第40話
王太子ローデリヒの即位に関する情報が解禁され、新たな時代の到来を予感した高揚感と幸福感が、王都中の隅々にまで満ち溢れていた。
新たな王を祝福する声があちこちで飛び交い、酔っ払いのたわ言すらも、このときばかりはいつものような愚痴ではなく、心地のよい上機嫌さを周りに振りまいている。
普段は王家に対して辛口で鳴る王都の住人たちも、この布告を前にして、新鮮な喜びと暖かい抱擁を持って受け入れた。
もちろん、そんな浮かれ気分の世間の中にあっても、いつまでも幸福感に浸っていられる者ばかりではない。
歓喜に沸いている群集を尻目に、パラダイン領の領行政における最高責任者だった、ルーカス・バエティカの使いと名乗る男が、パラダイン家の屋敷を人知れず訪ねて来た。
その男は、新しい宰相候補の筆頭と目されている、財務卿ヴァイス伯爵の子息で名をオットーといった。
彼は、宮廷に戻り、副宰相の地位に返り咲くことになったルーカス・バエティカの補佐として、彼の元で経験を積むことになっていたのだが、早くもこんな調子で使いっ走りとして大いに便利使いされていた。
そんな彼を迎えたのは、バエティカの副宰相復帰に伴なう人材の穴埋めにと、パラダイン領の領主代行の役職を、辺境伯本人から直接任命された嫡男クラウスと、その直属の女騎士アーデルハイドであった。
* * *
「――結局、オフィーリア様はヴェントブルク公爵家で引き取ることに決まりそうですよ」
諸々の報告がてらパラダイン家を訪れていたオットーが、ついでのように口に出したのは、元公爵令嬢オフィーリアについての話題であった。
――その場にいたすべての者を震撼させた、オフィーリアのあの狂乱と失神。
そこから連れ出されたオフィーリアは、それほど間をおかずに意識を取り戻し、関係者の胸をほっと撫で下ろさせた。
だが、安堵が困惑に取って代わられるまで、それほどの時間はかからなかった。
なにしろ目覚めた彼女は、ローデリヒのこともベアトリクスのことも、まるで憶えていなかったのだ。
――後日、彼女を診察した、ヴェントブルク公爵家の侍医が下した診断結果は、『精神性ショックによる幼児退行』というものであった。
精神に強い衝撃を負ったせいで、心を守ろうとする機能が過剰に働き、7歳の時における王妃ベアトリクスとの邂逅以降のすべての記憶を、決して人の手が届かない不可知の領域に封印してしまった、ということらしい。
「……いささか予想外の結末でしたが、本人にとってはそれが一番幸せだったかもしれませんね」
醜い宮廷闘争に染まる前の、無垢な自分に還ることができたのだ。当人にとってだけなら、その通り幸運だったといえなくもない。
オットー自身ははそう結論付けたが、ただ、周りの者にとっても同じかといえば、そこは別の意見が上がってくるであろう。
(意外と冷静ですね。もっと何がしかのリアクションがあるかと期待していたんですが……)
率直な感想として、パラダイン家の二人がオフィーリアの行く末に、なんら感興を刺激されたようには、少なくともオットーには見えなかった。
その態度を〝冷たくないか?〞と一瞬思ったが、戦の最前線にいる者特有の感性なのかもしれないと思い直し、それ以上は追求しようとはしなかった。
(……恨みはないかわりに関心もない、おそらくはそんなところですかね)
彼はそう推察した。
彼女らが示した関心は、とある事柄に対して、事務的な口調で彼に確認を求めてきたのみであった。
「修道院に送られると聞いていたんですが、そちらの線はなくなったのですか?」
質問者はアーデルハイドであった。
彼女が殊更、そこに興味を示したのは、ある理由が起因していることにオットーは察しがついていた。
この件には、彼女の友人、シェーンバッハ侯爵令嬢ナターリエが絡んでいるのだ。
当初の話では、婚約を白紙に戻されたオフィーリアは修道院に送られ、そこで生涯を終えるはずであった。
とはいっても、7歳の少女と変わらない不安定な精神状態の今のオフィーリアをそのまま受け入れるのは、修道院側の負担が大きすぎではないか。そんな話が受け入れ予定先の修道院側から持ち上がった。
ということで、妥協案として彼女の友人だった侯爵令嬢ナターリエが共に同じ修道院に入り、彼女の身の回りを世話をするという落しどころで話がまとまっていたらしい。
(修道院としては、うまく立ち回ったつもりなんでしょうけどね)
――人づてにオットーの耳に聞こえてきた話では、修道院側は、彼女たちを受け入れる代わりに、両家から公然と多額の寄付金を受けることができるということで、人目のないところで歓喜に沸いていたそうだ。
ところが、思いがけないところからこの話は行き詰った。
オフィーリアがナターリエの世話を受けることを拒絶したのだ。
実際に何が起こったかといえば、ナターリエの姿を見かけただけで、毎回癇癪を起こすオフィーリアが、手がつけられないほど激しく暴れてしまうのだ。
これでは二人が同じ場所で共同生活を行なうのは、非常に困難であろうとの想像が容易についた。
(まあ、そんなに自分に都合よく世の中ができてるわけもないし、当然、予測してしかるべき事態でしょう。まぁ、誰が見てもあれは欲を掻きすぎですよ)
まるで改善の兆しを見せない状況に、途方にくれた修道院の院長は、苦渋の選択の末、オフィーリアの受け入れの断念を決断する。
ヴェントブルク公爵家も経緯が経緯であるため、渋々納得し、最終的には一度は類縁から抹消したオフィーリアの同家での引き取りに同意した――という顛末だそうだ。
ただ、ナターリエに関しては、いまだにかなり話がこじれていて、その原因が、シェーンバッハ侯爵家からの寄付金がらみであるという――
オットーがそれとなく伝えると、それまで黙って聞いていたクラウスが、納得がいかないとでも言いたげな思案顔になった。
「修道院は自給自足が原則だと聞いていたが、なぜそんな話になっているのだ?」
「オフィーリア様を受け入れるにあたって、かなりの高額な家具類を購入したみたいですね。寄付金がすべて消えてしまうとその分の借金が残ってしまうそうです」
クラウスはあきれて言葉が出ないようであった。
この場合、先走りすぎた修道院が悪いのか、話を引っ込めたヴェントブルク公爵家が悪いのか……クラウスには判断がつけられないのだろう。
「そのくらい、国庫から出して差し上げればよかったのでは? 婚約こそ破棄してしまったとはいえ、ローデリヒ殿下とは血の繋がった従兄妹同士でしょうに」
クラウスから話題を引き取ったアーデルハイドの提案を、オットーはにべもなく却下した。
「そういうわけにもいかないんですよ。国庫から修道院への寄付というのは、かなり厄介な手続きを踏む必要があるんです。何しろ、ベアトリクス前王妃が台頭できた最大の功績が、その手の腐敗や汚職の排除でしたからね。それはもうひどかったんですよ。さすがにいまさらそこには手をつけたくありませんね」
オットーの答えを受けてアーデルハイドは少し考え、
「それなら……まぁ、ナターリエ様の気が済むまで、しばらくは修道院で過ごすのも悪くはないかもしれないですね。ではとりあえず、ナターリエ様がいつでも好きなときに還俗できるように手を打つぐらいは、やってもかまいませんよね?」
それならば、と彼女は別の案を提示する。この決断力も彼女の武器のひとつであろう。こうした切り替えの速さは、実戦の中で磨いたものなのだろうか。
「……法に触れない範囲でなら、僕が口を出すことではないですね」
つまり、自分でやれ! と言外に言ったわけだが、まあ、彼女ならほっといても上手くやるだろう。
何しろ、王妃陣営の陰に隠れてローデリヒ派のつなぎを一人でつけていたのが、他ならぬ彼女なのだから。
「もし本当に修道院に入るなら、できれば俺たちがパラダイン領に戻る前に、ナターリエさんを見送ってあげたいところだが……」
「あら、珍しくいいことを言いますね、クラウス様。では、中止になった学院際の変わりに、ナターリエ様の送別会を企画しますか」
「ローデリヒ殿下の即位式の準備もあるのに、ちゃんと人を集められるのか?」
「その辺は私が何とかしますよ」
「ならオットー。お前も参加するよな?」
「……参加しなかったら恐ろしいことになりそうですね」
軽く返しはしたが、実際、オットーは阿吽の呼吸を見せるこの二人のことを、心底から恐ろしいと思っていた。
この二人が組めば、世界さえ敵に回しても何とかしてしまうのではないかと、そんな妄想さえ彼に抱かせてしまうのだ。




