115、なにが出世だ、なにが成り上がりだ
魔笛のように風が鳴く。
奇しく、もの寂しく。
(俺は何をしていたのだろう)
二つの石の冷たく硬い触感が、サイラスの心を揺らす。
大切な存在が、泥まみれになっていた。
こんなところで誰にも気づかれず、変わっていた。
死霊たちが教えてくれなければ、きっと気付かなかった。
【なにが出世だ、なにが成り上がりだ】
そんなものに目が眩んで、愚かな。
どんなに惨めなときも、自分を慕ってくれる愛馬の体温が心を慰めてくれたのだ。
小さな姫は、光そのものであるかのように、確かな存在感で人生に希望を抱かせてくれたのだ。
……好意を寄せてくれたのだ。
【偉くなっても、大切な存在を失ってしまっては意味がないのに】
「俺の、馬鹿……!」
迂闊な自分が憎くてたまらない。
目先の功績に釣られて部下に任せて離れた結果、馬も姫も石に変えられてしまったではないか!
『私には息子がいなくて……』
カーリズ公爵が優しい声で、後ろ盾になってくれるとおっしゃったのを思い出す。
息子がいたらこんな感じかもしれない、と微笑まれて。
『キミが息子だったらさぞ誇らしいでしょうね。はとこどのは見る目がある。そうだ、少し手続きが面倒ですが、養子になりませんか』
嬉しかったのだ。
認めてもらうのが気持ちよかったのだ。
『いろいろとご心配でしょうが、一緒にこの国を守っていきましょう。大丈夫、誰にも成り上がり者などとは言わせませんよ。陛下の病も、治療法を今……模索していますからね』
そうだ。心配だったのだ。
だって、女王陛下がご病気だと知ってしまったから。
余命三年だとわかってしまったから。
……心配する気持ちとともに、自分のことを考えてしまう部分がどうしてもあった。
【俺の地位は? 陛下のおかげで得た、この居場所は?】
ローズ陛下がいなくなったら、俺はどうなってしまうのだ?
【陛下の寵愛をやっかむ輩に権力を握られたら、俺は追放されてしまったりしないだろうか? お前は紅国人ではないと言われてしまうのだろうか?】
帰る村は、もうないのに?
根無し草になって、……届くと思った高嶺の花に手が届かなくなる?
【生きていけない。そんなの、耐えられない】
『万一のことがあっても、大丈夫ですよ。あなたは紅国人で、紅国の騎士で、貴族ですからね』
……父がいればこんな感じだろうか。
そんな安心感や頼もしさをくれるのが、カーリズ公爵だった。
「準男爵などで満足はしない。俺はもっと上に行く。……陛下とて、俺がお救いしてみせる。その功績でもっと讃えられて、高みにのぼって――」
つり合いの取れる高い頂きから、至高の姫に手を差し出すのだ。
【姫、俺はあなたの理想に届きましたか、と問いかけて、……頷いてもらえたらどんなに心地よいだろう】
そんな野心を抱けるようになった自分が、誇らしかった。
けれど、けれど。
俺が頂きにのぼっても、姫がいなくなっては意味がないではないか。
「英雄どの」
背中に声がかけられて、肩がびくりと震える。
視線を向けた先には、嫌な記憶を刺激する青い鳥がいた。
『密偵さん』だ。味方だ。
(鳥の姿で「英雄」と呼ぶのはやめてほしい。偽の青王と過ごした時間を思い出すから)
「英雄どの。その石は……」
当然ここにあると思っていた止まり木がなくなっていて途方に暮れたような、そんな声だった。
その声が神経に触った。
この密偵さんは、呪術の腕が立つ。そばにいればこんな事態にはならなかっただろうに。
「密偵さんは、なぜ姫のおそばを離れたのですか」
言ってしまってから、唇を噛む。
俺に他人を責める権利があるのか、と思ったのだ。
(それはまさに自分が言われるべき言葉ではないか)
「失礼。……俺は誰よりも俺にそう言わねばならなかったのでした。他人を責めたのは、間違いでした」
言い繕うと、青い鳥は小さな首をちょこんと下げた。
「申し訳ございません」
鳥が、人の姿になる。
『密偵さん』は、暗黒郷の王族の特徴を持っていた。
白銀の髪を三つ編みにしていて、移り気な空の青の瞳をしている。
年頃はフィロシュネー姫とそう変わりなく見える。
「か……」
ためらいがちにしつつも、一歩近づく足取りには強い意思が感じられた。
「解呪します」
――解呪。
言われた言葉に、周囲が明るく照らされたようになる。
「できるのですか」
自分でも間抜けだと思う声が出た。
脚の力が抜けたようになって、へたりと座り込んでしまう。
おそるおそる手を差し出すと、『密偵さん』は目の前で上半身を寄せて、二つの石に静かに解呪をほどこした。
神聖な儀式を見ているような心地でいると、石がふわりと光を帯びる。
――この光には、覚えがある。
フィロシュネー姫が解呪するときと同じ光だ。
瞬きをするうちに、目の前に一頭の黒馬とひとりの姫君があらわれた。
世界が鮮やかな彩を取り戻して、明るさを増したような心地がする。
「姫……、ゴールドシッター……!」
かけがえのない存在が二つ、目の前で自分を見る。見てくれる。
そんな現実が、奇跡のように特別に思える。
無我夢中で体温を寄せて、腕をまわして、確かめるように抱きしめると胸がいっぱいになった。
姫の温かな手が背中を撫でて、ゴールドシッターの鼻息が頬に触れる。
その確かな存在感が、狂おしいほどに愛しい。
「サイラスぅ……」
名前を呼ぶ声がする。
「あのね、ゴールドシッターをもっと大切にしなきゃだめなのよ……」
(最初におっしゃることがそれですか)
思った瞬間に、察したように首をかしげる仕草があどけない。
「心配してくださったのよね。あのね、心配をおかけしてごめんなさいね」
「謝るのは、こちらです」
会話をしている。それが特別に感じられる。
「ゴールドシッターがわたくしを守ってくれたのよ」
教えられて、愛馬を見る。
馬の鼻先がサイラスの手を舐めるように触れた。
心地よい温もりを感じながら馬の首を撫でると、胸がいっぱいになった。
(俺の馬は、姫をお守りしたのだ)
――胸の奥が熱くなる。
愛馬の甘える仕草が、あたたかな気持ちをどんどん呼び起こす。
「よくやった……」
ようやくかけた言葉に、ゴールドシッターは嬉しそうに鳴く。
「ひひんっ!」
俺の自慢の愛馬だ。
頼もしくて可愛い相棒なのだ。




