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……今日は穏やかな一日だったな……。
教材を抱え、社会科教員室へと向かうそのルート上にある階段を降りながら本日を振り返る。
いつもなら日に一回は見つかって絡まれているのが、今日は取っ捕まることなく平和な今(放課後)を迎えている。迎えることができている。
「…………」
何かあったんだろうか。
心配……するわけではないけれど。
いつもあるものがない、というのはどうも変な感じがする。
なんだろう……つまらないっていうの?
いや、違うな……面白くないっていうか?
いやいや違うな……楽しくないって感じか?
と、そこで気付く。
本当に彼女──神崎さんは何の為に学校にいるんだろうか?
肩書きは無いにしろ、学校に居るのには理由があるはずだから…………ん、もしかしたら今日彼女に絡まれることがないのは、その理由で……つまりは仕事をしているから、なのか……?
「…………にしても気になるよなぁ…………」
神崎さん、本当に何なのだろう。
何をする人なんだろう。
見ている限りの様子では、何を仕事にしているのかさっぱり分からない。校内をうろつき、お昼時は生徒に混じって談笑、あるときは校舎の傍に植えてある木の上で寝ていたり、学校の事務員と雑談していたりするのだが……何と言うか、動きが自由すぎる。これでは本当に仕事をしているのかどうかも怪しい。
学校でそんな束縛されない仕事ってあるか……?
そんな疑問を頭の片隅で考えながら、社会科教員室の扉を開ける。
「お疲れ様」
室内には氷室先生が居て、彼は僕を見とめると短い言葉で労ってくれた。
「お疲れ様です」
僕も言葉を返しながらデスクに着き、教材を置く。
「遅い戻りだね。何かあった?」
「ええ、まぁ……。教室を出る前に数名の生徒に質問攻めに合いまして……僕の教え方では内容が上手く伝わらなかったようです」
言いながら、僕は苦笑した。
質問をしに来たのが一人二人ならまだいい。だが、四人五人ともなると、己の指導力に自信が無くなる。
「……ははぁ、小金餅先生は人気者だね」
にやり、として笑って見せる氷室先生。
…………はい?
「えっと、それはどういう……?」
「授業の内容が分からなかった、と言いつつ、その目的は小金餅先生とおしゃべりがしたかったんだと思うよ」
要は口実に使ったんだね、と氷室先生は言う。
うん?
授業に関する質問が、僕としゃべるための口実……?
僕は少しだけ考え込む。
「……うーん、そう、なんですかね……。いや、でも、おしゃべりしたいだけなら普通にその辺の適当な話題でも拾って話しかけてくるんじゃないですか?」
わざわざ授業が分からなかったふりをしなくても、おしゃべりは出来るのに。
「小金餅先生、その、質問してきたのは女子生徒が主だったんじゃないかな?」
「………………」
言われてつい先程のことを思い返してみる。
終業の鐘がなってすぐに僕のところへきたのは……この間お昼を一緒に食べた晴宮文と小野寺寧子。それから彼女らが離れてすぐに柴崎美雨と篠村ゆずきの二人が来て……そのあとに朴龍斗という男子生徒が一人来た。
……おう。見事に女子生徒が多い……。
「あぁ……はい……そうですね……」
「だろう? 女子生徒は気恥ずかしさもあるのか、そういう口実を使ってコミュニケーションを取ろうとする傾向があるんだよ」
なるほど。
そうなのか。
ん。
だがしかし。
「うーん、そうだとしても……やはり僕自体に……僕個人に、人気者があるというよりも、新しく入ってきた先生ってことで好奇心を向けているだけだと思いますが……」
新商品は気になるからチェックしよう──そんな好奇心の向け方をするのは、若い彼らにはよくあることである。
「まぁ、それもあるだろうが……中にはそれだけではないこともあるから──気を付けないと」
苦笑いをして、氷室先生は言う。
? 気を付けないと?
僕がその言葉の意味を図りかねて首を傾げていると、氷室先生は少し困ったような表情になり、
「……対応を間違えると良からぬことになるということだよ」
と、諭してくれた。
あぁ。ありがちなあれか。
「恋愛に発展してしまうってことですね」
禁断の恋愛。
教師と生徒の恋。
「──僕、それに関してちょっと思うところがあるんですよね」
よく、小説の題材とかに使われるけれど。
「本当にそれって禁断の恋、なんですかね?」
「……………………」
ん? あれ?
氷室先生が黙ってしまったぞ?
「氷室先生?」
「…………小金餅先生…………それはどういった見解なのかな?」
「あ、いや、その、何と言うか……僕は別に禁断と言わなくてもいいと思うんですね、人が人を好きになっただけなのに──やれ体裁が悪いだの世間体が気になるだのガヤガヤ言われる──騒がれるのは理不尽だな、と」
慌てて自分の考えの根拠を説明する。
焦って上手く言えず、なんだか言い訳めいた感じになってしまったが。
ハッ。
待てよ……。
今の説明だと僕自身が生徒に恋してるみたい……?
「小金餅先生、まさか」
ぐっ、氷室先生の疑うような視線が痛い!
「ち、違います、僕は──」
氷室先生の勘違いを正そうと弁解の口を開いたところで、
「呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃじゃーん★」
ものすごい破壊力を持ったテンションが割り入ってきた。
「か、神崎さん!?」
「やっほー、らぶちゃん、仕事してきたアタシを労え!」
ガシッと。
例によって例のごとく、近づいてきた神崎さんに首根っこをロックされた。
「ふふん、君の本日の業務が終わってることは明白なんだぜ! っつー訳で、これからいまからアタシに付き合え!」
「え? あっ、ちょっ、待って、業務自体は終わってな──うッ」
最後の一声を言いきる前に首を締められた。
「いいから付き合えって」
抵抗敢えなく引きずられる。
ちょ……っ、チカラ強……っ。
女性の力じゃないよねコレ……っ。
「ちょっ、氷室先生助け──」
がらぴしゃっ。
手を伸ばして助けを求めるも、廊下に出て直ぐに閉められた扉に遮られた。
歩みの止まらない神崎さんに、僕は引きずられていく。
社会科教員室から氷室先生が追い掛けてきて僕を助けて────くれることはなかった。
・
・
・
社会科教員から拉致…………ぐふっ…………連行された先は特別棟(生物室・化学室・地学室などがある)の屋上だった。
「おーっ、やっぱ涼しーっ!」
僕を解放して軽くなったであろう腕を、天に向かって突くように伸ばし、神崎さんは通り抜けていく風を全身で受けて堪能する。
確かに……気持ちのいい風が吹いている。神崎さんにネックロックされて熱を帯びていた首が、クールダウンしていく。
神崎さんは上げていた腕を頭の後ろで組むと、すたすたと移動し、落下防止のコンクリート塀に背中を預けた。必然と、僕と向き合う形になる。
「……懐かしいですね……」
昔に見慣れた眺めに、思わずそう呟き掛けた。
「だなー。お前が死に場所にしようとしてた場所だもんな」
「……貴女に生き場所に変えられた場所でもありますけどね」
僕は神崎さんを見つめた。
神崎さんも僕を見つめた。
「…………」
「…………」
表情の無い神崎さんの顔。けれど、見つめてくる目は真っ直ぐで、僕の鼓動は少し早くなった。今、僕を見つめて彼女は何を思っているのだろう。呆れた……だろうか。それとも。僕の心の中を探っているのだろうか。目は口ほどに物を言うらしいが……どうだろう。もしも伝わってしまうのなら……伝わるのは感謝と敬意だけでいい。僕の中にあるもうひとつの気持ちには気付かないで欲しい。
しばらく見つめ合って──先に沈黙を破ったのは神崎さんだった。
「…………そんな大したことしてねーっつーのよ」
頭の後ろで組んでいた手をほどいて下ろすと、神崎さんはくるりと身を翻して僕に背を向け、今度は塀に乗り掛かるように凭れた。僕は神崎さんに近づいて、その隣に倣うように立った。視界に、夕日に染まるB棟が映る。窓ガラスを透かした向こうに、教室を後にする生徒や、残って雑談に夢中になってる生徒、中にはこちらに気付いて手を振ったり指を差したりする生徒がいた。それらにジェスチャーで応じていると、神崎さんが徐に口を開いた。
「……なぁ、『ゲートキーパー』って何のことか分かるか?」
前を向いたままで神崎さんは質問してきた。
知ってるか? ではなく。
分かるか? と質問してくるところをみると、知識ではなく、どんなものなのか理解してるかを訊いているのだろう。出会ってすぐにお互いの肩書きを確認したとき。神崎さんは『ゲートキーパー』みたいなことをしていると言った。
『ゲートキーパー』。
それは──
「……自殺対策者のことですね」
何年か前に講習を受けたことがあるのを思い出した。
自殺の危険性に気付き、声かけをし、話を聞いて必要な支援をする──『命の門番』。
「僕のイメージでは『カウンセラー』に近いものがありますけれど……何となく……『ゲートキーパー』は『カウンセラー』とは一線を画する存在のような気がしますね」
対応……応対の仕方に明確な違いがあるからかもしれない。『カウンセラー』は相談者が来るのを待つ、または来てもらってから話──悩みごとを聞いたりアドバイスしたりするが、『ゲートキーパー』はその辺をうろついて気になる人に何気なく声を掛け、そこからコミュニケーションを図り、その人が今必要としているのは何なのかを探っていく。
「『カウンセラー』と聞きますと身構えるものがありますが、『ゲートキーパー』と聞いただけではその響きから想起するのがファンタジーによく出てくる『門番』であるせいかあまり抵抗を感じないですね」
「なんだか教科書から拾ってきたみてーな言い方するな。でもま、ちゃんと分かってくれてるようでなにより。……それでだな。アタシがそれっぽいことしてるってことは言ったっけ?」
「みたいなことをしている、と言ってましたね」
「それな。それで──そのせいで今日はらぶちゃんに絡めなかったんだが、ごめんな?」
「…………今の会話の着地点がそれってことはないですよね」
「だとしたら?」
「帰ります」
「ああっ、待って、うそうそ、じょーだん!」
それらしく塀から離れた僕を、神崎さんは僕の服の裾を掴んで引き留めた。
………………。
なんだろう。
ちょっと嬉しい。
しばらくこのままでいていいかな。
「なに考えてやがる」
「いえ何も」
僕の不埒な考えを察した神崎さんから不穏な空気が漏れだしたので慌てて首を振り否定する。
「脱線しましたけど、本線の終着駅はちゃんとあるんですよね」
誤魔化すように話を戻す。
「あるある。本線も見えて終着駅もある」
そういって神崎さんは塀の向こうに視線を投げた。
「本線も見えて……? ──って、あ」
神崎さんに倣って移した目の先に、覚えのある生徒──雲野真白の姿があった。
「本線は彼女。んで、終着駅は──彼女が自殺する可能性があるってことだ」




