347、私は詰み寸前の盤面を覆し、神になる
小さな氷の粒が、風に乗って空中を舞っている。
寒風が草木を揺らし、遠くの山々も人々の住む家の屋根も雪化粧に覆われて。
世界が一面の銀世界となっている。
「月が降りてくる……」
紅国のアルメイダ侯爵邸の一室で、カサンドラ・アルメイダ侯爵夫人は窓辺に寄り、外を眺めていた。
夜空の月は、片方が大きくなっている。
カサンドラの呪術による現象だ。長年の研究の成果だ。
カサンドラが進めてきた研究は、二つあった。
ひとつめは、「普通の人間を不老症にする」黄金の果実をつくる研究。
もうひとつが、「神々がいるという月の舟」を地上に招く研究。
研究に至ったきっかけと、研究を進める手がかりは、身近な存在にあった。
呪術師オルーサと、組織の新参フェリシエン。
二者は真実のカケラを事あるごとに呟き、カサンドラに疑問と好奇心をくれた。
孤独の呪いを受けたオルーサと、フェリシエンという人物になりすましている何者か。
二者とのコミュニケーションは、呪いによるすれ違いと真相の秘匿がなされていた。そのため、欲しい情報がストレートにもらえるわけではなかった。
けれど、オルーサの独り言めいた言葉は情報の宝庫であったし、フェリシエンは「あなたはそんなことを知らないはずですよね」ということをぽろりぽろりと呟く。
カサンドラは考察を加えながら、情報を集めていった。
そして、集めた情報で巨大なパズルをつくるようにして真相に近付いていった。
夜空の月は片方が神々の住む船で、そこには不老症の神々が住んでいる。
地上にある遺跡から、船に行ける。戻ってくる者もいる。
人間たちが魔力を大なり小なり持っているのは大地の影響だ。
エルフ族やドワーフ族は、人間よりも大地の影響を大きく受けているがゆえに魔力が高く、寿命も長い。
世界には魔力の濃厚な地域と薄い地域がある。
魔法植物が茂るエルフの森周辺地域は、魔力の濃厚な地域だ。
オルーサはアルダーマールという魔法植物を「可能性にあふれた研究素材」と呼び、さまざまな実験をしていた。
世の中には魔宝石という魔力を貯めた石があり、魔法使いは石から魔力を引き出して使うことができる。
それと同じように、魔力や生命力は吸収し、どこかに貯めておいて、引き出して使ったり、他の器に移す――魔宝石やオルーサの行動からその発想を得たとき、カサンドラはわくわくした。
カサンドラは大地の魔力を応用することを思いついた。
大地には、万物を大地側へと引き寄せる魔力がある。
林檎を手から落としたとき、林檎は下にぽとんと落ちる。それが、大地の引力のなせるわざ。
夜空に浮かぶ神々の舟はなぜ落ちてこないのか?
飛翔する魔法生物のように浮遊の魔法を使って大地の引力に抗い、高度を保っているのではないだろうか?
ならば、集めた魔力を使って神々の舟を引っ張ってみては?
浮遊の魔法を破ってみれば?
手の届かなかったものが、届く高さまで落ちてくるのではないだろうか。
カサンドラは謎の存在に斬られてから呪術を使うことができなくなっていたが、魔法の仕掛けは完成している。実験的につくったいくつもの仕掛けを稼働させて、稼働させた結果情報を集め、改良を重ねて完成させたのだ。
魔力と生命力も、実験を重ねて地道に集めてきた。
地上では彼女を裁こうとする騎士団が正義の旗を掲げ、屋敷を取り囲んでいるが、味方であるシェイドが魔法仕掛けを作動させる予定だ。騎士たちは生命力を吸い取られて無力化するだろう。
「窓辺に寄るな、カサンドラ」
彼女の夫、シモン・アルメイダ侯爵だった。
闇に紛れる暗色のローブを手にやってきた夫はカサンドラにそれを羽織らせる。
「こんな時のために我が家には脱出用の地下通路がある。他国と連絡が取れたので、逃れよう」
シモン・アルメイダ侯爵のアイスブルーの瞳は、憔悴していた。
心労と過労で痩せていて、痛々しい印象だ。
彼は有能なはずなのに、いつもどこか情けない。
そこが可愛い。
カサンドラのお気に入りの夫だ。
「あら、あなた。……差し上げた林檎は、お召し上がりになりました?」
カサンドラは、彼に黄金の林檎を贈っていた。
研究成果である黄金の林檎は、食べると不老症になれるのだ。
「うふふ。あなたは心配そうですね。今は囲まれていますが、怖くありませんよ。彼らはすぐに無力化されます。私たちを悪く言う社会も、いずれ黙ることになりましょう」
――私とあなたは世界の支配者になるのです。
カサンドラは楽しく未来を語り、夫の首筋から顎にかけてを指先で愛でた。
……なのに。
「あれは女王に贈った」
夫シモンは、思いもよらないことを言う。
カサンドラは目を見開き、数秒間、現実を疑った。
けれど、どうも耳にした言葉は幻聴ではない様子だった。
「あなた? なぜ……よりによって、女王に」
意味が分からない。理屈が通らない。
だって、夫シモンは反女王派だ。
「とても貴重なものなのですよ? とても……女王は、敵でしょうに」
「だからだ」
シモンの手が背中にまわされて、移動するようにと促される。
部屋の外に出て、廊下を歩いて向かう先は、地下だ。
「私は政治的なスタンスで女王陛下とは合わないが、陛下のお人柄を評価していないわけではない。身罷って欲しいわけでもない」
由緒正しく歴史あるアルメイダ侯爵家の地下には、秘密の地下通路がある。
外に繋がる通路は、現在のような有事の際に当主一家が逃亡するためにあるのだという。
「神師伯が好き勝手しているのも気に入らぬ。陛下は聡明であらせられるゆえ、快癒なされば、あの男が増長しすぎることもなかろう」
シモンはそう言って、ひとこと小さく付け足した。
「……功績で罪を軽減してくださる可能性もあると考えたのだが、そちらは期待するにはもう遅いようだな」
そちらが本命だったのだろう。
それが駄目だとなり、言い訳するように前半部分の「身罷って欲しいわけでもない」とか「神師伯が好き勝手しているのも気に入らぬ」という理由を並べているのだろう。
情けない表情。
情けない声。
思い通りに動いてくれない方。
とっておきの切り札を敵に贈ってしまって、見返りも期待できないなんて、なんて可哀想。
「あなたは本当に可愛らしくて、困った旦那様ですね」
カサンドラを生かそうとして、無力なりに頑張って立ち回っているのだ。
「大丈夫ですよ、旦那様。月が降りてきます。逃げましょう。逃げて、あの月に住むのです。高くのぼって、空から地上を見下ろしてあげましょうね。……林檎は、また作ってあげますわ」
――月が降りてくる。
もう少し、もう少し引き寄せられれば……。
――私は詰み寸前の盤面を覆し、神になる。




