第37話
少し長めです。
ふと、まぶたに眩しさを感じて、オフィーリアは顔の前に手をかざした。
窓から差し込む光の筋が、ベッドの上に陽だまりを作っていて、その一部が彼女の顔にかかったようであった。
……あれから、どれだけの時間、眠り続けてしまったのだろうか……
部屋の明るさに目を細めたオフィーリアは、気だるそうに半身を起こす。
こんな時間に目が醒めるのは、ずいぶんと久しぶりのことだった。
いつも起こしに来てくれる侍女のデミシェーラは、今日は珍しく部屋に待機していないようだ。
(……それもそうですよね。昨日の今日ですもの)
あれだけの醜態を晒した後では、彼女も顔を合わせ辛いだろう。
そう考えて……オフィーリアは不意に意識が覚醒し、一昨日の出来事をはっきりと思い出した。
(わたくし、ベアトリクス様の前でなんて情けない姿を見せてしまったのかしら……恥ずかしいったらないわ)
再認識してしまった己の醜態に、オフィーリアは思わず赤面してしまい、両手で顔を覆ってしまう。
(一昨日のわたくしは、どうかしてしまっていたわ。本当に恥ずかしい……)
煮えたぎる溶岩のように、自分自身をも溶解させながら心の中で灼熱していた負の感情を、いきなり見境なしに爆発させてしまった。
それは、公爵令嬢という身分には似つかわしくない、克己心に欠ける行いであったろう。これではまるで、癇癪を起こした子供と変わらないではないか。
(――強くあらねば!)
このような些細なことでいちいち動揺していて、どうして将来国を背負おうなどできようか。この程度の試練も乗り越えられないようでは、ベアトリクスの足元に近寄ることすらできまい。
オフィーリアは、羞恥に顔を染めながらも決意をあらたにしたが、それと同時に、自分の心が久々に軽くなっていることを自覚した。
感情のままに衝動を爆発させてしまった行為自体は、もちろん恥ずべきことではある。
しかし、どうやらそのとき、心に溜まった澱も一緒にまとめて放出してしまったらしく、久々に心が浄化された気分であったのだ。
さらにオフィーリアの心を軽くさせる報が、彼女の耳に届けられた。
それは、マルケス男爵令嬢シャルロットが行方知れずになったというものであった。その報は、オフィーリアに久々の深い満足感をもたらし、彼女の足取りを軽やかなものにした。
彼女は晴れやかな表情を浮かべ、侍女の名を呼んだ。
「お、お呼びでございますか……?」
「今朝はどうしたの、デミシェーラ? なぜ起こしに来てくれなかったの?」
「あの……それは……」
いつもはおしゃべりな侍女は、別人のようにオドオドとオフィーリアの顔色を窺っている。
(……自業自得とはいえ、すべてが元通りに修復されるには、少しばかり時間がかかりそうですわね)
出かかったため息を飲み込んで、オフィーリアは無理やり笑顔を作って見せた。
「怒ってるわけではないのよ? そう……あなたにも謝らなければいけなかったわね。ごめんなさい」
そう言って、軽く頭を下げてみせた。
「いえ……いいんです、そんなことは……」
「そう? では、理由は口では言えないこと?」
「いえ、いえ……」
要領を得ない侍女の受け答えに、オフィーリアの忍耐にひびが入りだした。
せっかく久しぶりに気分が良かったのに! との不満の微粒子が漂いだし、その一部が恐縮しきって立ちすくむ侍女に向かう。
自分に向かった苛立ちの空気を感じ取ったらしい侍女は、あわてて取り繕うように口を開き、言い渡されていた伝言をオフィーリアに伝えた。
「本日はヴィンダリア侯爵夫人のレッスンは中止ということですので……代わりに、準備が整ったら大広間に顔を出すようにと……」
それは質問の答えからは微妙に外れていたが、そんなことを気にする余裕は一介の侍女であるデミシェーラにはなかった。
オフィーリアもそのことには触れず、伝えられた指示の奇妙さに首をひねった。
「大広間に? 今日は何の行事もなかったはずですが……それに準備とは? ねぇデミシェーラ。あなたは何も聞いていないの?」
聞かれた侍女は黙って首を横に振るだけであった。
埒が明かないと判断したオフィーリアは、当事者に直接、事情を聞いたほうが早いだろうと、そのまま大広間に向かうことにした。
デミシェーラはその後姿を、形容し難い複雑な感情のこもった目で見送った。
* * *
(――この光景……わたくしは白昼夢でもみているのかしら?)
オフィーリアは自問し、目の前の奇妙な世界から逃げるように、まぶたをそっと閉じてみた。
深呼吸をして、ふたたび開いてみても、やはり瞳に映る情景は変わらなかった。
(――やはり、夢ではなかったのね……)
「どこを見ている? 申し開きがあるのなら、弁明の機会ぐらいは与えるぞ?」
居丈高で尊大な男の声が、無遠慮に降りかかる。
少し太り気味のだらしない体躯をした男性の姿が、ふとオフィーリアの記憶層を刺激した。
たしか、刑部卿のアルマン伯爵だったはず。
実家でも夜会でも何度か顔を合わせたことがある。
ただし、オフィーリアの記憶にあるアルマン伯爵は、いつも愛想笑いを浮かべて蛙のような姿勢で父母に平身低頭していた姿しか残っていない。
(なぜ伯爵が、わたくしにこんな非礼な態度をとっているの? これはいったい、何が起こっているというの?)
オフィーリアは、いまの自分の境遇が真剣に理解できていなかった。
「アルマン伯爵! これはいったいなにごとですか!? なぜわたくしは皆様方の前に呼ばれたのです?」
「ヴェントブルク公爵令嬢オフィーリア! その答えはあなたがよく知っているはずです!」
「わかるはずもありません! これはいったいなんなのです!」
オフィーリアはずっと社交界の華として褒めそやされる経験しか知らなかった。
自らが糾弾される立場に立ったのは、これが初めての体験であった。
しかし、敵意の視線に囲まれるなかであっても、オフィーリアは比較的楽観的でいられた。
彼女の窮地を王妃ベアトリクスが見過ごすはずがないからだ。
言葉を継ごうとしたアルマン伯爵を制し、人垣を掻き分けて踏み出してきたのは、オフィーリアもよく知る中肉中背の学生の姿であった。
「本当にわかりませんか? オフィーリア様?」
彼こそがローデリヒとシャルロットの側で、常に見え隠れしていた影の正体!
ついにその姿を現した〝見えざる敵〞の登場に、オフィーリアの敵愾心が盛大に燃え上がった。
(やっと姿を現したのね。いつもこそこそと見えないところで何事かを企んで! 目障りといったらなかったわ!)
しかし、表に出てきたなら、そこはオフィーリアの土俵である。公爵令嬢たる自分がこんな卑怯者に負けるはずもない。
そう考え、彼女は強気で目の前にいる、遅れてきた敵対者の糾弾を始めた。
「オットー! これはあなたが仕組んだことなのね!?」
「仕組んだとは人聞きの悪い。あなたがしでかしたことでしょうに」
いきなりの言い掛かりに近い告発に、オットーはたまらず苦笑を浮かべた。
もっともすぐに場に相応しい真剣な表情に変わり、オフィーリアの問題行動を、証言と証拠を提示ながら淡々と列挙していく。
それは、男爵令嬢シャルロットに対する嫌がらせの数々であった。
ほんの取るに足らないものがほとんどであったが、それでも積み重なっていけば心象は相当悪化する。
(――オットー! よくもそんなでまかせを積み重ねてくれたわね!)
だが、多少誇張してあるとはいえ、彼の証言はすべて事実を基にしている。
具体性に欠けるオフィーリアの反論は説得力を欠き、聴衆の心を動かすほどの力をまるで持たなかった。
そして、オフィーリアへの同情心が薄れたところにとどめを刺したのが、今回の襲撃事件なのであった。
オットーは証言の最後に、重要な問いかけをもってオフィーリアへの告発にかえた。
「あなたはローデリヒ殿下がお描きになった絵画をご覧になったことがありますか? 殿下が作られた詩をお読みになられたことがありますか? ローデリヒ様と一人の男と女として向き合ったことがありますか?
人として相手を尊重し、敬意を払う。当然のことです。あなたはそんなことすら、今までしてこなかったのではありませんか?
シャルロット様が殿下のお気持ちを射止められたのは、彼女が肩書きを取り外した、裸のローデリヒ様を受け入れたからです。
王族の衣を脱いだ、一個人としてのローデリヒ様は、感受性が高く、諍いを好まず、ただ美しいものを心から愛する――そんな人物なのですよ。
シャルロット様も同様です。たとえそれが外見の美しさだけであろうとも、打算も下心もなく、純粋に自分を褒めてくれる、求めてくれる、愛してくれる、そんな男性だからこそ惹きつけられたのです。
あなたはどうです? 王族の責務? 王室の権威? 王家の伝統? そこに人間性はあるのでしょうか?
あなたが常々口にしている、〝王家〞という虚像、〝血統〞という幻想。そこに中身はない。
あなたが婚姻を結ぼうとしていたのは、王家という器ではなく、ローデリヒという個人なのですよ」
オットーの指摘が一段落したところで、クラウスが後を引き継いだ。さらに激しい糾弾がオフィーリアの上に降り注いだため、オットーの問題発言は聞き流された。
「人を人とも思わず、相手の嗜好を受け入れようともせず、己の独りよがりな正義を押し付け、地位を利用して無関係な者を巻き込み、気に入らない者を陥れ、あげくに排除しようとする! なんと貴族の風上にも置けない、見下げ果てた性根だ!
あなたの振る舞いは、人としても女性としても貴族としても、最低の屑としか言えまい! 恥を知るがいい!」
「――っ! ――っ‼」
追い詰められたオフィーリアがとった態度は、かつて冤罪によってつるし上げられても毅然とした態度をとり続けたアーデルハイドのものより、何十倍も見苦しいものであった。
憎悪に醜く歪んだ顔で、自分を責めたてる者たちの排除を、声のかぎりに絶叫した。
事実を持って反論するでもなく、正論を語るでもなく、実家の権威を持ち出して金切り声を上げ、自らの非を相手に押し付けようとしたのだ。
「――だれか! この男を! この男たちを黙らせて! この男たちの口を塞ぎなさい! のどを潰しなさい! 心臓を突き刺しなさい!
公爵家の娘にこんな暴言を吐いたのです! 許されて良いはずがないでしょう!? 何をしているの!? 早く! 早くあの男たちを捕まえて!」
髪を振り乱し、甲高い声でまくし立てるオフィーリアに、さりげなく一人の男が近づいた。
彼は落ち着き払った所作で一礼し、無様に喚きたてる人の形をした騒音発生装置に向けて、残酷な一言を言い放った。
「残念ながら申し上げますが、あなたはもう公爵家の娘ではありません」
見苦しい狂態を見せる令嬢に向けたその目は、庭園に湧いた害虫でも見るような、ひどく冷たいものであった。
オフィーリアは目を見開き、発言の主が誰かを確かめて、絶望の彫像と化した。
「う……うそでしょう? ステュアート? それはひどい冗談だわ……」
このステュアートと呼ばれた男こそヴェントブルク公爵家の家令であり、公爵家のあらゆる権限を掌握している男であった。彼の発言が、そのまま公爵家の意思となることは、オフィーリアならずとも知る者は多い。
つまり、ヴェントブルク公爵の名代としてこの場に立っている彼が、それを口に出してしまった瞬間に、彼女の未来への道は閉ざされたに等しいのだ。
彼は、一筋の感情の揺らぎも見せることなく、まったく熱のこもらない声でオフィーリアのすがるような視線を撥ねつけた。
「冗談ではありません。さきほど公爵家から正式な発表がありました。マルケス男爵令嬢が襲われる前日を以って、あなたの存在を係累から抹消いたしました。今のあなたは、ただの村娘と変わりありません」
「なっ……な、なぜ……!?」
「ご自身の胸に聞いてみることですな」
冷淡にあしらうヴェントブルク公爵家の家令の返答が、元ヴェントブルク公爵令嬢の肺腑を貫いた。
彼女がかろうじて理性を保っていられたのは、救世主の存在を信じていたからに他ならない。
まだ彼女には、よって立つ拠り所が、最後にひとつだけ残されていた。
そして、うずくまって胸を押さえ、浅い呼吸を繰りかえすオフィーリアの耳に、待ち望んだ福音が鳴り響く音が届いた。
彼女の女神が、人身御供として捧げられそうになっていた彼女に救いの手を差し伸べるべく、この偽りの裁きの場に、御身を降臨あそばされたのだ。
「――これはいったい、何事なの!?」
鋭く、威圧的な声がホールに響き渡る。王妃ベアトリクスの登場であった。




