表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

白桃とクリガニ

作者: 島猫。

 4食入り、コスパ重視のレトルトカレールーを今日も1袋開ける。タッパーの白ご飯にかけ、スプーンで掬い、口へと運ぶ。自分はカレーが飲み物とは思わないが、汁気の無いご飯よりも幾分かは食べやすい。掬う、運ぶ、数回噛んで飲み下す。タッパーが空になるまで繰り返す。地味な作業を地道にこなし、食道経由で胃袋へと流し込む。空きっ腹を満たす。腹が減っては戦ができぬ、には共感。昼を過ぎて空腹音がゴロゴロ鳴り響けば恥をかくこと請け合いで、仕事よりも腹の様子に気を遣らねばならず集中力を欠く。また、体にも脳にもエネルギーという餌を与えるのは飼い主というべき己の仕事。タッパーを洗って席に戻るも、時計の針はまだ真下には達していない。あと40分、いや、歯磨きの時間を考えるならばあと30分か。特に何をという予定も無いので、スケジュール確認のあと惰性でスマホを眺めて時間を潰す。

 こんにちは、と離れた場所から声がして、来客か、と顔を上げそちらを見遣れば、よく知る顔がニコリと笑う。あと10か20でも歳を重ねれば、きっと好好爺と呼ぶに相応しいだろう人の良さ。席を立ち、こんにちは、と会釈をして挨拶を返す。

 昨年は幾度かマスカットを貰ったが、なんとびっくり、白桃を2つも貰ってしまった。自分宛て、というのではなくて、「皆さんでどうぞ」とお隣の職場から。受け取った瞬間からふんわり甘く熟れた香りがして、くんくん、はしたなくもつい鼻を寄せてしまう。

 お隣のおじさんはご親切にも包丁を持参してくれていた。後で返却に行くから、とご厚意に甘えてお借りする。爪楊枝も持ってきてくれていた。凄まじい配慮。紙皿もくれようとしたが、紙皿はこちらの職場にもあったのでそれを使った。

 包丁で皮を剥いて実を削いで、紙皿に乗せていく。包丁から手に、腕に、甘い甘い白桃の汁が垂れていく。

 紙皿は職場にいる人で順に回して食べてもらって、自分はさながら白桃奉行。回り終わって、まだ少しだけ皿に残っていた。

 皮を剥いて切ることに注力した自分はというと、切るのにもやや時間がかかるので、桃1つの2分の1ほど、有り難く自分がいただいた。それにプラスして、皿に残った分を更に食べた。包丁は洗って布巾で拭いて返却し、昼の休憩時間は慌ただしくもほくほくした嬉しい気持ちで終了した。


 昼に良いことがあると残り半日の仕事も気分良く進む。鼻をひくつかせれば仄かに白桃の残り香を感じる気がして、自然と頬が緩む。強く握れば指が沈んでじゅわり汁が溢れ出るくらい、とてもジューシーな白桃だった。服に幾らか果汁が飛んでいるのかもしれないと思うと内心苦笑いだが、本日のコーデは上衣が黒色なので、変色の恐れはおそらく無いだろう。


 仕事が終わり、帰りにスーパーに寄る。牛乳を切らしていた。買い物はたいてい30分から1時間コースで、一通り陳列棚を見てしまう。目的の物だけを買えばものの5分で済むのだろうが、運動不足解消のためのウォーキングを空調の効いた室内で行っているのだと、自分への言い訳を考えながら店内を物色する。

 鮮魚コーナーに、クリガニという蟹が売られていた。売れ残りを避けるためか、1杯50円換算になるようそれぞれクリガニが乗ったトレイが値下げされていた。渡り蟹のようにやや小振りではあるが蟹3杯が乗っても150円。安い。その安さからか、他の客もクリガニの乗ったトレイが気になるようで、近くにいる店員を捕まえては食べ方を質問していた。漏れ聞こえてくる会話によると、クリガニは毛蟹の仲間。身はたいして無いかもしれず、せいぜい味噌汁に入れるくらいだろうと店員は話していた。

 スマートホンをショルダーバッグから取り出し、レシピ検索ができるアプリケーションを開き調理法を確認する。ふむふむ、タワシで擦って表面を洗い、甲羅をはがしてワサワサしたエラ部分を除いて2つに切り分け、鍋で茹でてアクを取る、とな。うんうん、作れそう。

 イメージトレーニングがしっかり済んだところで商品をカゴに入れ、50円のトレイ1つと牛乳1本、キャベツ半玉をお買い上げ。ほくほくした気持ちで帰宅した。


 冷蔵庫で冷やしているコーヒーをコップの底が隠れる程度に注ぎ、買ってきた牛乳を開け、並々と注ぐ。マーベリングのような白と黒の溶け合いを眺め、零れないようコップを気持ち程度に揺らし混ぜ、さながら魔法の飲み薬。乾いた喉に流し込む。

 コップを頬に額に首にと押し当て、ひんやりから温く人肌になるまでをひとしきり楽しみ、よし、と小さな気合いを入れる。イメージトレーニングの通りにクリガニを処理していく。殻付きの牡蠣を食べるとき用に置いているタワシが思った場所に無くて見当たらず、使い古しの歯ブラシでシャカシャカゴシゴシ、丁寧に洗っていく。時折チクリと指にトゲが刺さり痛いが、そこはご愛敬。


 クリガニの味噌汁は美味しかった。

 葱を散らすと彩り的に綺麗だったろうが、具はクリガニオンリーという、それはそれで贅沢なお味噌汁。

 身は思いの外ぎっしりと詰まっていた。キッチン鋏、蟹スプーンを台所から持ってきて、ボイルの紅ズワイガニが田舎から送られてきたとき同様、黙々と、一時間ないしは二時間仕事で細部まで丁寧に食べ尽くした。


 怠い。暑い。食事なんてやる気がしない、作る気がしない、食べる気がしない。でも腹は満たさなければならない。

 朝はフレークか卵かけご飯。昼ご飯はタッパーで持ち込んだ白ご飯にレトルトのカレールーをかけて食べるか、湯を注ぐだけのカップ麺。夕食は卵かけご飯か、野菜を目一杯入れた即席麺、もしくはスーパーの見切り商品。

 味がハッキリと濃く美味しい、けれどなんだか味気無い普段の食事。

 お昼の白桃は貰ってしまったから、剥かなきゃという使命感に燃えた。お蔭様で昼の休憩時間は削られたけれど、皆で美味しい美味しいと喋りながらわいわい食べる白桃は、じゅわりと甘く、美味しく、心まで満たした。

 クリガニは1人きりの夕食。けれど、下処理も食べるときも、クリガニと真正面から向き合った。心の中で美味しい美味しいと呟きながら、取れる身が無くなるまで、丁寧に、最後まで綺麗に食べた。


 明日からはきっと元通り。フレーク、カップ麺、卵かけご飯、インスタント麺、エトセトラ。日々、作業のように、生きるため動くため、栄養バランスを多少は気にしながら、ただ食べる。

 でもまた、こんな心浮き立つ食事が、自分にもたまにはあるといい。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] お、おいしそう……! 淡々と書かれているように見えて、白桃とクリガニの魅力がこれでもかとこちらに伝わってきます(´ω`*) すっかりどちらも食べたい気持ちになっちゃいましたv THE純文学で…
[良い点] 食べることは生きること(*´ω`*) でもどうせ食べるなら美味しいものがいいですよね(*´∀`*) 私はフルーツあまり好きではないのですが、白桃とグレープフルーツだけは別です! わあぁ…
[一言] これぞ純文学ですね! これといった事件が起きるわけでもないのに、こんなに面白いお話にできるとは! お見事です!
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ