30、その村の誰か、名前を残すこともなく
生まれたばかりの子供が、凍えて飢えて死んでいく。
そんな環境に生まれた男は、この日、人生に幕を降ろそうとしていた。
「サイラス、また金を持ってきてくれたのか。ほんとうにありがたい! 金が入れば、ガキどもに美味いもんを食わせてやれるぜ」
世の中は、善良な人間が損をする。
重い荷物を率先して持つ奴が悪いんだ。持ってくれよと頼んだら無理してでも「いいよ」と笑って持っていくあの男が悪いんだ。
重荷で潰れるどころか、どんどん鍛えられて磨かれて。
出かけた先で何かを成し遂げて名を上げて。
それでもこの村を故郷と呼んで、律儀に情深く送金をし続ける、そんなあいつが悪いんだ。
妹を連れて出て行くでもなく、任せたきりで。
「これで食糧に困らなくなる! ありがとう。そうだ、ついでに近くにできた魔物の巣を掃除していってくれないか? 困ってたんだよ」
世の中は、平等ではない。
似たような環境で生まれて育っても、いつの間にかそいつは化け物みたいに強くなっていって、気付いたら全然べつの生き物みたいになっていた。
その癖、飼いならされすぎて逆らうことすら思いつかない猛獣みたいに言いなりで、何を求めても跳ねのけることがない。
奴隷だ。
自分でも言っていた。
あいつは奴隷なんだ。そんな自分でいたいんだ。
――そう思っていたほうが、気が楽だ。
善良な英雄の崇高な奉仕精神にあわれみを受けて生かしてもらっているなんて、腹が立つじゃないか。むかつくじゃないか。
「妹も元気にしているから、心配するな。……遠出できるようになってな、今は近くの町まで遊びに行ってるのさ」
あの男と自分は、同じ村に生まれて一緒に育ったんだ。
施しをもらっているのではない。
献上させているのだ。奴隷として働かせているのだ。自分の方が、偉いのだ。
――あいつは馬鹿なんだ。頭が弱いんだ。だから、弱者だ。
弱者が強者に搾取されるのは、世の理なんだ。
……ざまぁみろ!
「困ったな。最近になって瘴気が濃くなっただろ? あれで体調を崩した奴が多くて、村は冬を越せないかもしれん……ああ、いつもすまないな。助かるよ!」
有能なお前が貢いでくれるから、俺は今夜も美味い酒が飲めるぜ。
ちょいと近隣の都市まで足を運んで賭博を楽しむこともできるし、色っぽいねーちゃんを口説くこともできる。これだけありゃあ、贈り物に指輪もひとつも買ってやってさ。どこぞのお貴族様のお忍びって設定で偉そうに遊んでやったら、さぞ気分がいいだろうなぁ!
苛烈な陽光が照り付ける中、武装した兵たちがやってくる。
「おい、やばいぞ。逃げろ! 金を持って逃げろ!」
あれは、空国の旗だ。以前にも村の近くで青国と空国の商会がやり合っていたが、あの時とは事情が違う。
「あいつら、子供を殺したのを知ってる。罪だと言ってる。俺たちを裁く気だ」
「おい、金は置いていけ。もう行くぞ」
「いやだ、いやだ! この金は俺のだ……!」
罪を唱える声がする。
場違いに清らかで、幼く聞こえる女の声。
あれは、あれは。
「王族だ」
「聖女だ」
知らないはずがない。
なにせ、王妃の暗殺者に王女が狙われた現場はこの村だ。
村ぐるみで、多大な報酬を約束してもらって、王妃に協力したのだ。
『黒の英雄だって。偉そうに、さも凄い奴みたいに称賛されて、気に入らないな』
『実は俺もそう思っていた。金づるといっても、あいつが世間で認められていくのは面白くないよな』
英雄の美談は、村にも伝わっていた。
青王に寵愛されているとか。
他国でも活躍しているとか。
広く語り継がれて、名を挙げて。だんだんと、その存在が死後も「伝説級の英雄」として世界に残るのではないかと思えてくると、焦燥感が湧きあがる。劣等感が荒れ狂う。
あいつをそんな存在にしては、いけない。
俺たちはこんなにちっぽけで、何もできなくて、世間にも何にも認められていない卑しい存在なのに、死んだらそれきりの人生でしかないのに。
俺たちの奴隷のはずのあいつが世の中に認められるのは、許せない。あいつは、何も成し遂げることもなくむなしく死んでくれないといけない。
俺たちはあいつの死を悼んで、今までありがとうよって言って、笑うんだ。
お前の人生、俺たちの肥やしでしかなかったなってせせら笑うんだ。
それでこそ胸が空く。小気味いい! なあ、そうだろう!?
「はぁ、はぁ、はっ……」
心臓が口から飛び出しそうだ。全身、汗でぐっしょりだ。気分が悪い。悪夢だ。これは、悪夢だ。
脚がもつれて、泥の中にみっともなくべしゃりと転がる。
棒のような手足が言うことをきかねえ。動け、動け。近付く気配が、恐ろしい――、
「――あ、……あ」
囲まれている。整然と統率された、訓練の行き届いた立派な騎士たちだ。
たくさんいる。逃げ場が、ない。
何か言っている。
罪だ。罪を確認するように読み上げている……。
「ひ……ひぃ……っ」
よく手入れされたぴかぴかの槍が、その切っ先が。鋭くこっちを向いている。
し、死ぬ。殺される。
ガタガタと歯が鳴り、股座にじゅわりと生暖かい感覚が溢れる。襤褸ズボンをみっともなく濡らして、臭気を放って。
大の大人が、情けない。
だが、命の危機だ。瀬戸際だ。
みじめったらしく洟をすすって――懇願する。もう、それしかなかった。
「ご、ごめんなさい! 金が欲しかったんです! 俺は、親に捨てられて、力仕事も苦手で、文字も読めないし計算もできなくて」
俺は哀れな奴なんだ!
憐れんでくれよ! 俺を可哀想だと思って、許せよ!
「本当に申し訳ありません! でも、みんながやっていたから、自分もついつい……」
騙されるほうが悪いんだ。
世の中って、そうだろ。
利用されるほうが悪いんだ。
俺を腹立たせて、むかつかせるあいつが悪いんだ!
……俺は悪くない。
「俺は、悪くないッ!」
わかってくれるだろ。
なあ、俺ってさ、可哀そうだと思うんだ。自分が。
だって、望んでもないのにこんなしみったれた村に生まれてさ。
運が悪いよ、俺って。世の中には、もっといい環境に生まれた奴がたんといるじゃないか。
俺がこんな風になったのは、親のせいさ。
俺がこんな風になったのは、村のせいさ。
国のせいさ。時代のせいさ。世界のせいさ。
俺は――悪くないんだ!
俺以外の全部が悪いんだ!!
なのに、騎士が言うじゃないか。
おっかない、ぎらぎらした気配で、絶対に許さないって雰囲気で。
刃みたいな聲で、びりびり空気を震わせて。告げるじゃないか。
「子供たちや傷病者を殺すなど、許されるわけがない! それで貰った金を近隣の都市で派手に使い込んでいたのだと調べがあがっているのだぞ。いと尊き聖女殿下の寵愛深き黒の英雄を騙し、その妹を殺害した……お前たちの罪は重い! 姫殿下は、正義を執行せよと仰せになったのだ!」
あ、ああ。
「い……いやだ。いやだ、いやだ、……――」
殺される。裁かれる。
あいつが生きて、俺が死ぬ。
もう、そう決まったんだ。それがもう、どうしようもなく変えられない、確定した現実なんだ。
――光が直線的な軌跡を描いて、正義を導く。
いくつも、いくつも。
「あ、――ああああああああああああああああっ!!」
燃え上がるような、貫通の痛み。腹だ。背中だ。
腹の底から喉奥にせりあがり、呼吸の隙間を塞いで溢れる、苦い何か。
いや、味ももう――わからない。
「――……ごぽっ……」
……そうしてこの日、名もなき誰かの生涯は、幕を閉じた。




