335、俺はいたいけな姫君に下心満載の、悪い男ですね
暗い部屋の中に、偽の星が煌めいている。
室内の壁に映し出される幻想風景を見て、フィロシュネーは以前のことを思い出した。
紅国の歓迎交流会でチェスをしたあとに、ダーウッドが勝利のお祝いに天蓋の内側に魔法で星の幻影を描いてくれた。
そして、父と母の話をしてくれたのだ。懐かしい。
幻想的な光の瞬きに囲まれて、フィロシュネーはポロリと思い出を呟いた。
「……ダーウッドは、罪人として裁かれて死ぬつもりだったときがあります。わたくし、ダーウッドには悪いことをしないでねって言っていますの」
「密偵さんが悪いことを何もしなければ、彼女は青王陛下と幸せになれますよ」
紅国の入信者がよく言うらしい「神様に懺悔する」というのは、こんな気持ちなのかしら。
「わたくし、たまにわからなくなるの。正しいとか正しくないとか、許していい罪と許してはいけない罪とか」
「人が人である限り、絶対という正解のない問題はあるのです」
椅子の前に膝をつき、サイラスが星を見ていた視線をこちらに向ける。
漆黒の瞳は、穏やかで、ぜんぜん怖くない。
絶対に味方だ、と思わせてくれる。
「……アルメイダ侯爵夫人については、わたくしは何も求めませんわ。夫人が悪いことを企んだりしなければ……それが正しいのかはわからなくて、わたくしはそれではだめなような気もするのですけど」
「姫はいい子ですね」
サイラスはまるで父のように眉尻を下げて笑い、自然な仕草で顔を近づけて頬にキスをした。小鳥が挨拶するような可愛いキスだ。
「サイラスは……人が人である限り、とおっしゃいました」
「ええ」
「サイラスは『姫も俺も人間です』とおっしゃいました」
「はい」
唇に指が添えられて、軽く形をなぞるようにされる。
その刺激がいつもより大人な感じがして。
艶っぽい雰囲気で、胸の鼓動がどきりと跳ねた。
「俺になにかお求めでしょうか?」
見透かすように黒い瞳が細まるので、フィロシュネーは眉をきゅっと寄せた。
「わたくし、あなたに魔王様でも神様でもなく、人間でいてほしいです」
「他には?」
「石をお持ちなら、捨ててほしいですわ」
「他には?」
「他……?」
指先で唇が撫でられて、フィロシュネーはどきりとした。
暗闇の中、精悍な顔が近づいて来る。吐息が触れそうなくらいの距離は、まるで今にも口付けがされそうな近さ。
「あ……」
なんだか、キスするみたい。
そんな、特別なムード。
フィロシュネーは頬を染めた。
指先にサイラスの指が絡められて、心臓が早鐘を打つ。
大きな手。熱い体温。剣だこのある、長い指。
接触を意識すると、甘やかな痺れが、じぃん、と指先から全身をひたしていく。
どんな表情をしていいかわからなくなってしまう。
手と手が触れ合っているだけなのに、どうしてか泣きそうになる。
「……」
思わずぎゅっと目を瞑ると、ふっと笑う気配がして指が解放された。
あっ、と思った。
「怖がらせるつもりはありませんでした。明かりをつけましょうね」
優しい保護者のような声で言われて、フィロシュネーは恥ずかしくなった。
「わ、……わたくし。怖いとか、嫌だったわけではなくて……」
「恥ずかしい?」
「そ、そうですわね」
「以前、そちらから俺の頬にキスなさったときは、楽しそうでしたが」
「そ……」
「前より大人になられて、意識してくださるのでしょうか」
その言い方は、なんだかすごく恥ずかしい。
と文句を言いかけたとき、唇が相手の唇で封じられた。油断した隙をついて、いたずらを仕掛けるようなキスだった。
「‼」
頭が真っ白になる。
何も言えなくなったフィロシュネーの視界が、ゆっくりと明るくなっていく――部屋の明かりが戻されたのだ。
羽毛がやわらかに掠めたようなキスを落としたサイラスは、悪びれることなくペロリと自分の唇を舌で舐め、機嫌よく微笑んだ。
「そう怖がるものではありません」
こちらの心は乱されるのに、彼の笑顔は、なんだかすごく落ち着いていて大人という雰囲気だった。
凄絶な色香を感じさせた。今まではすごく遠慮がちで、フィロシュネーの方から頬にキスをしてもびっくりしたような困ったような感じだったのに。
こんな風にぐいっと迫られて余裕綽綽の笑みを湛えられるとは、思っていなかった。
「俺も以前、あなたが突然頬にキスしてきたときは驚いたものでした。……お嫌でしたか?」
大きな手が頭を撫でてくる。
「以前のわたくしは、あなたに失礼でしたわ。軽率でしたし……」
自分は今、ちょっぴり大人になってしまった――フィロシュネーは真っ赤になった。
「姫に謝ってほしかったわけではないのです。貴き婚約者の姫君からのスキンシップを喜ばない男がいるでしょうか――喜びすぎて不埒な真似におよばぬよう自制に努める必要はありますが、嬉しい試練と言えましょう」
「べ、別に、キスは不埒な行為ではありませんわ。わたくしとあなたは、婚約者ですもの」
「では、今日から唇へのキスを日課にしましょうか?」
「日課という言い方は、なんだかお仕事みたいで嫌かも……」
目の前で楽しそうに笑っているこの婚約者は、ほんとうにどうしちゃったのかしら!
「では、不埒ではなく、お仕事でもないキスをしましょう。よろしいですか」
「えっ、今?」
「カウントダウンしましょうか?」
「ふえ……」
頬に手があてられて、フィロシュネーはビクッとした。
「三」
ほんとうに数えてる!
おろおろと視線を彷徨わせていると、楽しそうに「二」と呟いてから、頬にちゅっとキスされる。
「……!」
「これくらいにしておきましょう。姫は可愛らしすぎて、困ります」
お部屋まで送りますよ、と言われて、フィロシュネーはカクカクと首を縦にした。
立ち上がって歩いてみると、足が棒のようにぎこちない。精神的なショックみたいなものが足にきているのかも。
「……そんなに刺激が強かったですか」
微妙に後ろ暗い感情を滲ませながら、サイラスはフィロシュネーを抱っこしてくれた。
「俺が悪かったです、すみません。俺はいたいけな姫君に下心満載の、悪い男ですね」
「ち、違いますの。びっくりしただけですの! 悪いとかじゃありませんのよ」
反省した様子で部屋に送り届けて、サイラスは出ていった。
「わたくし、やっぱりお子さまかしら」
これではまた子ども扱いに戻ってしまう。
でも、それもいいかも、と思ってしまう自分もいて、フィロシュネーは困ってしまった。
たぶん、相手も困っている?
――わたくしは、嬉しかったです!
と、お手紙でも書いて伝えましょうか。
(でも、そんなお手紙、恥ずかしくない? う、うーん)
フィロシュネーは本気で迷った。
迷いながら手紙を書こうとペンを執って、思いつくままに手を動かして――なぜか、書きあがったのはカサンドラ・アルメイダ侯爵夫人への手紙だった。




