16、変わっていく。変わっていく。
フィロシュネーがショックを受けていると、ハルシオンは大慌てでフィロシュネーを労わった。
「ああっ、シュネーさんっ。大丈夫ですかっ、やっぱりちょっとショックですよねぇ」
「ちょ、ちょっとじゃないですぅ」
「もっとお元気になられてからお話しようか迷ったのですが、私、このあと弟に呼び出されているものですから」
ハルシオンは水差しからグラスに水を注ぎ、フィロシュネーの手を包み込むようにしてグラスを持たせてくれた。
魔法で冷やしてある水はひんやりとしていた。体の内側から気持ちを落ち着かせてくれる感じがする。味のない水は、美味しかった。美味しいと思って初めて、フィロシュネーは自分の喉が渇いていたことを自覚した。
ハルシオンは、そんなフィロシュネーを優しい目で眺めて、慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。
「いやぁ~、弟の罪が晒されるとは。でも、大丈夫。まだ婚約前ですから」
少し迷った様子で、ハルシオンの手が仮面にかけられる。仮面を外そうか迷っているのだと感じて、フィロシュネーはじっとその手を見守った。
「婚約前に王兄の罪がわかってよかったですよね。やはり、一度婚約してから破棄にすると外聞が悪いですし。その……、すみません」
その手が仮面から離れて、頬を掻く。
「シュネーさんは、世界で一番大切にしてくれる相手に嫁いで、幸せになるのです。私が責任を持って、良縁を手配させますよ」
仮面をつけたままの青年の笑顔はちょっと弱々しくて、しょんぼりした感じで、あんまり頼れる気配がしない。
(あんまり、怖い感じではないわ)
雨に濡れて花弁をしおしおとさせた、お花のよう。
フィロシュネーは広場で見た映像とハルシオンの演説を思い出した。サイラスが囁いた言葉も。
『あれは王によく似た王兄ですよ』
『可能なら、けしかけてください。彼が愛する弟陛下を討ち、空国の王になるように』
(空王は、青国の第二王妃と一緒になって自分の父王を弑したり、わたくしを暗殺しようとした悪人なのよね? それで、お父様はわたくしにハルシオン殿下を篭絡して空王を討つように仕向けなさいって命じたのよね?)
「あの……っ、ハルシオン殿下は、どうなってしまわれるの?」
自分の問いかける声が他人の声みたいに、か細くきこえる。
「父王を弑したとなれば、まあ、ねぇ」
ハルシオンは他人事のように「でも、シュネーさんが今後を心配することはありませんよ。優しい知人にでも、後事をお願いしておきますからね」と言うのだ。
「シュネーさんと過ごした時間は、私に安らぎをくれました。なんといいますか、……なんだか妙に可愛らしく思えてしまって、私はあなたを見ていると嬉しくなって、浮かれてしまうのです」
ハルシオンはそう言って「えへへ」と笑い、照れ隠しのように背を向けた。
「そうそう、シュネーさんの本当のお兄様とお父様は、まだ生きておられるようですよ。弟は、詰めが甘いのです。いつかご無事で再会できるといいですよね」
父と兄が生きている。それは、フィロシュネーの心に希望の光をもたらした。
「殿下……」
立ち去ろうとするハルシオンの袖を引き留めると、彼はとても驚いた様子でビクリと全身を震わせた。
(この方、どうしてご自分が罪を被り、命を捨ててまで、悪人の空王を庇おうとするのかしら)
それはおかしいと思うのだ。
例えばフィロシュネーの兄、青国王太子アーサーが罪を犯したら、フィロシュネーは兄が裁かれるべきだと思う。兄の罪をフィロシュネーが被るなんて発想、フィロシュネーからは出てこない。
アルブレヒトが父である王様を殺害したのは、とても悪いことだ。許されてはならない。
それに、おそらくアルブレヒトは王位継承権がハルシオンより下だったはず。
ハルシオンを猫にして、父王を殺して王位に就いたのだ。そう考えると、邪悪ではないか? 極悪非道ではないか。
そんな空王を、そのまま王様にしていてはいけない。
そんな空王の罪を被ってハルシオンが死ぬのは、絶対におかしい。
「ハルシオン様、お別れみたいに仰らないでほしいのです」
呼びかけると、ハルシオンは頼りない気配で振り返った。
「シュ、シュネーさんは、もしかして、心配してくださって、いるのでしょうか……? お別れが哀しいとおもってくださる……?」
自分に懐いていなかった小動物が、ふとすり寄って来て驚くような気配だ。喜んでいる。興奮を抑えて、小動物を怖がらせないようにしようとしている気配だ。
今日のハルシオンの声には、余裕がない。フィロシュネーは、それが自分と似ていると思った。
未熟だ。
未成熟だ。
そんな心の片鱗が見えたから、フィロシュネーは彼に親近感をおぼえて、彼を好ましいと感じた。
(不思議なひと。不思議なわたくし)
「シュネーさんは私に、懐いてくださっている……? 私が離れるのが、寂しい……でしょうか?」
目の前のハルシオンという人物が、よくわからない。けれど、わかったみたいに感じる部分もある。
「ハルシオン殿下」
「カントループです」
そこは、拘るらしい。フィロシュネーは呼び直した。
「カントループ」
「あ。いえ。ハルシオンがいいです」
「どっちですの」
「あはは……」
ツッコミを入れると、青年は困ったように顔を手で覆った。
「ははっ、……わからない」
(何がわからないの?)
わからないことが、いっぱいある。フィロシュネーは途方に暮れながら言葉を探した。
「ハルシオン様、わたくし、あなたがなぜ弟陛下の罪を被るのか、わからないのです」
わたくしが読んでいた物語にも悪人は登場したけれど、主人公は善良な人物として描かれることが多くて、悪人に虐げられていても、前向きに健気に頑張るのよ。
そんな主人公が幸せになるから、読んだ女性は「善良でいたら報われることもあると信じて、自分も善良でありましょう。前向きにがんばりましょう」と思えるのではなくて?
悪人が世界中から「あの人は悪人ではない」と思われて王様として褒め称えられるエンディングなんて、気持ちが悪いのでは?
こんなことはしてはいけません、という社会の決まり事を破っても罰を受けることなく幸せになれるなら、決まり事の意味がなくなってしまうのでは?
フィロシュネーは、そう思った。
「罪人が野放しになる……罪人の代わりに罪を犯していない人が罪を被って死ぬのは、おかしいと思うのです。わたくし、あなたがそんな風に儚くなるのは、いやです。そのせいで空王陛下が無罪だと思われて王様を続けるのも、いや」
――そんなの、おかしい。
「青国では、王族は国家の象徴であり、国家全体の利益を最優先に考え、公正でなければならないとされています。強い権力を持っている王族は、ただ偉いだけではありません。リーダーシップを発揮して国の方向性をその指揮杖で示すのです」
兄弟国家である空国の王族にも、同じ意識があるはずだ。
正義の制裁を下すから、民は正しくあるように。悪いことをしないように。
正義を執行する王族の言い分が他の王族からみて理不尽に過ぎれば、今度は他の王族が正義を執行する。権力者がそれなりに公正に管理しており、悪人は裁かれるので、民は安心して正しく生きるように。
王族の「正義の執行」は、もともとはそんな趣旨のシステムなのだ。
特別な神性をもつ王族は、民にとって悪ではなく正義の立ち位置にいるリーダーでなければならない。
「わたくし、お父様からお勉強はできなくていいと言われていたけれど、王族の在り方についてはそれなりに理解しているつもりなのです。権力を有する者には、本来は高い教養や道徳心、決断力、冷静さ、……たくさんの資質が求められるのだと知っています。空国では、いかがですか?」
罪を犯したのが誰か、真実を隠してはいけない。
王族であり、兄であるハルシオンは弟陛下を庇うのではなく、率先して問題視して、裁かなければならない。
まっすぐに声を響かせると、ハルシオンは数秒間じっと沈黙を貫いた。
そして、そっとフィロシュネーの手を自分の袖から引きはがした。
「シュネーさんは、純真ですね。潔癖で、正義感があって、……可愛らしいな……」
子供扱いをするような手が伸びて、フィロシュネーの白銀の髪をゆっくりと撫でる。
未熟な青年が大人ぶるような声が……「本当に大人なのだ」というような 妖しい気配に変わっていく。
変わっていく。
目の前の気配が、変わっていく。