祖母からの電話
わたしが、その日、学校での勤務を終えて、夕方過ぎに、自宅のマンションに帰ると、玄関口に娘の由美が駆け寄って来た。
「お母さん、お帰り。今日は、おばあちゃんのところに行くの?」
娘は、小学生6年生。
難しい年頃だが、この子は素直な性格で、わたしともとても仲がいい。
将来は、わたしと同じ、教師になるのが夢だそうだ。
わたしは、娘の質問に、首を振りながら答えた。
「ううん、今日は、やめておくわ。疲れてるし。明日よかったら、一緒に行きましょう」
「うん、わかった」
素直に、うなずく娘。
実は、わたしの母は、父と死別してから、長年、一人暮らしをしていたのだが、最近体調を崩し、老人向けの施設に入居したのだ。
近くにある施設なので、わたしは娘と共に、ほぼ毎日、その施設を訪ねていた。
しかし、今日はなんだか疲れていて、娘に急かされても、どうも、行く気にはなれなかった。
母が、わたし達の訪問を、楽しみにしているのはわかっているけど。
そんな、わたしに、由美は、ハッと気づいたようにある事を告げた。
「そういえば、山口のおばあちゃんから、電話があったよ。お母さんが帰ったら、連絡してくれって」
山口のおばあちゃんとは、施設に入っている、わたしの母の親、つまりは、わたしの祖母にあたる人だ。
由美にとっては、曽祖母という事になる。
広島市内在住で、まだ壮健な祖父と、二人で暮らしている。
でも、いったい、何の用事で、電話して来たのだろう。
プルプルプル!!
わたしが考え込んでいるうちに、応接間の電話機が鳴った。
わたしは、すぐに玄関から応接間に入り、電話の受話器を取った。
由美も側で、わたしの様子を見ている。
「もしもし」
「あっ、恵子ちゃん。私よ。わかる?」
祖母の声だった。
「うん、わかるよ。どうしたの、おばあちゃん?」
わたしの、その問いに対する祖母の答えは、意外なものだった。
「あんたのお母さんの母親が、危篤になったんだよ」
「ハァ?」
わたしは、素っ頓狂な声を上げた。
母の女親は、わたしがたった今、話をしている電話の相手、その人のはずだ。
わたしの疑問に気付いたのか、電話の向こうの祖母は、さらに詳しい説明を付け加えた。
「違うよ、私じゃない。お母さんの本当の母親。お母さんを本当に産んだ、生みの母親の事だよ」
「あ・・・」
わたしは、腑に落ちた。
実は、祖母や祖父は、わたしの母の本当の親ではない。
母は幼い頃に、実の母親から、祖父母の元に預けられ、その後に養女になったのだ。
その実の母親は、祖母にとっては、妹にあたる人だった。
つまり、母にとって祖父母は、戸籍上は父母だが、血縁的には叔父と叔母なのだ。
どうして、実の母は自分を手放したのか?
その疑問は、随分と長い間、母を苦しめたという。
実際、その実母とは、母は数えるほどしか会った事がないと、わたしは聞いていた。
その母の実母が、危篤状態だという。
わたしは、正直、戸惑っていた。
なにせ、血縁的には祖母に当たるとはかいえ、わたしにとっては、一度も会った事のない人であり、危篤といっても、何の感慨も湧かない。
ただ、戸惑うばかりだ。
そんな、わたしに対して、祖母は、わざわざ連絡した理由を、説明し始めた。
「実は、その人がね。どうしても、あんたのお母さんに会いたいって言うんだ。もしかしたら、死期を察したのかもしれない。私にとっても義理の妹だし、願いを聞いてあげたいけど、あんたのお母さんはあんな状態だし。それに一応、入居してる施設に電話したけど、連絡がつかないんだよ。だからー」
なんと祖母は、病を得て施設に入っている母に代わって、わたしにその人に会ってもらいたいと言う。
一度もあった事もない、血縁上の祖母にー。
わたしは、はっきり言って、気が進まなかった。
今まで、いくらでも会う機会があったはずなのに、死の間際まで疎遠でいたのは、その人と、もしかしたら、施設に入っている母の責任だ。
今さら、何で、わたしが、その責任の肩代わりをしなければならないのか。
だが、わたしは、心の中で拒否したいと思いながらも、祖母の切迫した訴えを聞いて、どうしても、拒絶の言葉を口にする事が、出来なかった。
わたしは、深い溜息をついてから、祖母に返事をした。
「わかった、おばあちゃん。今から家を出るから。どこへ行けばいいの?」
わたしは祖母と、広島県の広島駅で、待ち合わせをする事にした。
その人の入院する病院には、駅から、祖父の車で行くという。
祖父母は広島市在住であり、母もこちらで就職するまでは、祖父母と共にそこに住んでいた。
まだ、父が健在な時は、毎年一緒に、母の実家を訪ねたものだ。
わたしが結婚する前は、父母と三人で、結婚後は旦那や娘も連れて、大勢で帰省する事もあった。
しかし、同じ広島に住んでいるという、その人。
今から、わたしが会おうとしている、その母の実母の元を、訪ねた事は一度もない。
もちろん、直接会ってもいないし、母からその人の話を聞いた事さえ、ほとんどなかった。
もっとも、母の恨み言のような、その人に関する思い出話を、何度か聞いた事はある。
ともあれ、祖母が面会相手として母ではなく、わたしを選んだのには、そんな母と実母の特殊な関係性が、背景としてあったのだった。
要するに、母とその実母との確執を、孫世代である、わたしが、背負い込むはめになったという事だ。
わたしは、いやいやながらも、広島へ行くための準備をした。
そして、娘には大事な用事で明日まで帰らないから、ちゃんと留守番をするように伝え、食事はピザでも取るようにとお金を渡した。
その後、会社員の夫に、電話で詳しい事情を伝え、なるべく早く帰って来てと、頼んだ。
今から電車に乗れば、広島駅に着くのは、夜中近くになるだろう。
もったいないが、地元のJRの駅までは、タクシーを拾うとしよう。
マンションの玄関で靴を履き、家を出ようとする、わたしの側に、娘の由美が、トタトタと歩いて近づいてきた。
「いってらっしゃい、お母さん。何だか、よくわからないけど大変だね」
ちょっと生意気な口調で、心配してくれる娘。
由美には、ざっと事情を説明したが、やっぱり良くわかっていないようだ。
「それじゃ、行ってくる。譲り葉に、会ってくるわ」
「?」
不思議そうな顔をする娘。
わたしも、何でそんな事を行ったのか、自分でもわからなかった。
わたしは、マンションの玄関口を出ると、キョトンとした娘の顔を見ながら、ゆっくりと外からドアを閉めた。
[続く]