129、英雄は雪のない山に雪崩を起こし、商業神はかくささやけり
『黒の英雄は、雪がない山に雪崩を起こしたことがある』
ハルシオンが目撃したのは、まさにその武勇伝のような光景だった。
すぐ近くにいたサイラスが人の身にあるまじき魔力を放ち、死霊たちが雪崩れたのだ。
……いや、なんで?
「おかげでシュネーさんは大丈夫みたいですが……今のはなんだったんだろ。びっくりしたなぁ」
ハルシオンは自身の白馬エボニームーンから降りて、落ち着きなく騒ぐ黒の英雄の愛馬を宥めた。
「よーしよしっ、お名前なんでしたっけぇ。ゴールくん? お静かにですよー、ゴールくん〜」
ハルシオンはヘラヘラと笑った。そして、無感動に視線を下へと移した。
そこには、地面に倒れて動かなくなった男がいる。
「もしもーし。ノイエスタルさぁん」
そよそよと風が吹く。
「ひぃぃん、ひぃぃん……」
黒馬が心配するように首を振っている。主人の異変がわかるのだろう。心配している。
「あなたのキャワイイお馬さんが心配してますけどぉ?」
ハルシオンは不思議な心地で彼を見た。
彼というより、『彼だったもの』だろうか。
その肩や背をみても上下する様子はなく、鼻先や口元に手をあてても呼吸は感じられない。
死んでいる――そう表現されても仕方のない状態だ。
「……死んじゃいましたぁ……?」
おやおや?
……私は今どんな気持ちなのだろう。
この気持ちは、なんだ?
ハルシオンは『サイラス』を見つめながら自分の心を探った。
人が死ぬのは悲しいことだ。
よく知っている人物なら、尚のこと。
そのはずだろう? あれ?
「薄情だと思われるかもしれませんが、……私は今、あんまり悲しくないんだな……?」
サイラスは、民衆に広く名を知られる英雄だ。
太陽に愛されているような、蠱惑的な褐色の肌色。
何にも染まらないような、漆黒の髪。
実戦で鍛えられた筋肉を有する、強靭で雄々しい体格。
顔立ちも凛々しくて、声もよく通り、眼差しは真面目で好ましい人柄を感じさせる。
そんな英雄だから、フィロソフィアもフィロシュネーも惹かれるのだろう。
オルーサも気に入っていたようだった。英雄、英雄と呼んで慕っていた。
ではハルシオンはどうか?
……ハルシオンも「この英雄は有能で実直で、魅力がある」と思う。
善良な気質を感じる。好ましい男だ。
シュネーさんにも紳士的に接しようとしているのがわかるし、良い人間だと思う。
【良い相手だと思います、幸せにしてもらいなさい!】
カントループのパパな心はそう言うのだ。
【私は寂しいけど、シュネーさんが幸せならよい、ぃぃ、よ、く、な、い】
ああ――相反する心が暴れ出す。
いやだ!
いやだ、いやだ、いやだ!
青年の心が叫んでいる。本音を。本心を。
「どうして他の男を好きになっちゃうんだ? どうして私じゃないんだ? いやだ! いやに決まってるじゃないか」
私はシュネーさんのことが世界で一番好きなのに、どうしてシュネーさんは私のことを一番好きになってくれないのだろう。
私より好かれている相手を消してしまえば、私は一番になれるのかな?
「シュネーさんの笑顔がこの男に向けられるたびに、私の心は切り裂かれるような痛みを感じるんだ……」
どうしてこんなに痛いんだ。
なんで私は寂しいんだ。
苦しいんだ。つらいんだ。頭がおかしくなっちゃうんだ。
おさえられない。わかってほしいんだ。
わかって。わかって。わかって。愛してるから、愛して。そう願っては、いけないのだろうか。
「はぁっ、はぁっ、は、……」
醜い嫉妬で、悔しさで、現実を拒絶したくなるのだ。
「シュネーさんは私のなんだ。あの可愛い子は、私と一緒にいるんだよ。他の男になんてやらないんだ。私のなんだ。私が欲しいんだ!!」
サイラスに魅力があるのはわかる。まともだし。
不安定で頭のおかしな私より、あいつの方がシュネーさんには良いんだ。幸せにしてくれるんだ。
彼女のためを思うなら、狂人のハルシオンは全力で彼女を諦めるんだ。
私はお二人がお似合いだと思いますぅって言って、幸せそうな二人を祝福して、『おめでとう、お幸せに』って言うんだ。
でも。でもさ。
「死んだら、シュネーさんは私のものになるじゃないかぁっ……!?」
今、そんな未来の可能性が目の前に広がっているじゃないか――!?
狂気がグラグラと頭を揺らす。
胸が苦しい。感情が身のうちで狂おしく暴れている。
「アッ、あっ……あは、……はぁっ……」
もう負けたんだなと思ったんだ。
――でも、その相手が死んだとしたら。
そうしたら、今から私が勝者なのでは?
逆転大勝利なのでは!?
今日までシュネーさんの心を占めていたこの男は、今日以降は思い出になるんだ。
私は悲しむシュネーさんをよしよしって慰めて、彼は良い人だったねとか言うんだよ。
そして、二人で生きていくんだ。ざまぁみろ……私、すっごくクズだな?
『あいつなんて、いなければいいのに』
そう思ってたんだ、私は。
息のないサイラスを見つめるハルシオンは、自分が薄汚れた泥棒ネズミになったように思えてきた。
「泣くよ、シュネーさんは」
ハルシオンは唇をぐっと引き結んだ。
片手で商業神の聖印を握り、そこに今の自分の邪な心を清める何かを求めた。
「悲しむよ」
助けようと思ったら、自分の力なら今ならまだ治癒できると思うのだ。
でも、この男がいなくなったらと思うと、シュネーさんが手に入るんだと思ったら。
未来がパァッとひらけて、夢いっぱいになって、浮かれて。
……みじめな気分だった。
これが『パパなカントループ』ではなく『片想いする青年のハルシオン』としての欲だというのが、一番罪深い。
自分がクズなのがどうしようもなく自覚されて、ハルシオンはうなだれた。
「こんな私に、彼女を幸せにする権利なんてあるものか」
苦しみを吐き出した瞬間――聖印が傾く陽光を反射したように視界の隅で煌めいた。
「あっ!?」
そして、全身が真っ白な光に包まれる。
雷に打たれたような衝撃が全身を駆け抜けて、ハルシオンはビクッと背をそらして硬直した。
脳に、グワングワンと大きな声が響く。
『なんじの持てるものを分け与えよ。商人は必ずしも自身の利益だけを求めるわけではない』
「へっ!?」
頭に直接響くように、声が聞こえる。
特別な声だ。
『商売は、人の社会あってこそ成り立つもの』
しかも、ひとこと喋るたびに全身にびりびりっと痺れるみたいな、稲妻がくだるような衝撃が走るのだ。
「あっ。あ、あぐ……!?」
その声がどういった声なのかが感じられて、ハルシオンは目を見開いた。
『商売敵は、成長と学びの相棒である』
声が続いている。
これは、これは――
『競争は、進化と革新の源泉である』
「聖句だ」
聖句だ。商業神ルートの教えだ。
『商いの舞台は競争と連帯の融合である。共に競い、共に発展せよ』
声が静まり、光がおさまる。
近くへと降りてきた何かが、すっと離れていく気配があった。
「はっ? い、いまの、いまのっ……?」
ハルシオンの心が揺れた。ぐらぐら揺れた。
超然とした何かが、たった今、自分の魂に触れたのだ。干渉したのだ。
彼に教えを説いたのだ。
……天啓だ。今、神が自分に語りかけたのだ。
『ライバルの不幸を喜ぶな。ライバルを助けよ』
……ハルシオンの神は、そう言ったのだ。




