第6話
「シャルロットを襲った賊とされるのは、この私のことなのだから!」
「………………はっ?」
時間が止まってしまったかのように、誰も言葉を発しない。
燃え尽きた灰のような、真っ白な思考の空白が、急速に頭の中を侵食していく。
それほどの衝撃が講堂内を突き抜けていった。
――静寂を切り裂いて非難の声を上げたのは、やはりというか、公爵令嬢のオフィーリアであった。立ち直りの早さはさすがといえよう。
「ク、クラウス様! あなたはご自身の発言の意味をちゃんと理解しておられるのですか!?」
「もちろんだ。聞こえなかったならもう一度言おう。我が許婚シャルロットはもういない。私自ら破棄した」
「こ、婚約者を自ら手にかけたと……?」
「何度も言わせるな! シャルロットはすでに私の婚約者ではない!」
「故人となった令嬢は、もう婚約者たりえないと?」
「故人? なにを言っているのだ? シャルロットはまだ生きているだろう」
「……はっ?」
「王太子の婚約者ともあろう者が間抜け面をさらすでない! 王家の尊厳に係わると常々問題にしているのはオフィーリア様ご自身であろうに。
――シャルロットには絶縁状を突きつけてきた。婚約を破棄したのだ。許婚としてのシャルロットは死んだ。今後はただの男爵令嬢として学生生活を送るよう言い渡してある」
「…………はぁっ?」
(――なんだ、この茶番!?)
クラウスとオフィーリアのやり取りを聞いて、アーデルハイドの心に最初に浮かんだのは、そんな突っ込みの言葉だった。
自分は罪人になる覚悟まで決めて、忠誠を尽くそうとしているというのに、仕える主の頭の中はこんなお花畑だったのか!? との衝撃が、アーデルハイドの精神を打ちのめしていた。
学院に入る前のクラウスのことを知っているおかげでなんとか踏みとどまれたが、それにしてもたった二年ほどでここまで骨抜きにされるとは、社交界の恐ろしさを、骨身に刻み付けられる思いであった。
(恋や嫉妬が人を変えるという話はよく聞くし、それが起こした事件にも枚挙に暇がないとはいえ……それでもさすがにこれはない!)
若気に至り、などという言葉もあるにしても、ただの色恋が、こ・こ・ま・で・人を変えてしまうほどの力を持っているとは!
アーデルハイドは心底から恐ろしいと思わずにいられなかった――盲目な恋心も、それをもたらしたシャルロットのことも。
――そんなアーデルハイドの思いをよそに、クラウスとオフィーリアの掛け合いはまだ続いていた。
「しかし、剣を携えた賊が女子寮から逃げるところを目撃したという報告を受けています! これはどう説明するのですか!?」
「だから、それは私だ。 たしかにハイディの服を拝借して帯剣したままシャルロットの部屋に押しかけた。そこで、彼女を問い詰めた私は婚約の破棄を決めたのだ。その場で切り捨てそうになったのは事実だが、思いとどまった」
「ハイディ……? あぁ、アーデルハイドのこと。で、ではあの女はまだ生きていると……?」
「さっきからそう言っているであろうが」
「なぜ最初から指摘しなかったのですか!?」
「私が去った後のことまで、関知していなかったからだ。あのあと何があったか掴むまでに時間がかかった」
クラウスは声のトーンを落とす。
「実は何も起こっていなかったのだな。では、あの場で起こったことは、それがすべてだ。シャルロットは傷ついたろうが、怪我を負ったわけではない」
「……なぜいまさらになって名乗り出てきたのです?」
「事態を把握できたからだな。それに、辺境伯家の嫡男ともあろう者が許婚とトラブルを起こし、あまつさえ女装して女子寮へ押しかけたなどと、これだけの目があるところで公表しろというのか!? そもそも隠したいからこそわざわざ女装までして忍び込んだのだ。私とてこんな騒ぎがなければ隠しておきたいに決まっているだろう!」
そりゃそうでしょうね。
と、アーデルハイドは心の中で突っ込みを入れた。
「だったら、そのまま黙っていればよかったのではないですか」
「上に立つ者が、部下を理不尽な仕打ちから守ろうとするのは当然のことであろう?」
「部下?」
オフィーリアは首をひねった。ほかの者たちも一様に疑問を顔に浮かべている。
アーデルハイドがパラダイン家に仕えていることは、これまでクラウス以外誰も知らなかったのだ。
「ハイディは私の騎士団の副長の地位を我が父から直に拝命している。彼女は騎士の娘というより、彼女自身がすでに騎士だ」
「アーデルハイドが騎士?」
「そうだと言っている!」
ここで、ようやく気を取り直したアーデルハイドが口を差し挟んだ。
とにかく彼女の主であるクラウスのダメージが少ないうちに、この茶番劇に終止符を打たなければならない。
情けなさを感じずにはいられなかったが、そんなことを言っている場合でもなかった。
「――横から失礼いたします。職務上のことで、クラウス様と言い争いをしていたのは事実です。聞き耳を立てていた者には内容を誤解されてしまったようですが、クラウス様とは旧知の間柄でありました」
「――なぜ言わなかったのかしら?」
「主君のスキャンダルを告発しろと? そもそも具体的な内容も知らされていなかったのに、何を言えというのです? まさか真相がそんなことだとは話を聞くまで思いもしませんでしたから、口を噤まざるを得なかったもの致し方なかったと、ご理解いただけないでしょうか」
「では、嘘の告白をしたと?」
「私が認めたのはその服が私のものであるということだけです。それは真実でありましょう? 服の持ち主が殺人犯だと決め付けたのはあなた方のほうだと記憶しておりますが? もちろん不満を申し上げているわけではありません。あくまでも事実の確認です」
『不満がない』というのは、もちろん方便である。
本音では、思い切り恨みを溜め込んでいたが、ここで言うべきことでもない。
「言葉を弄すな! この混乱はお前がもたらしたものだろう!」
講堂中に響くような大声をあげ、失態を取り返すべくオフィーリアの取り巻きがしゃしゃり出てきたが、答えたとしても場を混乱させるだけなのでアーデルハイドは無視を決め込んだ。
そのうちどこからともなく工作員令嬢1と2が現れて、取り巻き男を、渦中から舞台の外へ押し流し、この三人はここで退場となった。
「どの道、当事者のシャルロット様がいらっしゃらないことには埒が明きません。ここで私たちがいくら言い合ったところで不毛ではないかと思うのですが……」
アーデルハイドの提案に、オフィーリアがはっと顔を上げた。
思いついたことを口に出す。
「女装までして踏み込んで、絶縁状を渡しただけとは、妙な行動をするのですね」
「二人きりで問いただそうと思ったのだ。シャルロットはいつも側に誰かを侍らしていたゆえ、こうでもせぬと機会が作れなかった。それだけだ」
「絶縁状に婚約破棄。それを決断したということは不貞の事実をつかんだからではないのですか!?」
「回りくどい!――なにが言いたいのか、はっきり言ったらどうだ!」
「その場で切り捨てようと思ったのでしょう。よく思いとどまることができましたね」
「……シャルロットは帯剣していなかった。丸腰の婦女子に切りかかるなど騎士のすることではない」
「名誉を傷つけられたのに?」
「そこで感情的になり、無抵抗の者を襲えば恥の上塗り。領地の者に顔向けできぬ。だから、社会的に抹殺することを選んだのだ」
実際にはあなたのほうが社会的に殺されかかってますね、と誰もがそう思ったが、実際に口に出した者はいなかった。
「それが絶縁状と婚約破棄ですか」
「そうだ」
「それは誰かに助言されての行動ですか」
「ああ、その通り」
「差し支えなければその方の名前を教えていただいても?」
「なぜだ?」
「その方のおかげで流血騒ぎが回避されたのですから、感謝を申し上げたいのですよ」
「む、それは一理あるな。私に助言してくれたのはオットーだ」
「オットー? 財務卿のご子息の?」
「そう、彼だ」
それを聞いたオフィーリアは、難しい顔をしてうつむき、沈思に耽る。
顔を上げたときには、彼女はこの集会に対する興味を失っていた。
成り行きを見守っていた観衆は、状況の急激な変化についていけずに戸惑いを感じていたが、オフィーリアの厳しい表情を前に、なにも言い出すことができなかった。
出口に視線を送るオフィーリアの前に、人波が割れ道ができる。
「言われてみれば私にとっても恩人となるのだな。礼を言うべきなのだろうか?」
そんなクラウスのつぶやきに、
「……お好きなようになさればよろしいのでは」
突き放すようなオフィーリアの返答が、舞台の散会の合図となった。
彼女はもはや一顧だに振り返らず、足音高く講堂から立ち去り、後に残された者たちは、あまりの成り行きに呆然と立ち尽くすだけであった。