第9話 帰還と審問
隣村の集会所。
ミリエラの村から避難してきた人々が、ランプの柔らかな明かりの中で寄り添うように横になっていた。外では夜風が枝を揺らし、窓越しに月明かりが淡く差し込んでいた。
父と母をはじめとした動ける人たちは、昼間からこの村の手伝いに出ており、まだ戻っていない。
焚き火の名残りが漂う静かな空間で、ミリエラはぽつんと座っていた。膝にかかった古びた毛布が風に揺れ、その音が妙に遠く聞こえる。体に残る痛みは鈍く、動けば少し疼くが、じっとしているとその重さが心まで沈ませてくる。
外の空気を吸いたい。夜風に触れて、少しだけ気分転換がしたい。
そっと立ち上がると、木の床がぎしりと鳴る。
「ミリエラちゃん、どこに行くんだい?」
その音に気づき、入り口近くで布を畳んでいた隣村の顔見知りのおばさんが顔を上げた。灯りのゆらめきに照らされた頬には皺が刻まれ、柔らかな笑みの奥に、彼女を案じる気持ちが滲んでいる。
「せっかく動けるようになったからな。ちょっと散歩に行ってくる」
「一緒に行こうか?」
おばさんは手に取っていた布を置き、心配そうにミリエラを見る。夜風に揺れるランプの灯りが彼女の横顔を照らし、影が壁に伸びた。
ミリエラは、すぐに小さく笑って首を振る。
「大丈夫だ。すぐ帰ってくるから」
「そうかい。まだ身体は治っていないんだから、あまり激しく動かないようにね」
「うん、ありがとう。おばちゃん」
横を通り過ぎようとすると、おばさんが思い出したように近くの皿に置いてあったものを手渡してくる。
「あ、ミリエラちゃん。これ持って行きな」
それは、小さな拳ほどの大きさをした淡い橙色の果実、ルミンだった。薄く光沢のある皮の表面には朝露のような水滴が浮かび、手に取るとひんやりとした重みを感じる。井戸から出したばかりなのだろう。
いくつかをおばさんから受け取ってそのうちの一つを齧ると、果汁が弾けるように口いっぱいに広がった。甘酸っぱくて、少しだけ舌に残る渋みが心地よい。
「おいしい。ありがとう」
ミリエラはお礼を言って、集会所を出た。
外に出ると、夜の空気がひんやりと肌を撫でた。村の道を歩くたびに、踏みしめる土の感触が心地よい。焚き火の匂いが遠くから漂い、虫の声が絶え間なく続いている。
平和だ。家々からこぼれる灯りが土の道を照らし、人々の笑い声が遠くで響く。その穏やかな光景を見つめながら、ミリエラは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。自分の村では、もう見られない光景だった。
いや、違う。もうしばらくは見られない光景だろう。
きっと、あの旅人がなんとかしてくれる。彼の真っすぐな瞳を思い出して、ふっと笑みがこぼれる。
会ってからまだ二日しか経っていないのに、もうカイのことを信じている自分に気づく。疑う理由がどこにも見つからなかった。彼の不器用な言葉も、ぎこちない笑顔も、すべてがまっすぐで、嘘のないもののように見えた。
一昨日、まるで風に乗ってやって来たように突然現れたカイ。からかえば本気で怒るし、口調や仕草は年相応の子どもっぽさがある。年は自分とそう変わらないように見えるのに、ふとした瞬間に見せる眼差しだけは、まるで遠いものを見ているような深さを帯びていた。
村から畑に向かう途中、カイは「マホウ」だの「マオウ」だのと、何かを確かめるような真剣さで尋ねてきた。最終的には冗談のように笑って終わったが、その瞬間に見た彼の瞳の奥には、どこか切実な光が宿っていたのを覚えている。
彼がどんなところから来たのか、それはわからない。けれど、気になるものは気になる。村の外へ出れば、自分の知らない出来事や常識が溢れているのかもしれない。
これまでずっと、村で穏やかに生きていければそれで良いと思っていた。だが、今はちょっとだけ違う気持ちも出て来ている。
いつか、外の世界も見てみたい。旅に出て、そのときもう一度カイに会ったなら、彼はどんな顔をするだろう。驚くだろうか、それとも喜ぶだろうか。
想像しただけで、自然と笑みが零れる。ミリエラは小さく息をついて、星々の光が静かに瞬く夜空を見上げた。
――だから、無理はしないでくれよ。
まだあの村に残って、傷ついた身体のまま村を守ろうとしてくれている少年にそう願いながら、ミリエラはゆっくりと歩を進めた。
夜の空気は澄んでいて、肌に触れると少しひんやりする。息を吐けば白くはならず、ただ冷たさが胸の奥を抜けていく。家々の明かりが一つ、また一つと背後に遠ざかり、やがて道の両脇から灯が消える。代わりに、虫の声と風が通り抜ける音だけが残った。
開けた風の通り道に出ると、空がぐっと広がった。見上げれば、雲ひとつない夜空に月が冴え冴えと浮かび、村を淡く照らす。
気づけば、村の入り口にたどり着いていた。ここまで来るつもりはなかったのに、足が自然と向かっていたのだ。胸の奥に小さなざわめきを覚えながら、ミリエラは目を細めた。
月光の下、少し離れた場所に見覚えのある少年の影が静かに立っているのが見えた。
「あれ、カイ?」
淡い月明かりが輪郭を縁取り、短い髪が夜風に揺れる。足もとを流れる冷たい風が、彼と自分との距離をそっと測るように通り過ぎていった。
最初、彼のことを思い浮かべたから見えた幻想かと思った。けれど、カイは確かにそこにいた。
「よっ。怪我は大丈夫か?」
ミリエラと目が合うと、彼は片手を軽くあげ、柔らかな笑みを浮かべてゆっくりと歩み寄ってくる。
「もう大丈夫だぞ。ちょっとしか痛くない」
「それは大丈夫じゃないだろ。寝とけよ」
カイの心配する声が、静かな夜気の中に柔らかく響いた。軽口を叩きながらも、その目にはどこか安堵の色が浮かんでいる。
けれど、そんな穏やかな空気の中で、ふと疑問が浮かぶ。
「て、あたしのことよりカイ、なんでここにいるんだよ? 村は?」
そう言うと、カイはへへっと笑って得意げに親指をぴんと立てる。
「オーク、倒してきたぜ」
「ほんとか!?」
「ほんとだ。すごかったんだぜ!」
カイは身振り手振りを交えながら、両手を大きく振って戦いの様子を語り始めた。
目を輝かせ、声を弾ませて話すその姿は、まるで少年が冒険譚を語っているようだった。だが、あまりに興奮しすぎて擬音ばかりが飛び出し、「ドン!」や「バンッ!」という擬音が次々と出てくるせいで、肝心なところはさっぱり伝わってこない。
けれど、その表情には嘘がない。勝ったことを誇るのもあるだろうが、それよりも安心して欲しいという純粋な優しさのほうが強いように思えた。
「どうだ? すごいだろ!?」
カイの身振り手振りがようやく収まり、興奮冷めやらぬ笑顔のまま彼が胸を張った。だが、ミリエラの頭の中には、轟音や閃光のような擬音ばかりがこだましている。
どんな戦いだったのかは、結局よく分からなかったが――それでもすごく頑張って倒したことだけは伝わって来た。
「よくわからなかった」
「なんでだよ!?」
正直に言うと、カイが思いきり吠えた。けれど、その顔は本気で怒っていない。いや、少しは拗ねていそうな表情だ。
「……でも、良かった」
ミリエラは静かに言った。心の奥から湧き上がる安堵が、自然とその言葉に乗る。
「おう! これでミリィも村のみんなも、安心して村に戻れるぞ。畑も、あれ以上荒らしてないからな!」
「ああ、それもそうなんだけどな。それだけじゃなくて、カイ――ちゃんとオークを倒せて良かったな」
その一言に、カイが息を呑む。
村が襲われ、たくさんの犠牲を出したあの夜のことを思い出す。あのとき、カイがどれだけ自分を責めていたか。それを知っているのは、きっとミリエラだけだ。彼の手は震え、唇を噛みしめたまま血が滲んでいた。目の奥にあったのは怒りではなく、どうしようもない後悔だった。村を守れなかった自分を、誰よりも責めていたのだ。
それでも、彼は再び立ち上がった。傷だらけの体で、恐怖に震えたであろう膝を押さえつけ、あの灰色の巨躯に再び立ち向かった。
ミリエラは胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じる。想像するだけで涙が滲みそうになる。それでも、あの恐怖を乗り越え、戦い抜いた彼を心の底から褒めてあげたかった。
月明かりが二人をやわらかく包み込む。淡い光が揺れ、カイの頬にも静かに反射していた。彼は驚いたように目を見開き、次の瞬間には泣きそうな顔になり、それを誤魔化すように頬を掻いて照れ笑いを浮かべる。そして最後には、いつものように明るく笑った。その笑顔は、夜空に溶ける月光を塗りつぶすくらい眩しく、温かかった。
「おう!」
風が少し止み、虫の声が遠のく。二人の間に静けさが落ちた。
その沈黙を破るように、カイがゆっくりと顔を上げる。月明かりがその横顔を照らし、真剣な表情を浮かび上がらせた。
「それでな、ここに来た理由なんだけど、最後にお前にお別れを言おうと思って」
「お別れ? もう行くのか? もっとゆっくりしてからでも」
「いや、急用が出来てな。時間がねえんだ。だから、この世界で一番最初に会ったミリィに別れが言いてえ」
ミリエラは少しだけ唇を噛んだ。胸の奥がきゅっと締めつけられ、目の前の光景がにじんで見えるほどに、何かがこみ上げてくる。
それでも、ミリエラはぐっと唇の端を持ち上げ、無理にでも笑顔を作った。泣きたくなかった。彼の前では、最後まで笑っていたかった。
「カイ、村を救ってくれて、ありがとう。あたしの好きな畑を守ってくれて、ありがとう。みんなの仇を取ってくれて、ありがとう。あたしはお前に、心から感謝してる。お前はあの日自分を責めてたけど……あたしから見たら、お前はもう、誰よりも強いよ」
胸にあった素直な想いが、ひとつひとつ言葉となって零れ落ちた。
少しの沈黙ののち、ミリエラが顔を上げた。その瞳は、光を映して真っすぐに彼を見つめている。
「また、会えるか?」
カイは一瞬だけ目を伏せ、月の光を背にして小さく息をつく。迷いがその横顔をかすめるが、すぐに真剣な表情が浮かんだ。
「――当たり前だろ!」
「そっか。なら、またな」
「おう、またな。元気でな」
カイが背を向けて歩き出す。夜風が彼のマントをふわりと揺らし、足もとで砂が静かに鳴った。その背中が月明かりの向こうに小さくなっていくのを見つめながら、ミリエラは胸の奥にぽっかりと穴があくような感覚を覚える。
そのとき、ふと掌に残る感触に気づいた。さっきおばさんからもらったルミンの果実が、温もりを宿したままそこにあった。
「あ、そうだ。カイ!」
思わず声を張り上げる。夜の静寂を破るその声に、カイが振り返る。
「ん?」
ミリエラは手を振りかぶり、下投げで果実を放った。月明かりを受けて、ルミンが弧を描きながら飛ぶ。カイが反射的に手を伸ばし、軽やかにキャッチした。
「畑で育ててた果実だ! これはこの村のだけど、いつかうちの村のも食べてくれ」
カイはそれをがぶっと齧った。果汁が月光を受けてきらりと光り、彼の頬を伝って滴り落ちる。あっという間に食べ終えたカイは、少年のように無邪気な笑顔を見せた。
「うん。うめえ! 絶対食いに行くわ」
そして、一際強い風が吹いた。夜の木々がざわめき、枯葉が舞う。
ミリエラは、思わず目を瞑る。風が止むまでのわずかな間、胸の中で何かが静かにほどけていくようだった。
そして、目を開けたときには、もうカイの姿はなかった。月の光だけが、彼の立っていた場所を照らしていた。
――風に乗ってやって来たと思ったら、風に乗っていなくなった。
その言葉をそっと胸の中で呟き、ミリエラは集会所へと戻っていった。背中に残る夜風のぬくもりが、ほんの少しだけ涙を乾かしてくれた。
カイを連れてS.C.O.P.E.に帰還してから、四日が経った。
天井から垂直に落ちる一本の人工照明だけが、わずかな光を円卓へと落としている。まるで空間そのものが呼吸を止めたような、静謐な暗がりだ。
そこにんな部屋に、ジンは静かに立っていた。無機質な空調の音がかすかに耳を打ち、まるで時間が止まったかのような冷たい静寂が漂っている。
目の前には大きめな金属製の円卓があり、その奥にはいくつもの人影が揺らめいていた。姿形は見えるが、どこか現実味がない。影の粒子が集まって形を成しているようにも見えるそれは、S.C.O.P.E.上層部の人物たちの遠隔投影である。
ここは、S.C.O.P.E.の審問室。規則違反者や罪を犯した者が、呼ばれる場所だ。
今回、ジンが裁かれるわけではない。それでも、この場に立つだけで、背筋に冷たいものが走っていた。
「参謀作戦局所属、A級隊員ジン=アークウェイル。同局所属、F級隊員カイ=ノヴァリスの直属の隊長はあなたで間違いありませんか?」
「はい」
凛とした声の女性の呼びかけが、無機質な空気を切り裂くように響いた。
ジンは反射的に背筋を伸ばし、呼吸を整える。
「貴方の部下であるカイが、許可なく異世界転移を行った事実を認めますか?」
「はい」
「貴方は、当該行動を事前に察知していましたか?」
「いいえ。私は当時任務に就いており、彼が転移したと報告を受けたのは帰還した後となります」
淡々とした質疑応答が続く。審問官の声は落ち着いているが、その抑揚のない口調がかえって冷たく響き、まるで冷えた鉄を一枚ずつ心臓に押し当てられるようだった。
質問と返答の間に生まれるちょっとした沈黙が、部屋の静けさを際立たせる。
淡い照明が円卓の上で反射し、その光がジンの顔に線を描く。ほんのわずかに動いた指先さえ、緊張の中で目立っていないかと感じてしまう。
冷静を装いながらも、次にどんな言葉が突きつけられるのか、息を呑むような感覚に囚われていた。
「管理監察局の確認によれば、異世界への無断転移は過去に七件の前例があります」
S.C.O.P.E.には、各々の専門分野ごとに役割を担う局が存在している。どの局も独立した裁量を持ちながら、全体で巨大な機構を成していた。
その中で、第六局とも呼ばれる管理監察局は、S.C.O.P.E.内部の規律の維持、審問や裁定、倫理監察を担う厳格な部署だ。
――規律の乱れは、信頼を揺るがす。
そう信じる彼らの姿勢は、冷徹な秤でもある。
今まさに進行しているこの審問も、管理監察局の局長によって進められている。
ジンの前で縦に落ちる光は、どこかで読んだ物語の“救いの糸”を思わせるものだったが、今の彼にはその糸が自分を縛る鎖のようにも感じられた。
「そのうち六件は未帰還、一件は帰還後に除隊処分となっています」
「それなら、今回も除隊処分でいいんじゃないかな」
一人の声が放たれた瞬間、ジンは唇を軽く引き結んだ。
――まあ、そうなるよね。
除隊処分が当然だという空気が部屋に漂い、反論の気配すら立たない。
静寂が、目に見えるように空間を満たしていく。金属製の黒円卓が冷たく光を返し、わずかに空調が鳴る音だけが耳に残る。
このままでは、そのままカイの除隊処分の正式決定が下されるだろう。
沈黙が流れ、次の裁定の言葉が発せられそうになった瞬間、ジンは少し多く息を吸い込んだ。
「――発言よろしいでしょうか?」
その声は静寂を切り裂き、硬質な空気を震わせる。
上層部の面々の表情は見えない。けれど、無数の視線が自分に突き刺さるような錯覚があった。冷えきった空調の中、呼吸の音さえ響くほどの静寂の中で、ただ彼の声だけが熱を持って残る。
「発言を許可します」
淡々とした第六局長の声が、静かに部屋へと降り注いだ。その声音には審判するような威圧が宿り、見えない冷気が広がるように空気を引き締めていく。
ジンは一度深呼吸をして、口を開いた。
「今回、F級隊員であるカイが転移したのは、世界脅威度Fの世界となります。世界脅威度Fの世界と言えば、平和そのもの。そこで、彼は一匹のオークと対峙しました。そのオークは、その世界に生息する通常個体と比べ明らかに異常で、体格は倍近く大きく、棍棒の風圧だけで木々をへし折り、そして喋ったと言います」
ジンのその言葉に、淡く光る影がわずかに揺らめき、審問官たちの輪郭が微かに歪んだかのように見える。誰かの息を呑む音が混じり、冷静だった空気が波紋のように広がっていく。
「ほう」
「喋った?」
誰かが低くつぶやき、別の者が小さく問い返す。淡い照明が円卓をなぞり、わずかに光の筋が揺らめいた。誰もがジンの次の言葉を待ちながら息を潜め、冷えた空気が張り詰めていく。
ジンは姿勢を崩さず、静かに次の言葉を紡いだ。
「はい。単なる言語模倣ではなく、きちんとした言葉だったとのことです。そのオークを持ち帰り、技術開発局の生体研究課に提出したところ、そのオークは世界脅威度Bのオークであることが分かりました」
「Bのオーク!?」
その言葉に、円卓の向こう側が一斉に今度こそざわめいた。影が微かに明滅し、空気が熱を帯びたように揺らぐ。これまで張り詰めていた冷静さが崩れた。
第三局とも呼ばれる技術開発局。その役割は、技術や魔法、生体構造の研究から開発・実験に至るまで多岐にわたる。オークなどのモンスターも、当然研究対象である。
影ゆえに表情までは読み取れないが、その気配が確かに変わったのをジンは感じ取った。審問室に漂っていた静謐な緊張が、今や驚愕に満ちたざわめきへと変わっていた。
「世界脅威度Bの個体が、世界脅威度Fの世界に出現した。世界脅威度が三つ違えば、一般的なゴブリンやスライムでも国一つを滅ぼすことができます。今回、そのオークは、脅威度が四つも差があるところに現れました。もしS.C.O.P.E.の到着が遅ければ、かの世界はオーク一体で滅亡していた可能性があります」
「……技術開発局局長、それは事実ですか?」
ざわめきを断ち切るように、第六局長が問いを放つ。響くその声には、真偽を見極めようとする鋭さが宿っていた。
ざわめきがおさまり、第三局長の言葉を誰もが待つ。
「ああ、本当だとも」
直後、技術開発局の長の興奮した声が空間に弾けた。表情こそ見えないが、嬉々としているのが感じ取れる。
「ジンくんが持ち帰って来たオークを調査したところ、世界識別コードB-38964《グレーヴェン》のオークだと判明した」
「なぜそんなBの個体がFに?」
「待ちたまえよ。まずはこれを見てくれ」
第三局長が静かに言葉を終えると、円卓の中心部が低く唸りを上げながら輝きだした。
薄い金属板の隙間から光の筋が走り、円形の影装置が稼働を始める。淡い白光がゆっくりと空間に広がり、やがて灰色の巨体が空に像を結んだ。
「これが、通常のグレーヴェンに生息するオークだ。体格はおよそ三・五メートル。肌は黒紫がかった灰色で、筋肉繊維が極めて発達している。牙は下顎から上方へ伸び、視覚器は黄色」
そこまで言うと、薄暗い照明の中、空中に投影された影が揺らめき、もう一体の姿が映し出された。
比較するように映し出された二体のオークを見て、審問室の空気が一変した。
「そして、こちらが今回ジンくんが持ち帰ったオーク。同じく三・五メートル級の体格だが、皮膚表面にはひび割れと、異常なまでの硬質化が確認されている」
体に焼け焦げたような赤黒い線がいくつも走り、熱で波打つ肉が層をなしていた。まるで内部から何かが噴き出して固まったような、不自然な膨らみが皮膚の下に見える。
誰もが息を潜め、その映像を見つめた。
映像の焦点が、ゆっくりとオークの顔に寄っていく。歪んだその表情は、怒りとも苦痛ともつかないようにも見える。
「顔面部。通常個体と比べると牙は異常なまでに伸長し、右目は通常通り黄色だが、もう片方の左目は赤黒く濁っている」
ズームアウトし、再び全身が映し出された。焦げたような皮膚の表面を光がなぞり、黒と赤の縞模様が波打つように浮かび上がる。
「皮膚の、このひび割れのような裂け目模様」
ホログラムの光が彼の動きに呼応して明滅し、映像内のオークの皮膚がじわりと拡大されていく。表面をなぞる光が細かなひび割れを照らし出し、焦げたような質感が生々しく浮かび上がった。
「この裂け目模様、一見ランダムに見えるが、よく見ると明確な規則性がある。解析を進めた結果、これは魔法陣だと分かった。しかも単一ではない。いくつもの術式が折り重なり、まるで刻印のようにひび割れとして見えるように体表を走っている。一部には既知の構文もあり、そこからそれが異世界転移に関わる陣式だと判明した」
そこで第三局長は一拍の間を置き、息を吸い込む気配が審問室に伝わる。緊張が張り詰める中、彼は一転落ち着いた声で言葉を発した。
「結論を言おう。この個体は、何者かによって、意図的に別の世界に送り込まれたのだ」
再びざわめきが起こり、影たちの輪郭が淡く揺らめいた。
ざわめきを断ち切るように、ジンが一歩前に出た。硬い床を踏む音がかつんと響くと、淡い光の中で影たちが動きを止め、音すら吸い込むように沈黙した。
「発見が遅れていれば、今回見つかった世界はオークに滅亡させられていた可能性があります。それを未然に防いだのが、カイです。たしかにカイは規則を破りました。ですが、それだけでなく、この功績も含めてご判断いただきたいです」
一人でオークを倒し、世界を救った少年。その功績はもっと称えられても良いものだが、当の本人にはきっとそんな自覚など微塵もないだろう。ただ彼は、自分と親しくしてくれた人たちを守りたい。その一心で、格上のオークに立ち向かったのだ。
ジンの脳裏に、カイが現地の少女と話している後ろ姿が蘇った。
「F級隊員が、世界脅威度Bのモンスターを倒したというのか?」
半ば信じがたいというように、誰かが低く呟くのが耳に入る。
「はい。カイ隊員は、単独でそちらのオークを無力化しています。現在拘留しているカイ隊員の記憶を直接覗いたため、間違いありません」
第六局長が言うと、沈黙が落ちた。ジンからはその表情は見えないが、審問官たちの間で重い思考が巡っているのを感じ取れた。
やがて、再び第六局長が再び口を開いた。
「――功績は認めます。ですが、規律違反が消えるわけではありません」
冷静な声が空間に落ちた。その声音には氷のような鋭さがあり、ひとつひとつの言葉が金属を擦る音のように響く。
「規律の乱れは、信頼を揺るがします」
その一言に、審問室の空気が冷たく締まる。誰もが息を潜め、わずかな動作音さえ遠くに感じられた。
やがて、年配の男のしわがれた声がその静寂を割った。
「……だが、彼が動かなければ、今回見つかった世界は我々が行く頃には消滅していたじゃろう。それもまた事実じゃ」
「難しいですね。罪と功をどう秤にかけるべきか……」
爽やかな声が続き、軽く息を吐く音がした。硬直していた空気がようやく動き出し、沈黙を破るように次々と声が交わされていく。
「俺は、世界を救った実績の方がでかいと思うぜ。それに、強いやつはうちに置いておきてえ」
「私もそう思います。たとえ偶然だとしても、多くの命が救われたことは事実です」
やや砕けた口調の声に若い女性の声が穏やかに重なり、意見が出される。
「そうじゃのう。除隊処分ではなく、罰を与えるくらいがちょうど良いんじゃないかの」
年配の男の声がゆっくりと揺れ、影が思慮深げにうなずくような気配を見せる。
「第二、第四、第五局長は除隊に反対だということですね」
「そういう第六局長はどうなんだよ?」
場の空気が変わり、全員の注意が第六局長の声の方向へと向かい、次に発せられる言葉を待つように静寂が支配した。
「私は、前例にならい除隊処分とすべきだと思います。一度こういう例を許してしまえば、例外が次々と出てくることになります」
その言葉には、冷たい刃のような鋭さがあった。その声の硬さから、厳格な決意と責務を背負う覚悟がひしひしと伝わってくる。
「そうだね。僕も除隊に賛成かな」
軽やかな声が割って入る。
「今のところ、賛成2票反対3票ですね。第三局長はいかがでしょうか? もし賛成ということであれば、同数となるため総司令部に判断を委ねることになります」
今度は、第三局長の言葉を誰もが待った。沈黙が張り詰め、空調の音さえ遠く感じられる。
ジンは無意識に拳を握りしめる。ここで除隊が可決してしまえば、ジンにはもう打つ手がない。
やがて、第三局長の声が響いた。
「……反対だね。こんな面白い素材を持ち帰ってくれたんだ。感謝しかないよ」
どこか愉快そうな響きが審問室の静寂をゆるやかに溶かしていく。
淡い光の中で影の輪郭が揺れ、第三局長の姿がかすかに笑っているように見えた。彼の声音には楽しげな色が混じり、硬かった空間にわずかな温度が戻っていく。
「……はぁ。まったく。では、議決の結果、除隊に賛成二票、反対四票。カイ隊員の除隊処分は否決とします」
ジンの肩から、張り詰めていた力が抜け落ちた。胸の奥に詰まっていた息を静かに吐き出すと、冷たい空気が肺の奥を通り抜けていく。
良かった。ジンは小さく息を吐き、安堵の思いが胸を満たした。
「それでは、カイ隊員の処分を決めましょう」
しばしの沈黙。光の反射が円卓を照らし、誰もが思考の底に沈んでいく。電子機器の駆動音だけがかすかに響く。そのとき――。
「……あ、そういえば――」
半月後。
カイはジンの前に立っていた。両隣には、修道服をアレンジしまくったグレたシスターと、パーカーを深く被る今にも寝そうな少女。
「じゃあ、俺たちジン隊は、今日からハルメノスからの使者――姫の護衛をするから」
ジンのあっさりした一言に、カイは頭の処理が追いつかない。口を開けたまま固まり、数秒遅れてようやく声が出た。
「……は? え?」
カイの初任務は、予想外すぎる形で幕を開けた。




