第38話
(※注 胸糞注意)
絶望に染まりかけていたオフィーリアの瞳に、王妃ベアトリクスが足音高くやってくる姿が映った。
その様は、まさに光臨する天使の軍団を率いる女神の如し。
初対面時での、圧倒的な心象が焼きついたままのベアトリクスへの幻想を、半ば当然のようにオフィーリアは目の前の光景に重ね合わせた。
ただそれだけで百万の勇気を与えられたかのような安心感が、彼女をいっぱいに包みこんだ。もう不安も恐怖も、まるで感じなかった。
(ベアトリクス様が側にいてくれさえすればいい! たとえ世界のすべてが敵に回ったとしても!)
彼女は胸を高鳴らせながら、自身の崇拝対象の名を神託を授かった巫女のように陶然と告げた。
「ベアトリクス様! 来て頂けたのですね!」
颯爽とした足取りでやってきたベアトリクスは、いつものように彼女の最愛の姪を優しく抱きしめた。
「ああ、わたくしのかわいいオフィーリア! よってたかってこんなに苛められて! かわいそうに、怖かったでしょう。もう大丈夫よ」
「はい……ベアトリクス様……」
数瞬前まで場に満ちていた、触れれば破裂しそうな緊迫感は、慎みを持たない闖入者の空気を読まない抱擁によって、きれいさっぱり洗い流された。糾弾の場は幕を下ろし、変わりに白けた沈黙に取って代わられた。
陶酔に緩みきった表情を見せるオフィーリアと対照的に、ローデリヒは嫌悪感をまったく隠そうともしなかった。
「母上……」
「ローデリヒ! これはいったいどういうこと!? オフィーリアが、あなたの婚約者がこのような立場に置かれているというのに、盾となり城壁となるべきあなたが、なぜ傍観しているのです! 恥を知りなさい!」
「――恥を知るのは、あなただ、母上!」
「なっ!? 何を言っているのです!? ローデリヒ!」
険悪なにらみ合いは、ローデリヒの告発によって破られた。
彼は、獲物を見つけた猛禽を思わせる王妃の視線に怯むことなく、決定的な事実を叩きつけた。
「あなたがシャルロットに送った刺客は、すでに全員捕らえています。奴らに白状させました。彼らは母上に依頼されて、野盗に襲われたように偽装して、その場の全員を抹殺するように言われていたと!」
ベアトリクスの目が驚愕に見開かれる。
彼女は、自らが送った刺客が失敗するとは、微塵も想定していなかったのだろう。
「なっ!? 何のことです!?」
「とぼけないでください! あなたにはわかっているはずです!」
「でたらめです! わたくしが依頼したという証拠はあるのですか!?」
「ありません! ですが、証人はいるでしょう。シャルロットの馬車を襲撃した連中は、母上の子飼いの暗殺集団。私も面識がある者が何人か混ざっていました。私ですらそうなのです。国の重鎮たちなら私以上に詳しいでしょう」
ここまで言われて、ようやくローデリヒの発言がハッタリではないと頭が理解し始めたのだろう。
ベアトリクスの言動から、屈辱を押し殺した敗北感が滲み始めた。
「――まさか!? まさか、本当にあれらがしくじったというの!?」
「母上! あまり私を舐めないで頂きたい! シャルロットにつけた護衛はこの国で最強の一角を占める騎士たちです! パラダイン将軍のご子息に、この国最強の騎士ハラルト・クロースの愛娘。学院の孤高の獅子アーデルハイドとクラウス殿に率いられた護衛団です。母上が飼っているならず者ごときが敵うはずもありません!」
「……それは、いくらなんでも買い被りすぎです。そこまで大げさではありませんよ」
成り行きを見守っていたクラウスが、自分に対する過大な評価に苦笑を交えつつ謙遜する。だが、実際、シャルロットの乗った馬車を襲ってきた連中との差はローデリヒの目にも歴然であった。
もっとも、彼は別に謙遜するために出てきたわけではなく、王太子の言葉の正しさを証明するために口を挟んだのだ。
「ですが、襲撃者を捕らえているのはうそではありませんよ? これまでの余罪も含めて洗いざらい吐かせているところです。もはや逃げ場はありませんよ、王妃さま?」
いまやベアトリクスには常の余裕が消え失せ、奥歯をかみ締め、全身をワナワナと震わせていた。
最高権力者の威厳はブスブスと不完全燃焼を起こし、代わりに、爆発寸前の癇症が彼女から漏れ放たれていた。
発する声も、登場時とは違って鋭角的でとげとげしいものに変わっている。
もっともそれが虚勢の過ぎないことは、誰の目にも明らかであった。
「知らぬ! そのような連中など、わたくしは知りません! 言い掛かりは止めなさい! ローデリヒ、あなたは母を陥れようというの!?」
「ええ、その通りですよ。ずっとこの日を待ちわびていました」
「ローデリヒ様! ベアトリス様にそんな口の聞き方は……!」
ベアトリクスの腕の中にいたオフィーリアも、侮蔑的な言葉を止まないローデリヒのことを諌めようとするが、吐き捨てるように返されたのは、耳を塞ぎたくなるような醜聞の暴露であった。
「オフィーリア、哀れな女よ。その女の本性を知っても同じことが言えるのか?」
「? 何のことです?」
続けて、決定的な一言が、ローデリヒの口から放たれた。
「お前が縋り付いているその女はな、かつて私に肉体関係を迫ってきたことがあるのだよ! 実の息子であり、お前の婚約者でもある私にな!」
「………………えっ?」
世界を凍てつかせるような冷気を伴った重圧が、その場にいた者たちの圧し掛かった。
それはまるで、全身を氷でできた鎧に覆われてしまったかのごとく、悪寒が身体全体を縛り付けた。
石化の魔法でもかけられたかのように固まった立像の群れに、搾り出すような悲痛な嘆きが降りかかった。
自分を抱きしめている、餓えた狼の群れから救ってくれるはずの救世主が、じつは人を呪い殺す悪霊だった。
ローデリヒの訴えは、言うなればそういうことであった。
オフィーリアは、猜疑心に心が汚染されるのを自覚しつつも、一縷の望みを託しベアトリクスを見上げる。
――だが。
その疑惑の瞳に映った、後ろめたさを必死に隠そうと虚勢を張るベアトリクスの表情こそが、オフィーリアにローデリヒの言葉が真実なのだと確信させた。
「ローデリヒ、さま……に……?」
「でたらめよ! オフィーリア、信じてはいけないわ!」
オフィーリアの混乱もベアトリクスの懇請も、ローデリヒの弾劾を止めるに到らなかった。
吐き気を催すようなベアトリクスの秘された恥部を、彼はためらうことなく衆目の下に晒していく。
「この女はな、父上を再起不能にしてから、ずっと性欲を持て余してきた。だが、身分の低い者に身を任すことなど、この女の高すぎる矜持が許すわけがない。王家の血こそがこの女のアイデンティティだからな。それで、相手を自分の息子に求めたというわけだ!」
「そ……そんな!」
「オフィーリア!」
「――オフィーリア。お前に罪はないことは知っている。だが、お前を前にすると、あのときの悪夢が蘇るのだ。お前を妃にするということは、私にとって醒めない悪夢を見続けるのと同義だ。ゆえにこの婚姻は結ばれる前から破綻していたに等しい」
「ロ、ローデリヒ様は……ベ、ベア、ベアトリクス様と……その……関係を……」
「いや、私はきっぱりと拒否した。それついては潔白を約束する! ……私はな」
「何をしているの! その子の穢らわしい口を塞ぎなさい! はやく!」
「私に拒否されたこの女は、代わりにヴェンツェルをもその毒牙にかけようとしたそうだ。本人の口から直接聞き出した。疑う者はあとで本人に確かめるがいい!」
「ローデリヒ様の弟……?」
「オフィーリア! 信じてはダメ!」
「それが、その女の本性だよ、オフィーリア」
――『王家の血』と言うキーワード。
すべてがオフィーリアの中で繋がった。
ローデリヒの告発が真実であると、ついに心が認めてしまったのだ。
「……あ、……ああ、……ああぁぁぁぁ!」
彼女の精神はその衝撃に耐えることができなかった。目を限界まで見開いたかと思うと、糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
その目は焦点を結んでおらず、瞳の中に深遠の底を覗くような黒い穴が開いているかのようであった。
呆気にとられた沈黙が場を支配する中、糸の切れた人形のように崩れ落ちたオフィーリアの口から、調子の外れた笑い声が発せられた。
人形は幽鬼のような奇怪な動作で立ち上がったかと思うと、意味不明な叫びを上げてフラフラと踊りだした。
床は垂れ流された尿で黒ずんだ染みを作っている。
正気を失っているのは明白であったが、あまりの狂態に誰もが声を失い、手を出すことを躊躇わせた。
千々に乱れた金髪を振り乱し、奇声と共に繰り広げられる奇怪なダンスを、そこにいる全員が、ただ見守るしかできなかったのだ。
――やがて、彼女は体力が尽きたように倒れこみ、今度こそ動かなくなった。
あまりの常軌を逸した狂態に、もはや二度とふたたび、正気に戻ることはないように思われた。
身震いするような戦慄によって支配された沈黙は、意識を失ったオフィーリアが、衛兵によって連れ出されるまで続いた。




