150、公子、いかがなさいますか?
シューエン・アインベルグは、失踪中だ。
世間ではさまざまな憶測が飛び交い、各国がその身を捜索している。
(みんなに心配をかけてしまって、申し訳ないのでございます)
当の本人であるシューエンは、アルメイダ侯爵邸にいた。待遇はよく、個室をもらって三食と優雅なアフタヌーンティー付き。家内の身分はアルメイダ侯爵夫人カサンドラの愛人という名目らしいが、今のところ性的奉仕を求められたりはしていない。
暇つぶしにカサンドラが部屋を訪ねてきたり、部屋に呼びつけられて話をする程度の愛人だ。
カサンドラは満開の薔薇のごとき夫人で、シューエンに基本的に優しい。かわいい、かわいいと言って撫でてくれたりする。
「シューエン公子がいなくなって初めて、他の方々はその存在の大きさに気づくのでしょうね」
「僕の存在なんて、ぜんぜん大きくありません」
でも、そうだったらいいなって思うんだ。
耳に吹き込む言葉は、しんみりと心に染みる。
そうであってほしい、と思っていた本心を暴いて、自覚させる声だ。
「公子はまだ十三歳、成長期でこれからの方。伸び代たっぷりですわ。なのに、周りが才能を潰してしまっては伸びる子も伸びません……環境を変えて、ご自分の可能性を見つめてください♪」
カサンドラの手が優しく頭を撫でる。
シューエンの味方だ、シューエンのために言っている。そんな声だ。
「貴方さまの魅力に気づかないフィロシュネー姫は、きっと何年も後に後悔なさるでしょうね」
ああ、これは明らかな離間の計だ。
シューエンは首を振った。
「そんなことはございません。姫殿下は想い合っている方と幸せになられます。後悔などなさいません」
サイラスという男は、魅力が合って、有能だ。なにより、フィロシュネー姫が望んでいる。あのお姫様にふさわしいのは、悔しいけどあいつなのだ。
「シューエン公子、あなたはもっとご自分を大切になさらないといけませんわ。貴方が悪いのではありません。あなたを大切にしない青国勢が悪いのです」
――ああ。
僕は、ほんとうはそう言って欲しかった。
僕は、誰かに大切にしてほしかった。
あの可愛いお姫様に、愛されたかった。
ほんとうは、あなたが一番好きよと言って欲しかった。
このカサンドラの声はよくない。甘ったるくて、柔らかで、耳に心地よい毒だ。
……泣いてしまいそうになるのだ。
「いいのよ」
「よくありません」
「無理をしないで」
「僕は、無理をしていない……っ」
誘惑に強がって、拒絶して。けれど脱走をすることもなく、だらだらと邸宅に居続けている。
(逃げようと思えば、たやすく逃げられるのに。僕はどうして……)
僕はどうして、みんなが心配すればいいと思ってしまうのだろう。
僕はどうして、自分から戻るのではなくて、みんなの方から迎えにきてほしいと思ってしまうのだろう。
僕はここにいるんだよ。探してよ。
心配して一生懸命探して、見つけてよ。
見つけたら泣きながら喜んで、抱きしめて、僕のことが大切だと言ってよ……、
ああ、恥ずかしい、みっともない。
こんな考えをめぐらせる自分が嫌だ。
雑念を払うように頭を振るシューエンの視界で、獣人シェイドがシモン・アルメイダ侯爵と会っている。
どういう意図かはわからないが、カサンドラが見学させているのだ。
「侯爵様」
獣人シェイドが膝をつき、首を垂れる。
彼が主人と決めた人物、シモン・アルメイダ侯爵へと。
「俺を拾ってくださり、ありがとうございます。どうも助からないようですが、残りの命は侯爵様に捧げます」
シェイドの命は呪われており、じわじわと死に向かっているのだという。
誓われたアルメイダ侯爵は、淡々と頷いた。
「あの女の仲間だから助けただけだ。まあ、飼ってやるからせいぜい長生きするがいい」
シューエンは、二人のやりとりを複雑な心境で見守った。
あの獣人はセリーナを傷つけたクリストファーの仲間ではなかったか。なんか呪われてるらしいが。
「シューエン公子」
「っ、はい?」
油断してるところにアルメイダ侯爵から声がかけられて、シューエンは飛び上がった。
「公子が我が家にいるという報告は致していないのですが、青国の方々は、予定通り帰国なさるようです」
「え」
シューエンは目を見開いた。
「……僕を、置いて……?」
帰るんだ?
胸の真ん中に冷たい氷の塊が生まれたようで、心臓が痛む。
僕がいなくなっても、みんなは気にしないんだ。
僕がいなくても、何も変わらないんだ。
そっか。そっかぁ……。
「あら、かわいそう」
カサンドラが可哀想な生き物を見るような眼で見つめてくる。
かわいそう。
それは、同情だ。
僕は、かわいそうなんだ。
そうかもしれない。だって、つらいんだ。……悔しいんだ。
ぐっと噛み締めた唇が切れて、血が滲む。
感情を押し殺しきれず、小刻みに震えるシューエンの指先を己の手のひらで包むように握りしめて、アルメイダ侯爵はささやいた。
「公子、いかがなさいますか? お帰りになりますか」
――と。
* * *
「今日は霧が濃いのね」
出発の日。
フィロシュネーは未練がましく紅都を見た。
結局、シューエンは見つからないまま旅立ちの日が来た。兄アーサーは「即位したてで自国が落ち着かない中、あまり長く国を空けるわけにいかない」と言って帰国を決めた。
「あのお坊ちゃんは俺が必ず見つけて帰しますので、姫はご安心ください」
配下騎士団とコルテ神官も引き連れて、サイラスが見送りに来ている。
「あ、あなた、出世しましたわね……それに、不老症ですって?」
「将来は介護して差し上げましょう。看取りましょう。他にはなんと仰せでしたか……後を追って同じ棺に入りますか?」
それは、以前フィロシュネーが言った言葉だ。すっかり立場が逆転している。
「むむう」
「一度離れ離れになりますが、すぐにまた……」
サイラスが言いかけたとき、知らせの声が響いた。
「アルメイダ侯爵が、公子をお連れになりました! アルメイダ侯爵が公子を発見なさいました!」
「なにっ」
場が騒然となる中、アルメイダ侯爵家の紋章旗を掲げた一団が近づいて来る。
美しい黒馬を駆るアルメイダ侯爵は、知らせ通りシューエンを連れていた。
「シューエン!」
「無事だったのね!」
青国勢が驚きと喜びに湧く。帰国しようとした矢先の発見に、誰もが喜んだ。
青王アーサーが声をかける。
「よく戻ったな。心配したのだぞ。一体何があったのだ? 今までどこにいた……? お前のせいで俺の鳥が仮病をつかって面会謝絶していたのだぞ」
(あっ、お兄様。ダーウッドの仮病に気付いていたのね)
フィロシュネーは心の中で呟いた。仮病を使っていた本人は、フードを手で引っ張って顔を隠している。
「敬愛するアーサー陛下。そして、みなさま」
注目を一身に集めたシューエンは馬から降りて主君アーサーに膝をつくこともなく、距離を詰めて青国の一団にまざることもなく、どこか寒々とした声を響かせた。いつも明るく愛らしい緑の瞳は、敵意まではいかないものの拒絶の気配が濃い。
「僕は本日、アーサー陛下にお許しを請うために参りました」
「ふむ。許すぞ。心配はしたし各国に迷惑もかけたが、お前のことだから面倒事に巻き込まれて仕方なかったのだろう。しょうのないやつ」
青王アーサーは日常の気配を濃く漂わせていた。
「陛下、この日をもって僕は職を辞し、貴族の子息としての身分を捨て、青国を離れたく存じます」
「はっ?」
「えっ」
思いがけない言葉に、アーサーとフィロシュネーの声が重なる。
忠誠を誓ったはずの声色は真剣で、明らかにいつもと異なる緊張感と余所余所しさがあった。
その声と表情から、本気の温度感がひしひしと伝わった。
「僕は今後、この身を紅国の侯爵家に預け、新たなる道を歩む選択をいたします。これまでのご恩に背き、申し訳ございません。深くお詫び申し上げます」
「シューエン……」
驚くばかりのフィロシュネーの瞳が、シューエンの緑の瞳と絡む。けれど、シューエンはすぐに瞳を逸らしてしまった。
声は、苦しげだった。
「……お別れを申し上げます、姫殿下。どうかお幸せに」
シューエンはそう言って、紅国に残った。
詳細な手続きは後日、アルメイダ侯爵と外交官から青王アーサーに正式に申し込まれた。
アーサーは悩んでいたが、最終的にその身分離脱を承諾した。
「本人の望みならば仕方がない。手続きを進めよう」
アインベルグ侯爵や外交官が自国の王に従い、具体的な手続きや必要な書類について話し合い――
シューエンは青国貴族の身分を捨て、故国を離れて、紅国へと所属を変えたのだった。




