第1話 焦燥の跳躍
星々の瞬きのように、世界は数え切れぬほど存在する。
そこでは生と死が巡り、希望と絶望が交錯し、ときに均衡は静かに崩れ去る。
小さな歪みが、やがて世界そのものを飲み込むこともある。
その均衡を監視し、調律する者たちがいる。
S.C.O.P.E.――境界を越え、世界を渡り歩く観測者。
彼らの足跡は無数の世界に残され、その物語もまた数え切れぬほどある。
そして今、新たな一つが幕を開けようとしていた。
「なあ、まだオレのミッションは決まらねえのかよ!」
少年の荒々しい声が、ざわめきに包まれた事務室の壁に甲高く反響した。書類を運ぶ職員の足音や端末の操作音が交じり合う中、その声だけがひときわ鋭く響き渡った。
白い光に照らされたカウンターの向こうで、女性職員は端末の画面に視線を落としたまま、肩をすくめて深いため息を吐く。その表情には、日常茶飯事の苦情を受け流す慣れと、わずかな疲労がにじんでいた。
「だーかーら。カイくんのチームはジンさんがリーダーなんだから、ジンさんが戻ってこないとそもそも始まらないの。何回も言ってるでしょう?」
「でもよ、他のやつらはもう色んなミッションに行ってんだろ! オレも行きてえよ!」
「君はまだ新人なんだから、無理なもんは無理ですぅ」
軽く流される言葉に、カイは椅子をきしませて机に身を乗り出した。表情は真剣そのもので、拳を握り締める。苛立ちを隠そうともしないその瞳は、今にも火花を散らしそうなほど鋭さを増していた。
「だってよ。試験合格してから、もう三か月だぜ?」
この試験とは、異世界へ渡る正式な許可を得るための関門である。合格すれば晴れて隊員として名を連ねることができるが、新人のうちは一人ではなく、まずは経験豊富なベテランに同行するのが常だった。
安全のための規則であることは理解していても、今のカイにとっては足かせでしかない。焦燥と苛立ちが胸に渦巻き、待たされ続ける現状への不満がこみ上げていた。
「チームメイトのリナちゃんもティアちゃんも大人しく待ってるんだから。あんた一人だけ特別扱いできるわけないでしょ」
「あいつらはサボってるだけだって! 今日だって二人でどっか遊びに行ってるんだぞ」
「はいはい。そんなに暇ならシミュレーションルーム行って、戦闘訓練でもしてきなさいな」
「もう何回もやった! 飽きた!」
拳を振り上げて叫ぶカイに、女性職員は思わず眉をひそめた。声の大きさに周囲の職員がちらりと視線を向ける。彼女は端末から目を上げ、呆れの表情を隠そうともせず浮かべていた。
「子どもか……いや子どもなんだけど。まあ、とにかく今は我慢してちょうだい」
すると、女性職員はカイから視線を外し、奥の入口へと顔を向けた。足音とざわめきが近づいてきたのを感じ取ったのだろう。彼女の瞳には、ようやくカイから解放されるという安堵の色が浮かんでいた。
「あ、サイラスさんたち帰って来た。はい、どいたどいた」
振り返ると、任務を終えたチームが姿を現していた。泥や血の跡がこびりついた外套は鈍い光を吸い込んでいる。歩みは重く、表情には疲労の色が刻まれていたが、それ以上に確かな成果を手にした者だけが醸し出す達成感が全身に漂っていた。
その帰還した一行の中に、カイの同期の姿も混じっていた。
「お、カイ。まだジンさん帰ってこないのか?」
向こうもこちらに気が付くと、片手をあげて声をかけてきた。額がうっすらと汗で濡れているが、表情はどこか余裕を漂わせている。
「そうなんだよ。毎日暇で暇で仕方ねえ」
「いいなあ。オレもそう言ってみてえわ」
同期は口元に羨ましげな笑みを浮かべ、肩の力を抜いて小さく息を吐いた。任務を終えた安堵がにじむその仕草に、カイは思わず唇を尖らせる。
「羨ましいのはこっちのセリフだっての。代わってくれよ」
「お、いいなそれ。マジで代わるか」
軽口を叩き合う二人の間に、別の同期の女子が腰に手を当て、鋭い視線を二人へと投げた。
「バカ言わないの。許されるわけないでしょう」
「……だよなあ」
「ッチェ」
不満そうに唇を尖らせるカイを見て、同期の女子は肩をすくめて呆れたように首を振った。
「バカイトもバカイトよ。チームが集まったら嫌でも忙しくなるんだから、シミュレーションルームばっか籠ってないで、今のうちに勉強でもしておきなさい。ただでさえバカなんだから」
「バカバカ言うな!」
声を荒げて抗議するカイの声に、周囲の仲間たちもくすくすと笑い、カイの赤くなった耳をからかうように視線を投げる。
「でもお前、試験何回も落ちてギリギリで合格だったじゃん」
「うっせえ!」
さらにもう一人の同期が口を挟む。思い出したように放たれたその一言に一斉に吹き出し、一段と明るい笑い声に包まれた。カイの頬は見る間に赤くなり、本人は必死に言い返すが、笑い声にかき消されてしまう。
「ほら、お前ら。だべるのもそこまでにして報告行くぞ」
同期のチームのリーダーでありベテランのサイラスの声が響くと、仲間たちは「はーい」と軽い調子で返事をしながら笑みを交わし、そのままぞろぞろと彼の後に続いた。
「じゃあな、カイ」
「おう」
軽口を残しながら、彼らゆっくりとした足取りでカウンターへと向かっていった。やがて、任務報告の声が次々と響き始める。
その活気ある光景を背に、カイはぽつりと立ち尽くした。
胸に広がるのは、焦りと羨望ばかりだ。
このまま待ち続けていても何も変わらない。
ならば、ずっと考えていた“ある計画”を実行に移すしかない。
リーダーの帰還を待つのではなく、自分だけで異世界へ飛ぶ。
それは本来無謀だと思っていたが、かつて仲が良い先輩が雑談の最中に口にした何気ない一言が、耳の奥に残っていた。
そう決意した瞬間、彼の瞳には迷いを押し殺した強い光が宿った。
その夜、カイは異世界に転移できる装置がある部屋の前に来ていた。正確には、忍び込んでいた。
まず彼はオペレーションルームに身を潜め、ミッション一覧を確認した。それは、ミッションの概要や転送先の世界座標等を閲覧できる部屋だ。壁一面の巨大なモニターには候補世界の情報が投影され、半透明の操作パネルに手をかざすと、任務の選択や承認が可能になる。
一覧の上方に並ぶのは、想像を絶する難易度の数々。銀河防衛、虚無宙域の封鎖、並行世界の衝突回避、上位存在との交渉――それらは到底今のカイでは成し得ないミッションだった。
というより、上位存在との交渉ってなんだ。どうやるんだ。
「……これはさすがに無理だな」
独りごちてスクロールしていくと、目に留まったのは「未登録世界の調査任務」という項目だった。AIによる簡易スキャンでは、のどかな景観や人々の穏やかな営みが映し出され、戦闘や異常の痕跡は見当たらない。
そういえば、前に先輩が口にしていた。
『未登録世界の調査は安全だから、旅行みたいなもんだな』
その言葉が脳裏をよぎり、自然と指が止まった。難易度は最低ランクのFで、他の過酷な任務とは対照的に気負いのいらない内容に思えた。
カイは小さく息をつき、胸の奥で緊張がわずかに和らぐのを感じた。
「これにすっか」
軽くタップすると、選択が確定される。直後に確認メッセージが浮かび上がり、『このミッションを実行しますか?』と淡々とした文言が表示された。カイはごくりと唾を飲み込み、もう一度指先を動かして承認を押す。モニターに淡い光が走り、任務情報が保存された。
心臓が速まる。――もう後戻りはできない。
オペレーションルームを後にしたカイは、薄暗い廊下を足早に進んでいった。行き着く先は、異世界転移装置の収められた大部屋だ。
本来ならここは厳重に管理され、任務ごとにスタッフが立ち会い、複数の承認を経て初めて開かれる場所である。技術者や管制官が行き交い、任務開始時には整然とした手順と共に緊張感のある声が響くはずの空間だ。だが深夜の今、廊下の灯りも最小限に落とされ、警備は薄く、部屋全体が暗く沈黙していた。カイは鼓動がやけに大きく耳に響くのを抑え込みながら、カードをスロットに差し込んだ。
「……入れた」
重厚な扉が、低く唸りをあげて開いた。わずかな隙間から冷たい空気が流れ込み、カイの頬をかすめる。中は異様なほどの静けさに包まれていた。普段なら見送りの人員が整然と並び、緊張と熱気が交錯するはずの転移室に、今は彼の姿だけがぽつんとある。広大な円形の空間に、カイの靴音が石を叩くように硬質に響き渡った。
部屋の中央には円形のプラットフォームが鎮座し、無機質な金属の床に淡い光を反射させていた。周囲を取り囲む制御卓は闇の中に沈み、使用者を失ったモニターは黒い鏡のように冷たく光を返す。だが完全に沈黙しているわけではなく、機材のインジケーターが赤や緑に規則的に瞬き、かすかな機械音が心臓の鼓動のように刻まれていた。
広すぎる室内の静けさが、不安を増幅させる。本当にやるのか、という一瞬の迷いが胸を掠めたが、すでに任務は選んでしまった。
難易度Fランク、未登録異世界の調査任務。簡易スキャンでは平穏な世界だとされているし、これなら誰にも迷惑はかからないはずだ。そう必死に自分へ言い聞かせ、震える指先を握りしめた。
彼は操作卓に近づき、緊張で汗ばむ指先で半透明のパネルをなぞった。冷たい光が波紋のように広がり、警告の文字が浮かび上がる。
――【警告】管制承認が未完了です。続行しますか?
制御卓の表面が青白く脈動し、無人の部屋に電子音が乾いた余韻を残す。喉が張りつくように渇き、呼吸が浅くなる。
――も、戻るなら今だ。
しかし、昼間に目にした光景が鮮明に脳裏をよぎった瞬間、その迷いは雷鳴のような衝撃で一瞬にしてかき消えた。胸の奥に押し込めていた焦りが再び燃え上がり、後戻りという選択肢は完全に霧散した。
『続行』
カイがタップすると同時に、床下から低い駆動音が唸りをあげた。青白い光がプラットフォームを走り、天井に散らばる光点がざわめくように瞬き、一つの座標へと収束していく。
心臓が跳ねる。床下から放たれた光が足元を走り、やがて柱のように立ち上がってカイの身体を縁取るように包み込む。まるで存在そのものを削り取られるかのような感覚が押し寄せ、背筋が粟立った。無人の広間に響くのは、彼の荒い息遣いと装置の脈動音、そして時折混じる微かな揺らぎの音だけだった。
次の瞬間、視界は白に染まり、カイの姿は光の奔流の中に溶けて消え去った。
残されたのは、赤く点滅する警告表示と、管制室の隅で無言のまま点り続ける監視カメラの赤いランプだけだった。