病院にて
祖父の運転する車は、夜の道路を走り、やがて正面方向に、大きな総合病院の建物が見えた。
車を病院の駐車場に止めて、わたしと祖父母は、病院の中に入って、母の実母であり、祖母にとっては妹だという、女性がいる病室へと向かった。
真夜中の病院の、人気のない暗い廊下を、わたしと祖父母の三人は、小走りで歩き、病室へと急いだ。
女性の病室は、病院の三階の並びにある、個室だった。
「中川節子」と、扉付近に表札が掲げてある。
女性の名前だろうか。
祖父母と共に、その薄暗い病室に入ると、ベッドがあり、そこには一人の高齢の女性が、寝間着姿で寝ていた。
彼女の身体には、点滴用と心電図を測る為の管が、それぞれ取り付けられ、側には医師が付き添っている。
祖母にうながされ、わたしは、その女性の眠るベッドに近づいた。
どうやら女性は、昏睡状態になっているようだった。
目をつぶり、ときおり、呻くような声を出して、ベッドに横たわっている。
この人が母の実母、つまり、わたしにとっては、本当の祖母なのだろうか。
わたしはベッドの側で、祖父母と共に立ちながら、その人の寝顔を見つめた。
(似ている・・・)
その人は、母に確かに、よく似ていた。
もちろん、60代前半の母よりも、ずっと歳をとっていたけれど。
でも、その容姿から受ける全体的な印象は、母の面影、そのものだった。
(あれ?)
わたしは、その人の顔をじっと見つめるうちに、ある事に気付いた。
その人の首すじには、酷い火傷の痕があったのだ。
随分と古い傷だが、かなり広範囲にわたって、首すじが赤紫に変色していた。
まるで、ケロイドのようなー。
気になって、わたしが、横にいる祖母に、その事を聞こうとした、その時であった。
ずっと昏睡して眠っていた、その人が、急に目を覚まして、うっすらとまぶたを開き、わたしの事を見つめたのだ。
「せっちゃん!」
「節子さん!」
傍にいる祖母と祖父が、同時に叫んだ。
その人は、ベッドの上から首をこちらに向け、わたしの事をジッと見つめた。
「れ、礼子・・・」
礼子とは、今は施設に入っている、母の名だ。
この人は、わたしを、娘である母と、間違えているのだろうか。
横にいる祖母が、目覚めたその人に、強い口調で言った。
「そうだよ、せっちゃん!礼子ちゃんだよっ!会いに来てくれたんだよっ!」
祖母はわたしが、母のフリをした方がいいと、思ったのだろう。
あえて、その人の誤解を、解こうとはしなかった。
彼女は、わたしの顔を見つめながら、ベッドの上から力を振り絞り、必死に、そのか細い手を、私の方へ伸ばしてきた。
その手を、わたしは両手で取って、ギュッと握りしめた。
「お母さん・・・」
わたしは思わず、母のフリをして、節子さんに、そう声をかけていた。
そうした方が、いいと思ったのだ。
その人ー。
わたしの本当の祖母は、わたしの手を、衰えた力で握り返した。
そして、わたしに向かって、掠れながらも、感情のこもった声で言った。
「ごめん、ごめんね礼子」
この人は、なぜ謝るのだろう。
わたしは、その骨と皮だけの、細い手を握りながら、強い戸惑いを覚えていた。
何よりも、今、わたしの目の前で横たわるこの老女が、母の言っていた、冷たく情の薄い女性と同一人物とは、とても思えなかったのだ。
母の実母は、かつて子供の頃の母が彼女を訪問した時に、冷たくあしらい、早く帰るよう言ったという。
その後も、父との挙式を含め、何度か顔を合わせる機会があったそうだが、常に母を避ける様な態度を取り、その目を見ようともしなかったという。
だが今、目の前でわたしの手を取るこの人は、死の床にありながらも、愛情に満ちた瞳で、わたしを見つめているではないか。
母から聞かされていた様な、冷淡な女性とは、とても思えない。
何故だろうー。
わたしは、強い疑念と戸惑いを感じつつ、その人の手を、ずっと握っていた。
やがて、その人は疲れたのだろうか、わたしの顔をまぶしそうに見てから、微笑んでまぶたを閉じ再び深い眠りについた。
そして、彼女が目を覚ます事は、二度となかった。
昏睡状態のまま彼女は、祖父母とわたしが見守る中、翌日の未明に、静かに息を引き取った。
医師が臨終を告げると、祖母は床に泣き崩れた。
祖父は、そんな祖母の横に跪き、そっと肩に手を置いていた。
そして、わたしは、彼女の穏やかな死に顔を見ながら、自分でもよくわからない感情に押し流され、ポロポロと涙を流していた。
それは結局は、母に伝わる事が無かった、この人が胸に抱いていた、秘められた愛情に対する、憐憫の気持ちだったのかもしれない。
その後、わたし達は、葬儀会社に連絡を取って、節子さんの遺体を、病院から葬儀場に移動させる為の、手続きを取った。
そして、その日の午後の葬儀の打ち合わせまで、一旦、祖父母の家に帰り、休む事にした。
正直、わたしも疲れており、1時間でもいいから眠りたかった。
再び、祖父の運転する車の後部座席に、祖母と共に乗り組み、今度は祖父母の実家に向かう、わたしだったが、やはり少し時間がたっても、先ほど亡くなる前の節子さんと対面した時に感じた疑問は、心から消えなかった。
車の座席の隣には、まだ、ときおり、思い出したように嗚咽する、祖母が座っている。
わたしは少し躊躇したが、思い切って、祖母に聞いて見た。
「ねぇ、おばあちゃん。聞きたい事があるの」
祖母は、涙で真っ赤になった目を、こちらに向けて、首をかしげた。
「なんだい?恵子ちゃん」
「おばあちゃん、あのねー」
わたしは何故、母を愛していたはずの実母である節子さんが、母を手放したのか。
そして、どうしてずっと母に対して、冷たい態度を取り続けたのか。
二人が疎遠になったのには、一体、どんな理由があるのか、知りたいと祖母に言った。
そして、もし祖母がその事について、何か知っているのなら、是非、教えて欲しいと頼んだ。
どうしても、気になるからとー。
となりの座席に座る祖母は、しばらく押し黙っていたが、やがて意を決したように、わたしにこう答えた。
「わかった。全部話してあげるよ。ただし、車の中ではちょっとね。結構深刻な話だし、家に帰ってから話そう」
祖母の言葉に頷く、わたし。
しかしその時、前の座席で車を運転する祖父が、口を挟んできた。
「いいのか、お前?今までずっと黙ってきたのに」
どうやら祖父も、ある程度の事情は、知っている様だった。
母と実母が不和だった、その理由を。
だが祖母は、夫の言葉に沈痛な表情で首を振り、真剣な口調で、わたし達に告げた。
「やはり、誰かには、言っておいた方がいいと思う。そうしないと、いつかは覚えている人が、誰もいなくなってしまう。そんなの、せっちゃんや死んでいった人たちが、可哀想すぎるよ。つらくても、ちゃんと話して、伝えておかないとー」
祖母の言葉に、何故か、また、わたしは、昨日学校で講演してくれた、あの年配の男性の事を思い出した。
そして、少し前に列車の中で読んだ、あの詩の事も。
(譲り葉)
わたしが、ふと走っている車の車窓から、流れる外の風景を見ると、まだ薄暗い夜明け前の、市街地のビルの間に、原爆ドームの傷ついた白い屋根が、一瞬、かいま見えた。
[続く]