第6話 再び立つ
村の復興に勤しむ村人たちは、泥と汗にまみれていた。
倒壊した家屋の梁を、泥に足を取られながら数人がかりで引き起こす。汗が泥に混ざり、腕にまとわりつく。折れた柱は一本ずつ肩に担がれ、焦げ跡やひびを確かめながら、再利用出来るものとそうでないものを分けていく。
男たちは雑談を交わしつつ、壊れた木片を拾い集め、鍬や熊手で地面を均した。風が吹くたび、瓦礫の隙間から灰が舞い上がる。崩れ落ちた屋根や柵は、村のあちこちに集められて小さな山となっていた。
そんな中でも、沈みかける心を奮い立たせるように、誰もが口を閉ざさずに声を掛け合う。掛け声はどこか無理に明るくしているようにも聞こえるが、それでも希望を繋ぐ言葉に違いはなかった。彼らの眼差しに、諦めの色は見られない。
重傷者や戦えない者たちは、昨日のうちに歩いて二時間ほど先にある隣村へ避難させた。残ったのは、まだこの地を諦めず、再び立ち上がろうとする者たちばかりだ。
昨日の朝、淡い霧がまだ広場を包むころ、村の大人たちが囲むようにして集まっていた。皆の顔には夜明けの光を受けて深い影が落ち、疲労と不安が刻まれていたが、それでも消えない真剣さが宿っている。
声をかけようとしたが、漏れてくる話し声に、思わず足が止まった。
『今後――どうする――』
『でも――村――また――』
『ここは俺たち――』
カイは、森へと足音を忍ばせるように歩き出す。湿った土を踏みしめるたび、かすかに靴底が鳴る。背後では村のざわめきが遠のき、代わりに森の静寂が広がっていく。
カイは、この世界の人間ではない。だから、この村のこれからに言葉を挟む資格はない。自分は、いずれこの場所から姿を消すことになる。彼らがどんな結論を出そうとも、カイはただ受け入れるだけだ。
枝が風に揺れてかすかに軋み、遠くで鳥の声が響く。湿った苔と土の匂いが漂う森の中、カイは落ち葉を踏みしめながら、胸の奥に沈殿した重い思いを抱えて歩いた。時折、木々の間から差し込む光が彼の頬をかすめ、そのたびに心が波立つ。
やがて森を抜けて再び村に戻って来たとき、村人たちはすでに再建の準備を始めていた。掛け声と木の音が響く光景に、カイは思わず息を呑む。
壊れた村に立ち、でも村を捨てずに残る道を選んだ人々の姿を見つめた。傷だらけの手で木材を運び、泥だらけになりながらも笑い合う声が風に混じって届く。
その光景が、胸の奥をそっと温めていった。
男たちは汗に濡れた衣服を絞り、肩に木材を担ぎ上げては足元の泥を踏みしめながら動き続けている。陽射しを受けてその額が光り、額から滴る汗が地面に落ちるたび、小さな砂埃が舞い上がった。
「おーい、これまだ使えるか?」
それに混ざって木材の仕分けをしていたカイが、ひときわ大きな板を両手で掲げて近くの男に声をかける。その拍子に粉塵が空中で金色に煌めき、汗に濡れたカイの腕にうっすらと貼りつく。
「どれどれ」
返事とともに近くにいた男が泥をはねながら駆け寄り、焦げた板の端を指でこすって炭の粉を払い落とす。指先に残る黒ずみを見て眉をひそめつつ、木肌を確かめた。
やがて、男は削った跡を一瞥し、にっと歯を見せて笑った。
「端を切ったら使えそうだな」
「そっか! よっしゃ」
カイはそれを、まだ使える木材を積み上げた山の傍へ運び、慎重に下ろした。息を整えて再び作業に戻ろうとしたそのとき、背後から男の声が飛んできた。
「というか、カイ。お前もうそんなに動いて大丈夫なのか?」
「当たり前だろ! もうピンピンしてるぜ」
村人の声に、カイは額の汗を腕でぬぐいながら振り返った。視線の先には、崩れた家屋や散乱した瓦礫がまだあちこちに残っている。カイの顔に、笑みとやる気が湧き上がってくる。
「若いってすげえな」
男が肩をすくめて笑い、再び木材を担いで作業に戻っていった。周囲では木の音や人の掛け声が混じり合い、昼の陽射しが瓦礫の山を白く照らしている。
しばらくそうやって作業を続けていると、ふと風の流れが変わったような気がした。森が波のようにざわめき、小鳥たちが一斉に枝を離れて空へ舞い上がる。乾いた風が村の端を抜け、焦げ跡の残る地面を舐めるように走り抜けた。周囲の男たちは手を止めずに作業を続けていたが、カイだけは胸の奥に重たい違和感を覚え、ゆっくりと顔を上げて空を仰いだ。
カイが目を細めていると、「き、来たぞ!」という叫び声とともに、森の見回りに出ていた男たちが駆けてくる。肩で荒く息をつき、額から流れる汗が頬を伝って落ちた。彼らの顔は蒼白で、恐怖が露骨に刻まれている。
カイと村人たちは一瞬だけ目を合わせた。空気が張り詰め、遠くで地面が低く鳴動している。カイが短く頷くと、他の者たちもそれに応える。胸の奥に生まれる恐怖を押し殺しながら、彼らは動き出す。
「カイ、無茶すんなよ!」
「すまねえな!」
村人たちが、口々にカイへ声をかけながら去っていく。肩に掛けた槍や剣が揺れ、足音が少しずつ遠ざかっていく。カイはその背を見送りつつ、声を張り上げた。
「そっちも頼むぜ!」
「任せろ!」
力強い返事とともに、遠くから挙げられた手が陽光を受けて光る。
その背中が徐々に小さくなっていくのを見つめながら、カイは無意識に拳を握りしめた。胸の奥には、鉛のように重たいものが沈み、息を吐くたびにそれが少しずつ形を変えて広がっていく。
少しして、宴のときに腕相撲で競った男が駆け寄ってきた。カイの目前で足を止めると、強く息を吐きながらその肩に手を置いた。男の視線が、まっすぐカイを射抜く。
「カイ。村は壊れても、また建て直せる。けどな、お前の命は二度と戻らないんだ。お前をこれから一番危険な目に遭わせる俺が言うことでもないが、村よりも自分を大事にしてくれよ」
カイの目が、大きく見開かれる。そして、小さく笑みを浮かべてうなずいた。
「……ああ、分かってるよ」
それに男は満足そうに頷くと、背を向けて走り出す。足音が泥を踏むたびにぐしゃりと響き、やがてそれも遠のいていった。
彼らの姿が木々の影に溶け込むと、残された村に静寂が降りる。先ほどまでの声も、放り投げる木の音も止まり、耳に残るのは風が吹き抜ける音だけだ。
――本当に、良い人たちだ。
これまで何十年も過ごした故郷の村よりも、昨日今日出会ったばかりのカイの身の方を案じてくれた。それが胸の奥に温かく広がり、喉の奥が熱くなる。
カイは深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。胸にあった緊張が解けていく。
「よし!」
気合を入れるように小さく呟くと、カイは地を蹴った。
村を出て、木々の合間を縫うように森へと駆け抜ける。向かうのは、当然地響きが伝わってくる方向だ。陽光の差し込む森の奥で、影がゆらりと揺れ、葉の隙間から光が不規則に瞬く。風が止まり、空気が張りつめている。
重い足音が連続して地面を叩き、その度に振動が靴底から脛へと伝わってきた。
遠くの森の奥で揺れていた影が、徐々に輪郭を帯びていく。木々の隙間から垣間見えるのは、常識を超えた巨大な体躯。枝が折れ、地面が震え、低く唸るような音が近づくたび、カイの胸の鼓動が速く強く打ちつけ始める。
森が軋み、空気が歪む。もう、逃げ場はない。
少しして、そいつの姿が木々の間から現れた。
黒紫がかった灰色の肌、長く伸びた牙が覗き、右目は黄色く光り、もう片方の目は赤黒く濁っている。その手には、一昨日と変わらず黒鉄棍が握られている。全身には焼け爛れたような不規則な裂け目模様が走り、見る者に本能的な恐怖を植え付ける。
――やっぱりこえぇ。
ごくりと喉が鳴る。震える足を必死に踏みしめる。全身の毛穴が開き、冷たい汗が背を伝う。それでも胸の奥に灯る熱が、恐怖をゆっくりと押し流していった。
絶対に守る。あの村を、あの人たちを。
「ここから先は通さねえよ!」
カイは地面を強く蹴り、土を跳ね上げながらオークの前に飛び出した。灰色の巨体が陽を遮り、影がカイを包み込む。
オークの喉奥から低い唸り声が漏れ、その腕が振り上がる。直後に、黒鉄棍が空を裂いて振り下ろされた。近くの枝葉が一瞬で吹き飛び、舞い上がる。
しかしカイは、一歩も引かない。地面をしっかりと踏みしめ、迫りくる巨影を真正面から見据える。頬を撫でる風は熱を帯び、髪がばらつく。
次の瞬間、黒鉄棍が空を裂き、轟音とともに彼の頭上へ叩きつけられた。その衝撃は稲妻のように脳天を貫き、足元の大地までも震わせる。
カイの体を粉砕し、地を割るはずだった一撃。だが、轟音は立てても地を抉ることなく、何かに吸い取られたように止まった。
オークはその違和感に一瞬目を見開き、小さく唸り声を漏らす。
やがて、黒鉄棍の影から、掠れた低い声が漏れる。
「……いてえ」
カイの額から血が伝い落ち、頬を伝って土へと垂れる。赤い雫が乾いた地面に滲み込んで広がった。視界の端は赤く染まり、頭の奥で鈍い痛みが響いていた。それでもカイは、膝をつくことなくオークを睨みつける。
心の奥で、何かが静かに燃え始める。その瞳にはもう怯えの影はなく、ただ揺るがぬ決意だけが宿っていた。
「でも――倒れるほどじゃねえ」
ニッと笑い、ゆっくりと拳を引く。肩から腕、指先に至るまでの動きが一切ぶれず、まるで静かな湖面に一滴の波紋を描くように滑らかな動き。周囲の空気が張り詰め、風のざわめきも止まる。森全体がその瞬間を見守るかのように、時間すら凍りついたように感じる。
――虚核玄流・芯貫
放たれた一撃は、見た目はただの突き。カイの拳が、オークの胸にトンと当たる。あまりにも小さな衝撃で、分厚い胸板にはまるで効いていないようにしか見えない。
一見、何も起きなかったように見えた。
しかし、少ししてオークの眼は驚きに見開かれ、胸が上下するたびに重たい呼吸音が響く。わずかに遅れて、その胸の奥から低いうなりが漏れ出した。
次の瞬間、オークの口から獣じみた咆哮が爆発した。
「グオォォッ!!」
大気が唸りを上げて震え、木々の葉がばさばさと舞い落ちる。巨体は後方へ大きくのけぞり、地面を削るようにして膝をついた。土煙がもくもくと立ち上がり、その中でカイの影が揺らめく。
「へっ。やっぱりこれは効くか」
カイの口元に浮かんだのは、勝ち誇るような笑みではなく、安堵と自信の笑みだった。いや、ちょっとは勝ち誇った気持ちもあった。
だが、それがオークを刺激した。赤黒い眼がぎょろりと光り、鼻息が荒くなる。これまで羽虫程度にしか思っていなかったカイを、殺すべき敵だと認識する。
「やべ!」
横薙ぎに振り抜かれた黒鉄棍をギリギリで避ける。風圧だけで、背後の木々が何本もまとめてへし折れた。折れた木片がカイの頬をかすめ、浅い傷を残す。
「怒らせすぎたか?」
苦笑混じりに言うが、額には冷や汗が滲んでいた。手のひらはじっとりと汗ばみ、握った拳が微かに震える。
――でも、ちょうどいい。
カイは地を蹴り、泥を跳ね上げながら森の奥へと駆け抜けた。枝葉が顔をかすめ、木漏れ日が斑に差し込む中、木々の影を縫うように走る。なるべく村から遠ざかるように進路を取り、背後からは地鳴りのようなオークの足音が迫ってくる。
ひとつひとつの振動が背骨を震わせ、胸の奥で心臓が暴れる。それでもカイは息を整えながら、焦らず、ただ逃げる。相手の体力を削り取るように、絶妙な距離感を保ちながら躱して、森の奥へと誘い込む。
やがて、オークの足取りが鈍った。肩を上下させながら、荒い呼吸を吐き出す。熱気を帯びた息が白く揺れ、巨体の周囲にうっすらと靄をつくる。その首がぐいと持ち上がり、空を仰ぐように鼻を鳴らした。涎が糸を引いて顎から滴り落ち、土の上で泡を立てる。赤黒い瞳がぎらつき、どこか遠く一点を鋭く捉えた。
「メシ……」
オークの口から、かすれた声が漏れた。岩が軋むような低音が森の静寂を震わせ、耳の奥で鈍く響く。
オークの言う通り、今この場には焼いた肉の美味しそうな匂いが風に運ばれて流れて来ていた。同時に、オークが明確な言葉を発したことに、息を呑む。
――喋れるのか。
今まで一度も声らしい声を出さなかったから、話せないモンスターだと思っていた。だが、世界によっては知性を持ち、言葉を発する個体がいるとS.C.O.P.E.の授業で聞いたことがある。
それを思い出したとき、胸の奥に小さな違和感が残ったが、それを確かめる間もなくオークが動き出した。カイはすぐに意識を切り替え、その巨体の動きを見据える。
オークは鼻をひくつかせながら、カイのことなど興味が無くなったかのように、焼いた肉の匂いの漂ってくる方向へと歩き出す。
「ふぅー。やっとか」
カイは荒くなっていた呼吸を整えるように大きく息を吐き、追いかけるようにオークの後に続く。
肺に溜まっていた熱気が霧のように漏れ、森の気持ち良い風が肌を撫でる。額から流れた血が頬を伝い、顎の先で滴となって落ちた。
唇の端がわずかに上がり、疲労と緊張の中に笑みが浮かぶ。
あとは、オークをあの場所まで誘い込むだけだ。




