215、この船は夜空の月である。
ふしぎな船で提供された食事は、緑黄色野菜のサラダや焼いたり煮込んだりした肉や魚といった、ダイロスに馴染みのある料理が多かった。
けれど、スープ皿やドリンクグラスに注がれた飲み物は得体が知れないものばかり。彩りはカラフルで、辛かったり甘かったりしょっぱかったりした。
この世には、未知がある。
謎に囲まれて腹を満たすダイロスへと、船人のトール爺さんが口を開いた。
「さて、客人。ソルスティスがどこまで説明したか知らんが、わしがこの船と客人の置かれた状況について教えてやろうぞ」
青年の姿をしたダイロスは、老人の姿をしたトールの語りを聞いていて、自分がひどく年寄りぶって格好つけている馬鹿者に思えてきた。
全身から滲み出る貫禄、自然と匂い立つような年輪の深み、渋みのようなものが、わかるのだ。
「外の景色を映そう……窓の外を見せると言った方が伝わるか」
アエロカエルスが短い杖を懐から取り出して振る。魔法使いだ。
空国のブラックタロン家を生家とするダイロスは魔法に親しみがあるので、親近感を覚えた。
「ほ、う……」
驚きの声を自分がこぼしているのが、新鮮だ。、ここ百年くらいは自分が驚くことなどなかったように思うのだが。
驚嘆しつつ脳の一部がどこか冷静な自分を滑稽だという感想を抱くダイロスの視界には、夜空が見えた。座っているダイロスの真正面にあった壁の一部に、ぽっかりと丸い窓が突然生まれたようだった。
さて星空は、吸い込まれるような無限の黒の空間に、小さな光の星粒が散らばっているのだが。
「なにやら」
なにやらおかしいような、と言いかけて、違和感を言葉にできずにダイロスは口篭った。
「夜空にしてはどこかおかしい。そう思うのじゃろう」
トール爺さんがのったり、ずっしりとした重みのある声を放った。
この爺さんの声は、ひとこと発せられるだけで「ああ、貴重なひと言をありがとうございます、畏れ多い。ありがたい」と拝みたくなるような魅力がある。
ダイロスの心の一部がじぃんと痺れた。どうせ何百年も生きるならこんな爺さんになりたかった。そんな想いが、ふと湧いた。
「ここは実は、ダイロスくんがいた地上ではない。この船は、きみたちが毎晩当たり前のように眺めていた、夜空の月である」
ダイロスが「この爺さん格好良いなぁ」と痺れている間に、すごい発言が飛び出ている。
声そのものに気を取られていたダイロスは、数秒間、反応が遅れた。すとん、と内容が飲み込めなかったのだ。
「つ……き?」
月?
夜空の月?
ここが?
あまりにもその言葉は、現実味がなかった。
ここが船なのはまだ良いとして、その船が夜空の月だと言われて、普通は「そうなんですか」とは返せない。
ダイロスだってそうだ。
いや、むしろ、長い年月を地上の常識の中で生きてきたからこそ、ダイロスには「これが当たり前で、こんな現象はありえない」というガッチリした世の中のルールみたいなものがある。
「いや、いや、いや。なにをおっしゃる……」
ダイロスは信じなかった。
「客人は、最初はみんなそう言う。最後まで認識を改められない者も多い」
アエロカエルスはどこか冷たく響く声で言って、今度は扉の方を見た。
「おい、他の客人を食堂に呼んだのは誰だ?」
見ると、扉の向こうから三人の青年が姿を見せていた。
「私だけど?」
とルエトリーがツンとした声を返すと、アエロカエルスが「チッ」と舌打ちして眉間に皺を寄せている。
この船人たち、どうも雰囲気が剣呑だ。人間らしいとも言える。ダイロスは、ふと自分の弟子たちを思い出して懐かしくなった。アロイスとシェイドも、よく微妙な空気を作っていたものだ。
「ヤァ、いらっしゃい。きみたちに仲間が増えたぞ。紹介しよう、ダイロスくんだ。ダイロスくん、彼らはグレイくん、エリュタニアくん、ノルディーニュくんだ」
グレイくんと呼ばれた青年は黒髪で、本をたくさん抱えていた。顔色は青白くて、貴族的だ。
エリュタニアくんとノルディーニュくんは白銀の髪をしていて――王族の瞳、移り気な空の青を持っていた。
――王族?
ダイロスは目を見開いた。知らない。こんな青年王族は、いない。王族の特徴を持った貴族も――記憶には、ない。
ぎゅっとローブのフードを引っ張って自身の瞳を隠し、ダイロスは挨拶をした。
「ダイロスと申します」
この者たちはなんなのだ。ここはどうなっているのだ。自分は頭がおかしくなってしまって、これは実は夢かなにかなのだろうか?
ぐるぐると思考が脳を巡るが、スープ皿からのぼる湯気は良い匂いがして、あたたかで、スプーンですくって口に含むと辛いのだ。
これはたまらんとドリンクを飲めば、甘いのだ。
辛かったり甘かったりする感覚は、とても夢とは思えないのだ……。




