何かだったのか。


 ただ確かなのは、彼女が願いの代償として一つの命を求めたことと、二人がほとんど躊躇なくそれに応じたことだけだった。


 扉が消えた日から数日、手の甲に刻まれた紋様は契約の証のように残っていた。

 ある日唐突に熱を帯び、青白く光ったかと思うと、何もなかったように消えた。


 果たされたのだと、そう思った。


「でも」


 ルクレツィアを呼び戻すように、セドリックが静かに囁く。


「秘密にする必要は、もうありませんね」


 ルクレツィアは茶器を置いて、小さく笑った。

 セドリックは、その指先にためらいなく手を伸ばす。

 ルクレツィアは、抵抗しなかった。

 指を絡めるように握られた手を、そのまま受け入れる。


「ええ。もう、隠れる理由もないわ」


 春になれば式を挙げる予定だ。

 いずれルクレツィアは公爵位を継ぎ、セドリックがその傍らに立つのだろう。


 どんな子が生まれるのかは分からない。


 母に似て黒い髪を持つのか。

 父に似て銀を帯びるのか。

 それとも、まったく違う色を宿してくるのか。


 けれど、どんな色でもきっと愛しいのだと、今のルクレツィアには分かっていた。


 窓の外では、まだ冷たい風の中に、ほんのかすかな春の匂いが混じっていた。

ここまで読んでくださってありがとうございます!

婚約破棄とざまぁを、少しダーク寄りの味わいで書いてみました。

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