朽ちた塔のオルフェ
数分で読み終える、ごく短いファンタジーショートショートです。
振り返らない。辿り着くまでは。
私は走る。前を見て、上を見て。後ろや下は見ない。その理由は単純で、相手が追いつく距離にまで迫っていれば、それは即、私の死を意味していたからだ。そして私の目的地はもう目前だ。振り向くのは辿り着いた後でいい。否、そうでなくてはならない。私にはそれ以外に選択の余地が無いのだ。
森に入る為の服装で良かった。普段着のスカートと靴では、ここまで走って昇る事はできなかったろう。
襲ってきたのが「彼等」で良かった。空も飛ばず、足もそこまで速くないから。
襲われた場所がここで良かった。ここなら、向かう先があるもの。
突然、足をかけた石段が崩れ、私は転びそうになった。慌てて両手をつき体勢を立て直す。手のひらが少し切れたが、気にしてはいられない。走るしかない。昇るしかない。
この見捨てられた物見の塔は私のお気に入りの場所だった。戦地へ行った弟と良く遊んだ場所でもある。穴だらけの壁から刺し込む微かな日の光だけで、どう登ればいいのかがすぐ判った。
追っ手もまた昇って来ていた。重い足音が塔全体に響いている。私は振り返らない。目指す場所は、ほら、もうここだ。
そこは光で満ちていた。塔の屋上にある、小さな庭園。
この朽ちた塔の周囲は森に覆われてしまっており、それゆえに物見塔としての機能は完全に失われていたのだけれど、太陽が上から射すこの時間帯、この屋上だけは光溢れる小さな庭になるのだ。
私と弟が一生懸命植えた花達に、私は別れを告げる。目的地に着いたのだ。私は振り返る。
光の庭に、追っ手もまた現れた。戦斧を携えた、魔族の兵士が三人。言葉は通じない。こちらに武器はない。魔法も私は使えない。けれど私は微笑んだ。
* * *
「雷でも落ちたのかと思ったよ」と、自宅の居間で母さんが言った。確かに、凄い音だった。
いつ崩れても不思議ではなかった塔に、重装備の兵士が三人も同時に上がったのだ。もちろん私は、床の何処が脆くなっているのかを弟の植えた草花がびっしりと繁っている上からでも判別できたし、私の立っていた場所から飛び降りたすぐ下には私一人なら問題なく掴まれる太い大木の枝が伸びているのも知っていた。
塔は完全に崩れてしまったようだった。弟が聞いたら悲しむだろうか? 仕方ない、これで許してもらおう。
私は魔族の遺骸から引き剥がして綺麗に磨き直した斧を、この秋には帰る筈だった弟の椅子に立てかけて、目を閉じた。