第5話 壊れた村の中で
濡れる感触で、カイは目が覚めた。頬を打つのは、冷たい雨粒だった。
辺りはすでに薄暗くなっており、沈みかけた陽の光は厚い雲に遮られている。森全体が陰鬱な色に沈み、空気は湿った冷気に満ちていた。周囲の木々は根こそぎ倒され、幹は裂け、枝葉は無惨に散乱している。雨はしとしとと降り続き、折れた枝から滴る水が泥に落ちて小さな水溜まりを作り、濁った色を広げていた。
「む、村は……」
声を絞り出すように呟きながら体を動かそうとした瞬間、鋭い痛みが背中と足を貫いた。息が詰まり、喉の奥から呻き声が漏れる。全身が軋みを上げ、骨の一つ一つが割けそうなほどだった。
それでも、立ち上がらなければならない。村に帰らなければならない。
胸の奥で焦りが膨らみ、痛みよりもその思いが強くカイを突き動かした。よろめきながらも幹を支えに立ち上がり、一歩を踏み出す。
――村の方向は……。
見渡せば、一瞬で分かった。オークが通った後だけ木々が一直線になぎ倒され、まるで巨人が腕で森を薙ぎ払ったかのような無残な道ができていた。裂けた幹の木片が飛び散り、導のように土に筋を描いている。
それに導かれるように、カイはふらつく足で前へ進む。足は鉛のように重く、背中は焼け付くように痛んだが、焦燥だけが胸を満たしていた。
――村の皆は無事なのか。
――村は大丈夫なのか。
――この痕跡の先が、村で無ければ良い。
そう考えるたび、歩みは遅いのに心だけが先へ先へと急いでいく。
「くっ……」
雨に濡れた地面を踏みしめ、カイは必死に進んだ。泥に足が滑り、靴底から冷たさが伝わるたびに体の震えが強まる。行きはあっという間だった道のりが、今は果てしなく遠く感じられた。傷ついた体を引きずり、肩で荒く息を吐きながら、それでも足を止めることはない。
やがて、木々の切れ間から村の輪郭が視界に入ってきた。けれど、そこに広がっていたのは、願っていた灯りの灯る安らぎの景色ではなく、木片の荒れ果てた残骸だった。
「あ、あ、ああ……」
喉が震え、言葉は掠れて消える。
村を囲っていた門や壁は破壊の限りを尽くされ、入口から奥へと続く道は崩れた瓦礫と泥に覆われている。
足を踏み入れた瞬間、胸を締め付けるような匂いが鼻を突く。焦げた木材の苦い臭気と、鉄の生臭さが雨に溶け合い、冷たい風に攪拌されて村全体を覆い尽くしていた。
見渡す限り、家々は叩き割られたかのように壁が砕け、屋根は半ば崩れ落ちていた。雨水が瓦礫に溜まり、濁った赤を作り出している。
村は、完全に元の姿を失っていた。
「お、お前!」
足を踏み出せず震えていると、昨日宴のときに腕相撲をした男がカイを見つけ、瓦礫をかき分けて駆け寄ってきた。
「おっちゃん!」
破れた衣服の下からは擦り傷や切り傷が覗き、体は無惨に傷ついていた。その顔には安堵と焦りが入り混じり、血と汗が泥に混じって流れ落ちていた。
「良かった。無事だったんだな」
彼は肩で息を切らせながら、カイの全身を丹念に見回す。血に濡れた衣服、泥に汚れた顔、あちこちに走る裂傷。その一つ一つが生々しく、戦闘の苛烈さを訴えていた。
男の眉間に、深い皺が刻まれる。
「……来い。治療してもらおう」
「オ、オレは大丈夫だ! それより、みんなは無事なのか?」
カイの声に必死さが滲む。喉が焼けつくように乾き、胸の奥で心臓が荒々しく打ち続ける。自分の体がどれほど傷ついていようと、関係なかった。無惨にも荒らされた村の中で、自分を快く受け入れてくれた村人たちの安否だけが頭を支配していた。
「そのケガで大丈夫なわけあるか。いいから来い」
男は、カイを促すように歩き出した。有無を言わせぬその背中に、カイはふらつく足を引きずって泥を踏みしめてついていく。
周囲に視線を巡らせれば、倒壊した家屋や泣き声を漏らす人影が目に入り、そのたびに胸が締め付けられた。破壊された木材や石壁の粉塵に鉄だと思っていた血の匂いが混じり合い、湿った風がそれを鼻に運ぶ。
「朝と全然ちげぇ……」
村の重苦しい空気がのしかかり、胸が苦しくなる。
昼までは子どもたちの笑い声や人々の談笑が満ちていた場所が、いまや瓦礫と血の染みで覆われ、信じがたいほど荒れ果てている。つい先刻まで自分が見ていた光景との落差に思考が追いつかず、現実感が薄れていく。足元の土が崩れ落ちるような感覚に襲われ、膝が震えた。
「突然、灰色のオークが来やがってな。あっという間だった」
前を歩く男が、肩越しに振り返りながら低く言った。足取りは重く、瓦礫を踏みしめる音がやけに大きく響く。
「見回りに行ってた連中が慌てて帰ってきて、お前が化け物みたいなオークと一人で戦ってることを聞いたんだ。だから、力になるかは分からんが、男衆で助けに行こうとした」
男の拳がぎゅっと握られる。次に語られるであろう惨状を思い描き、胸は鉛のように沈み込む。
「けど、その前に灰色の見たことがないオークが村にやってきてな……。立ち向かったんだが、なんの意味もなかった。そこから先は地獄だ。あっという間に村はめちゃくちゃにされて、食料と家畜を根こそぎ奪っていきやがった」
男の声は苦渋に満ち、肩や背中が小刻みに震えているのが分かった。唇はかすかに噛みしめられ、言葉を吐き出すたびに声が揺れる。その姿から、怒りと悔しさ、そして恐怖が全身を支配しているのが伝わってきた。
「カイよお。あんなのと一人でやり合ってたのか……」
「……うん。でも、止められなかった」
カイの唇がかすかに震えた。指先まで力が抜け、握った拳さえ頼りなく感じる。
全力は尽くした。だが、結果は何ひとつ守ることが出来なかった。その無力さが鋭い刃のように胸を抉る。
「……仕方ないさ。あんなもん、人間が手に負える相手じゃねぇ。お前でも勝てないなら、もう天災にあったと思うしかねえよ」
男が諦めたように笑ってそう言うと、足元の瓦礫を踏み越えて広場へと辿り着いた。
そこに広がっていた光景に、カイは思わず息を呑む。
昨日宴が開かれて笑い声と賑わいに満ちていた場所は、今やうめき声と血の匂いに支配されていた。辛うじて屋根が残っていた一角の下には布が敷かれ、そこに怪我人たちが集まっている。呻きながら身を縮める者、歯を食いしばって痛みに耐える者、震える手で家族の手を握りしめる者。
その姿の全てが、村に降りかかった惨禍を如実に物語っていた。
「じゃあ、俺はまた行ってくるな。ちゃんと手当してもらうんだぞ」
男はそう言うと、再び瓦礫を踏み越えて去っていった。
しばらくその場に立ち尽くしていると、血に染まった布を抱えて忙しなく立ち回っていた村長の妻がこちらに気づき、小走りで駆け寄ってきた。
「カイくん、無事だったんだね。良かった」
「おばちゃんも・・・・・」
「……でも、ひどいケガだね。こっちにおいで」
村長の妻は安堵の笑みを浮かべてはいたが、その顔には疲労と悲しみの色が色濃く見られた。
彼女は、近くの椅子にカイを座るように促す。カイは足を引きずって、言われるまま腰を下ろした。傷口は脈打つたびに鋭く痛み、ずきずきと全身に響いてくる。思わず息を詰め、肩が小さく震えた。
手当を受けている間も、彼の視線は落ち着きを失い、自然と周囲を彷徨った。端の方に、布をかけられた人影がいくつも並べられ、夜の冷気を帯びた空気の中で静かに横たわっているのを見つける。その周りでは、何人かの村人たちが声を押し殺しながら泣き崩れ、地面に額を押しつけていた。
焚き火の明かりが揺れ、布の下にあるはずの輪郭を淡く照らすたび、胸の奥に氷のような冷たさがじわじわと広がっていった。
「なあ、おばちゃん。あれって……」
震える声で問いかける。しかし村長の妻は視線を落としたまま、首を振ることもなく、ただ沈黙を保った。その口を閉ざす姿が、何よりそれらが何であるのか雄弁に真実を物語っていた。
遠くで聞こえるすすり泣きが一層鮮明に耳に届き、胸の奥がきりきりと締めつけられる。
自分が力不足だったせいで、帰らぬ人となってしまったのだ。
「……ごめん」
ぽつりと出た言葉に、村長の妻は真っ直ぐとカイを見上げた。
「あんたが謝ることじゃないよ。むしろ、村人でもないあんたがそんなになるまで戦ってくれたことに、私たちは感謝をしないといけない」
そう言いながらも、村長の妻の声は小刻みに震えていた。
「本当は屋根のあるところに入れてあげたいんだけどね……。今は生き残ってくれた人で、いっぱいいっぱいだから」
包帯を巻く手が途中で止まり、堪えきれずにぽろりと涙が落ちる。その滴は血に染まった床に丸い跡をつくり、じわりと広がって消えていった。
その姿を前にして、カイの脳裏にふとミリエラの顔が浮かんだ。つい昨日まで隣で笑っていたあの明るい表情が、今は薄い布の下に隠されているのではないかと想像した瞬間、背筋を氷で撫でられたような戦慄が走った。
「な、なあ、ミリィは?」
「ミリエラなら、集会所の中だよ。そこに、動けない人をまとめて寝かせてるんだ」
「……そっか」
「良かった」とは、口にすることはできなかった。だが、それでも胸の奥では、この世界に来てから特に仲良くしている人がまだ生きていると知れたことに、わずかな安堵が広がる。
手当が終わり、カイはふらつきながら比較的無事なように見える集会所の中へ入った。そこには、うめき声を漏らす怪我人たちが所狭しと並んでいる。鼻を突く血と薬草の匂いが充満し、薄暗い空気をさらに重くしていた。
その一角に、見覚えのある女の子が横たわっていた。蒼白な顔で眠るミリエラ。その傍らには、必死に娘の手を握りしめる母親の姿があった。指先は白くなるほど力がこもり、祈るように唇を震わせている。
「……あ、カイくん」
カイに気がついた母親の瞳は涙で赤く腫れ、口を開くのもやっとの様子だった。頬は濡れ、肩は小刻みに震えている。
「おばちゃん、ミリィは?」
「……大丈夫、生きているわ。でも、傷が酷くて」
ミリエラの体は、拭った跡はあるもののまだ血と泥にまみれていた。唇は色を失い、青ざめた頬は汗に濡れている。細い肩は小さく上下し、浅く不規則な呼吸が辛うじて彼女が生きていることを示していた。
返す言葉が見つからず、カイはただ視線を落とす。胸の奥が冷たく沈み、沈黙が場を押し潰すように広がっていく。やがて、張り詰めた空気を破るように母親がかすれた声で口を開いた。
「この子、逃げ遅れた子を庇ったの。その子は逃げられたんだけど、代わりにミリィが……。私もその場にいたのに、私は動けなかった。この子の代わりに、私が襲われていれば良かったのに」
母親の声は途切れ途切れで、言葉の合間にすすり泣きが混じった。唇は噛みしめられ、悔しさと後悔があふれ出している。
「……そんなこと、ミリィも望んじゃいねえだろ」
絞り出すようにそう言うと、母親は堰を切ったように泣きだした。すすり泣きはやがて声を上げる嗚咽へと変わり、肩を震わせながら娘の手を握りしめる。
そんなこと、彼女も分かっているのだ。分かっているけど、そう思わずにはいられないのだ。
眺めることしかできないカイは、唇を噛んでぎゅっと拳を握りしめた。爪が手のひらに食い込み、鈍い痛みが広がっても、その手は緩まない。
カイは立ち上がり、重い足取りで集会所を出る。そして、荒廃の影に沈む村を見て回る。昨日まで賑やかだった光景はどこにもなく、崩れ落ちた屋根からは梁が突き出し、引火でもしたのか黒く焦げた壁もある。地面には瓦礫が散乱し、割れた陶器や壊れた生活道具が無惨に転がっていた。
歩いていると、瓦礫からまだ使えるものを探し出して拾い集めている村の男衆たちの声がふと耳に届いてきた。
「うちの納屋も潰されてやがる。屋根も壁もなくなっちまった」
「ろくに雨風しのぐ場所もねえなんて……」
「家畜も食料も無いぞ……。これからどうすれば」
「どうするもなにも、もうこの村はおしまいだろう」
「寒くなるまでに、食べ物を蓄え直せるわけがねえ」
「子どもらを連れて、どこか別の村や町に逃げるしか……」
「あんな化け物、また来たら今度こそ全滅だ」
「この村は、もう捨てるしかねえ」
「おい、怪我人はどうんだよ! 立ち上がれない人もいるんだぞ」
「も、もちろん、馬と荷台を用意して全員連れて行くに決まってんだろ」
耳に届く村人たちの会話を聞きながら、カイは唇をかみしめた。
胸の奥にじわじわと広がっていくのは、悔恨と自責の念だった。
自分のせいだ。
もしあの時、あのオークを倒せていたら……。
もしあの時、見回りの仲間に声をかけて村人たちを事前に避難させていたら……。
この瓦礫と泣き声に覆われた光景は、目の前にはなかったかもしれない。雨に濡れた瓦礫の隙間から立ちのぼる煙が、胸をさらに重く沈めていく。
気がつけば、彼の足は自然と畑へと向かっていた。ミリエラが好きだと言っていた場所。しかし、今は踏み荒らされた痕跡が無残に残り、黒くえぐれた大地が痛々しく広がっている。昨日まで風に揺れて輝いていた金色の穂は泥に押し潰され、折れた茎が無惨に散らばっていた。どんよりと垂れ込めた雲がその荒れ果てた畑を覆い、重く沈んだ空気が一面を支配している。
カイは、傍らにあった木の幹に腰を掛けた。湿った樹皮が気持ち悪いが、そんなことを気にかける余裕はなかった。ただ、虚ろな瞳で畑を見つめる。
なにも考えたくない。ただ、ここに座っていたい。そうすることでしか、自分を保てなかった。
やがて、意識はゆるやかに闇に引き込まれていく。重たいまぶたに抗うことなく、彼は眠りに落ちる。
気がついた時には、空はもう暗がりを帯びていた。あと数刻もすれば、辺りは完全に闇に沈むだろう。雨は既にやんでいたが、湿った空気はなおも彼の肌を包み込み、重苦しい感覚を残している。
立ち上がったカイは、痛みと疲れ切った体を引きずるようにして歩き出す。足取りは遅く、重い。それでも、村へ戻らなければならない。
村に戻ると、村長と鉢合わせた。
「どこに行ってたんだい、カイくん? みんな心配していたよ」
「ちょっと畑を見に」
村長は腕を組んで首を傾げた。
「畑か。そういえば、村のことで忙しくて見るのを忘れていたね。どうだった?」
「全部ではないけど、荒らされちまってた」
言葉にした瞬間、村長は目を伏せた。
「そうかい……。みんな集会所で雑魚寝してるはずだから、カイくんも寝るならそこで寝なさい」
「分かった。村長のおっちゃんは?」
「もう少し使えそうなものを探してから寝るよ。私は、この村の村長だからね。村人がいるのなら、彼らを支えないと」
村長の目は疲れていたが、どこかまだ諦めない光を宿しているように見えた。
「オレも手伝うよ」
「大丈夫だよ。まだ子どもなんだから、カイくんはしっかり休みなさい」
そう言われると、反論できなかった。さっきまで休んでいたのにも関わらず、体中の疲労はまだずしりと重くのしかかり、彼の言葉が正しいと認めざるを得なかった。
集会所に入ると、端の方で人々が身を寄せ合って眠っていた。蝋燭がいくつか灯され、揺れる炎が木の壁に不規則な影を踊らせている。焦げた木の匂いと人々の寝息が混ざり合い、静かながらも落ち着かない空気が漂っていた。
なんとなく、ミリエラの近くに歩み寄る。彼女の傍には、ミリエラの両親の姿もあった。疲労に押し潰されたように深い眠りに落ちている。
ミリエラの横顔をそっと確かめ、息をしてくれていることに安堵を覚えながら、カイは灯りの揺れる集会所の奥で雑魚寝している村人たちの元へ向かおうとした。
そのとき、蝋燭の炎にかすかに掻き消されるような小さな声が、静まり返った空気を震わせて耳に届いた。
「……カイ?」
その声に、カイは反射的に振り返る。擦れた声の主は、ミリエラだった。布団の上でわずかに身じろぎし、薄く目を開けてこちらを見ている。
「ミリィ! 大丈夫か?」
慌てて駆け寄ると、彼女は薄い布の上で必死に上体を起こそうと身じろぎした。しかし力の入らない体は思うように動かず、胸の奥から短い息が漏れ、すぐに顔を苦痛でゆがめた。
「いてて……」
「無理に動くな」
カイは、そっと彼女の横に腰を下ろした。近くで見るミリエラの体は小さく震えており、肩をわずかに動かすだけで顔を歪め、痛みが全身を走っているのが見て取れた。
それでも、苦痛の表情を必死に押し隠し、いつもの調子を取り戻そうとするかのように無理やり笑みをつくり、震える視線をカイへ向けた。
「ロイは無事か?」
「ロイって、お前が助けようとした子か? その子は無事だって、おばちゃんが言ってたぞ」
カイが答えると、「そうか、良かった」とミリエラはほっとしたように長く息を吐き、目を細めた。その後、微かな力で首を巡らせて灯りの揺れる集会所の中をゆっくりと見渡す。そして、か細い声でカイに問いかける。
「村、どうなったんだ?」
カイの喉が詰まる。声は喉の奥でからまり、言葉にならない。村は荒れ果て、家々は崩れ、泣き叫ぶ声と呻き声がそこかしこに溢れる。
その惨状を、弱っているミリエラに伝えてよいのか、胸の奥で躊躇いが生まれた。
黙り込む彼を見て、ミリエラは察したように目を大きく見開き、やがて目を伏せた。
「……ごめん。オレがあいつを止められなかったせいで」
唇を噛みしめ、カイは拳を握りしめた。この半日で、何度自分を責めただろうか。それでも、きっとまだ足りない。
その固く震える拳に、ふいに温もりが触れた。視線を落とせば、ミリエラの細い手がそっと重なっている。
はっとして顔を向けると、彼女は痛みに耐えながらも薄く微笑み、静かな瞳でまっすぐに彼を見ていた。
「カイ……自分を責めるな」
「でも、オレがあいつを止めていれば……倒していれば、こんなことには!」
声が震え、視線の奥に悔しさと後悔が滲む。これまで我慢出来ていた涙が頬を伝い落ち、床に染みを広げる。自分の力不足を呪い、吐き出せるのはその言葉だけだった。
「……ちがうぞ。誰も、そんなこと……思ってない」
ミリエラは力なく微かに首を振った。額を汗で濡らしながらも、その瞳だけは揺るがず、蝋燭の淡い光を映してまっすぐにカイを見つめていた。
「カイはよくやった。そんなにボロボロになるまで、本当によくやった。この村の皆、全員そう思ってる。お前を責める人がこの村にいたか?」
「……いねえ」
小さく首を振って否定する。それどころか、誰もがカイを心配し、無事に戻ってきたことを喜んでくれた。
カイはその温もりに堰を切ったように嗚咽を漏らし、しばらく泣き続けた。その間も、ミリエラは弱々しい手で彼の拳を包み込むように添えてくれていた。
やがて涙が収まると、ミリエラがぽつりと呟く。
「……なあ、カイ。このあと、この村はどうなるのかな」
ミリエラの問いは、かすかな吐息に混じって未来への不安、そして少しの覚悟を滲ませていた。
「分からない。けど、おっちゃんたちは出て行った方が良いんじゃないかって話してた」
「……そっかぁ。そうだよなあ」
受け入れようとしながらも受け入れきれない葛藤を胸に、小さく息を吐くように彼女は呟く。その声音は、消え入りそうに弱々しい。
「この村で生まれて、ずっとみんなと生きてきたんだ。楽しかった時も、悲しかった時も、ずっと、みんなで。でも、そうか。バラバラになっちゃうのか。……畑も見られなくなるだろうな。ここじゃない暮らし。想像出来ないな」
それは、カイにかけた言葉ではない。彼女の瞳は、蝋燭の淡い光に照らされた天井へと向けられている。焦点は合っておらず、まるでそこにない何かを思い描くように遠くを見ている。
「……嫌だなあ。もっと、ここで過ごしたかったなあ」
それを最後に、ミリエラは力尽きたようにまぶたを閉じた。浅く乱れていた呼吸はやがて穏やかに整い、細い胸の上下だけが彼女が眠りについたことを示す。
カイはその寝顔をしばらく見つめたあと、やがて静かに立ち上がり、軋む扉を押し開けて外へ向かう。
無惨に荒れ果てた村の入り口にたどり着いたカイは、ふと足を止めた。焦げた木材と湿った土の匂いが鼻を突き、冷たい風が頬をかすめていく。倒壊した家屋の間からは時折きしむ音が響き、静けさに不気味な余韻を残していた。
カイはゆっくりと空を仰ぐ。厚い雲の切れ間から差し込む淡い光が、濡れた瓦礫に反射して鈍く瞬いていた。
深く息を吸い込み、吐き出す。肺の奥まで入り込んだ冷たい空気が、胸の重さを押し流すように一緒に身体の外へ抜けていく。
「ミリィは、戦えないのに子どもを守ったんだよな。すげえよ。なら、オレは……」
そして、彼は静かに身を揺らし始めた。雨に洗われた大地の上で、壊れかけた身体の輪郭を一つひとつ確かめるように腕を振り、足を踏み出す。その動きは舞のように緩やかで、しかししっかりと型を結ぶ。
痛みは確かにあるが、それ以上に湧き上がるのは、次こそはこの村を守り抜くという決意だった。
振り下ろされる拳は重く、踏み込む足は誓いを刻むかのように深く沈む。それはもはや、魂に刻む祈りの舞。
後悔はすでに雨に洗い流され、彼の瞳に残ったのは凍てつくように澄んだ覚悟だけだった。
そして二日後、はやくもその覚悟が試される時が訪れる。




