2. 弟子入り、プロフェッショナル、責任転嫁
一呼吸ののち、はぁ……という深いため息が響いた。
「ユヅル……大丈夫?」
「うん……ごめん。変な感じになったな」
「私にはよくわかんないけど、めっちゃ怒られてた?」
「ああ……うん。甘えを見透かされた、って感じ」
力なく笑うユヅルは、しかし理不尽さに嘆いているようには見えなかった。モエとしては、意味不明な怒られ方をしたようにしか思えないのだが。
「ほんと、説明しなきゃいけないこといっぱいあるな。お茶いれよっか? 飲むでしょ?」
「うん! 水汲んでくる」
モエが勝手知ったる電気ケトルに水を汲んでくる間に、ユヅルはマグカップと紅茶のティーバッグを用意していてくれた。
お湯が沸くまでのわずかな時間、ユヅルは考え込むように本棚をぼんやりと見つめていた。隙間なく文庫本やハードカバーの小説が詰まった本棚には、モエも知っているようなベストセラー以外のタイトルも多数あふれている。
ユヅルもおそらく全部は読み終えていないだろう、百冊を超える作品たち。
喋りながら考えをまとめるモエとは対照的に、ユヅルは沈思黙考、話し始めるまでに時間がかかるタイプだった。急かすと混乱して時間がかかってしまうので、こちらも黙って待つしかないが、モエはユヅルの言葉を待つ時間が好きだった。
メッセージ越しでも、こうして同じ空間にいても──ユヅルが言葉を選んでいる時間は居心地がよいと感じる。
やがて電気ケトルのスイッチがカチリと跳ね戻り、湯が沸いたことを知らせた。
ユヅルはやはり黙ったままていねいにマグカップにお湯を注ぎ、湯気とともに紅茶の香りが立ち昇ると、ゆるく首を横に振った。
「どういう順序で話そうか、迷うね……とりあえず、カナさんが僕に厳しい言い方をしたのは当然なんだ。だから、そこは気にしないで」
「……ほんと?」
心配して覗き込んだユヅルの表情は確かに無理をしているようではなく、けれどもモエはつい「めちゃ怖かったのに」と唇を歪めた。
「自責と他責の線引き? とか……よくわかんないけど、おばさん、プロなんでしょ?」
「あ、モエ。たぶんちょっと誤解してるよ。……困ったな、説明が難しいよなあ」
ユヅルは実際に困ったように笑うと、「実はね」と切り出した。
「いま、カナさんから校正を教わってるんだ。いわば弟子入り」
「えっ!? 弟子!?」
大げさな表現に驚いてしまう。
「そ。文芸部員として前から校正には興味はあったし、ちょっと勉強になるかな、ぐらいのつもりで気軽に頼んじゃってね……でも、師匠の教えがかなり厳しくて。日本語の勉強もあるんだけど、心構えのほうも口が酸っぱくなるくらい繰り返し教えてくれるんだよね」
「はあ……てか、先生じゃなくて師匠なんだ」
「らしいよ。実際、ほかの生徒がいるわけでもないし」
ユヅルは教科書鞄から小ぶりのノートを取り出して、ぱらりとめくって見せてくれた。
間違えやすい漢字、複数の表記がある外来語、同音異義語の使い分け……
国語の教科書では断片的にしか見かけない日本語の細かいルールがメモされている。
参考にしたほうがいい国語辞典も複数書き留めてあった。
「ガチ勉じゃん」
「そりゃね。でも面白いよ? カナさんが仕事で使ってる知識をどんどん教えてくれるから専門的な知識も増えるし、すごく当たり前に使ってる言葉についてじっくり考えることができるし」
ノートを閉じたユヅルは、仕切り直すように一度深く呼吸を挟むと、居住まいを正した。
「知識だけじゃなくて、心得もすごく大事だ、ってカナさんが言うんだ。今回質問した時に、何度も繰り返し言われたよ。『参考情報は教えてあげられる。それを聞いて、どう判断するか、どう行動するかは貴方が自分一人で決めなさい』って」
ユヅルはゆっくりと、おそらくは昨日の夜を思い出しながら言う。
ユヅルは納得しているようだったが──
「いや……ってか、それが変だと思うんだけど」
やはりおかしい気がして、モエは反論を差し挟んだ。
「だって、カナさんはプロの校正者なんでしょ? プロがやってくれたらそれが一番確実じゃん。私たち高校生よりもさ」
当たり前のことだ。専門家に任せるのが一番、それが普通の考え方のはず。しかしユヅルは苦笑で応える。
「うーん……もし僕がカナさんに『校正してください』って頼んでたら、たぶんカナさんは断っただろうね」
「なんでよー……やってくれたっていいじゃん、ほんのちょっとなんだし」
ずずっ、と紅茶を啜る。行儀は悪いが、まだ熱くて飲みづらいのと、なんだか納得できない!という気持ちがこもってしまった。モエのあからさまな不満にもユヅルは笑い、けれどやわらかい口調で諭す。
「モエ、さすがにその考え方はまずいと思うよ。カナさんは普段お金取って校正してるんだから、僕が無料で頼んだら失礼になる」
「う。……それは、うん……うん。口が滑った。ごめんなさい」
言い過ぎだよ、という指摘は、ユヅルのやさしい言い方のおかげで反感を感じさせなかった。素直に認め、撤回する。
親族だから、友人だから、知り合いだから、あなたは得意だから、という理由があったって、なんでも気軽に頼んでいいわけではない。これもマナーだ。
モエ自身、友人からの都合のいいお願いごとに「それはずるいと思うから」と突っ返したことがある。
師匠と弟子であるなら、頼ってきた姪をただ助けるようなやり方をしなかったのも、まあわかる。
──けれど。
「でもさ、だったら、なんであんなに詳しく教えてくれたの? ユヅルは校正を頼んではいないんでしょ?」
「うん。僕が頼んだのは、『誤字報告をするかしないか、判断に迷ってるから教えてほしい』ってことだけ。判断の仕方を教わったんだ」
モエの表情から、いまいち伝わりきっていないこともわかったのだろう。
ユヅルは小さく唸ってまた考え込み、すぐに「つまり」と言い直した。
「言葉の正解と、報告するかどうかの判断と、実際の報告は全部別だってこと」
「そりゃ、そう言われればそうだろうけど……それってほとんど一直線に繋がってるじゃん」
「いや、違うよ。全然違うんだ。少なくとも、カナさんがやる『校正』では、そこまで一直線……っていうか、ひと繋がりじゃないんだよ」
ユヅルはきっぱりと言う。迷いのない断言は、すぐにモエへの共感に変わった。
「まあ、モエがすぐピンとこないのはわかるよ。僕も腑に落ちるまでけっこうかかったし」
「ってかさ、じゃあもう結構教わって長いの?」
「まあまあかな? 1ヶ月ぐらいは経つよ」
そう言いながら、ユヅルはスマートフォンを操作して、カナさんとのトーク履歴を確認した。
覗き見えた画面からは、モエとのやり取りよりもずっと長文のやり取りが繰り返されていることがわかる。ユヅルからの発言も、モエに対するものより長文だ。
熱心にやり取りしているのだろうことが伝わってくる。
履歴をずいぶん遡り、最初のほうにたどり着いたユヅルは、モエにその画面を見せてくれた。
-校正のいちばん小さな塊は、3つのステップになっていると理解するのがいいでしょう。
-1. 発見
-2. 判断
-3. 伝達
-私に質問する時は、自分がいま3つのうちのどれに迷っているのか、きちんと検討をすると上達が早いと思いますよ。
「発見して、判断して、伝達する。これがカナさんの3ステップ。今回の僕は[判断]に迷った。だからそこを質問して、サポートしてもらった。でもそれは、3ステップのうちの1つ、しかもそのうちの一部分を手伝ってもらっただけでさ……だから、実際の誤字報告の責任が誰にあるか、って言ったら、やっぱりそれはカナさんじゃなくて僕にある、って言ったほうが妥当ってこと」
ユヅルはやわらかい雰囲気のまま、ていねいに説明してくれる。
だが、そのていねいさが、妙に癇に障る気もする。
ぐるぐると迷う気持ちを、せめて大きく間違わないように、モエはつぶやいた。
「なんかさ……そんなにあの人のこと擁護しなくてもいいんじゃないの……」
「えっ?」
「たかだか誤字一個だしさ、やたら厳しかったしさ……ユヅルの親戚のことを悪く言っちゃいけないのかもしれないけど、私はユヅルが怒られたの、納得いかないよ」
助けを求めたユヅルを突き放して、報告を押し付けて、今度は叱りまでして、なんなの。
プロのくせに──いや、プロだからなんでもやってくれると思うのは確かに甘えで、頼むほうがずるいとわかっているが、それでも。
「モエ……落ち着いて」
苦笑を浮かべたユヅルが、温かいお茶にほっと息を吐いて諭してくれる。
(…………ああ、これ、私がダメだ)
モエは机の上に頭を落とし、深く深くため息をついた。
「ああもう……私のせいで、ごめん、ユヅル……」
そうなのだ。
そもそものきっかけは、モエがユヅルに知らせたのだ。
誤字があってモヤモヤしたんだ、と。
ユヅルはそのメッセージを受け取り、行動した。
だったら、さっき起きたことも、元をたどればモエが原因なのだ。
モエが自分ひとりで呑み込んでいれば、ユヅルが叱られることもなかった。
自分のせいだから、ユヅルが怒られるのが嫌だった。
自分のせいでユヅルが責められるのが嫌だった。
だから、責めたカナさんを悪者にしようとしている──
たぶん、モエの心の動きは見抜かれていた。
「気にしてくれてありがとう。でも、ほんとに大丈夫なんだから。モエにはわかりづらいかもしれないし、僕もうまく説明できてないんだけど、信じて」
「……ホントに……?」
「本当」
と笑いながら、ユヅルは手を伸ばして、机に落としたままのモエの頭をそっと撫でた。優しく、ゆっくりと。
「子供扱いじゃん……」
「かわいいんだもん。あと嬉しい」
ユヅルは照れたように笑った。
モエとユヅルはずいぶんと仲良しですね。
次回はユヅルにもう少し解説を頑張ってもらわないといけない気がしています。