決意
第二章三十一 「ありがとう」
伊勢は、信玄と向かい合わせに座っていた。
信玄は、いつも通り、優しい眼差で、注文を取りに来た女性に笑顔でコーヒーを注文する。
「あの・・信玄様。今日は大切なお話があります」
信玄は口元を引きつらせてふっと鼻で笑った。
「伊勢・・謙信のことが忘れられないか?」
信玄の言葉に体が硬直してしまう。この人は、どんな時も私に優しい。なのに・・裏切る心が痛む。
「・・・ごめんなさい。私は謙信様のことしか考えられません。だから・・こんな気持ちで結婚などできません」
「あいつは・・命をかけてお前を守った。・・生き残ったお前は、これから一生、謙信を思って生きるというのか・・」
信玄の目をまっすぐに見据え、伊勢は静かに頷く。
大粒の涙が溢れだし、頬を濡らしてはいるが、潤んだ瞳からは、固い決意が見受けられる。
信玄は、それ以上、かける言葉もなく運ばれたコーヒーを静かにすする。
しばらく沈黙が続いた後、信玄はふたたび、ふっと鼻で笑うと、口角をあげて無理やり作った笑顔で伊勢に優しく語りかける。
「わかった、伊勢。そんなに泣くな。何かあったらいつでも相談に乗るからな」
「・・信玄様。ありがとうございます」
伊勢と信玄の婚約は解消された。
-天室光育和尚の庵-
「和尚様はいらっしゃいますか」
馬で野駆けに行く途中、伊勢は和尚のもとを尋ねる。
「伊勢殿、さぁ・・お入りなさい」
茶室に通された伊勢は、和尚の入れたお茶を飲むとフゥーっ大きなため息をする。
「伊勢殿、心の霧が晴れましたのか」
「和尚様には、お見通しなのですね。これから・・私は謙信様だけを思いながら生きていくと決めました。たとえ、謙信様がもうこの世にいないとしても、私の心は変わりません。もう、心に嘘をついて生きるのはやめました。今日は、そのご報告をしに来たのです」
「伊勢殿は、強くなりましたな。心が晴れ晴れとしていて、一点の曇りもない」
和尚に微笑みながら、うなずく伊勢に、清々しさを感じる。
天室光育に報告をしたのち、伊勢は愛馬・天馬にまたがり、小高い丘の方へ向かって走り去る。
小高い丘の上には、たくさんの花が咲いている。
天馬を休ませ花を摘む伊勢。馬を走らせるには、両手で手綱を握らなければならない。
「花を持ち帰るのはむずかしいわね。そうだ・・」
摘み取った花を冠にする伊勢。
無我夢中で花を摘んでいる。
黄金色に輝く馬が走ってくることにも気づかずに・・・
-天室光育の庵-
「和尚はいるか」
一人の男が、庵へ入ってくる。
「やっと・・帰って来たのですな謙信殿」
天室光育は、謙信を迎え入れる。
「和尚には見えていたのか」
謙信は、和尚の言葉に驚きながらも仏堂に座り、しっかりと観音菩薩の前で手を合わせる。
祈りを終えた謙信を前に、和尚が口を開く
「無事に戻られてなによりです。今生で因縁の鎖に縛られる心配はもうありませんぞ。謙信殿・・・・・先ほど伊勢殿もここへ来ましたぞ。信玄殿との婚約を解消され、謙信殿だけを思って生きていくと決めたそうです。・・さぁ、祈り終わったら、すぐに伊勢殿を追って行きなされ」
「伊勢が来たのか」
謙信は、和尚の言葉を聞くと、すぐに立ち上がり、駆け足で庵を走り抜けていく。
黄金色に輝く愛馬・栓に飛び乗り、伊勢の元へ・・・。
天室光育は、二つの観音菩薩像に手を合わせ、感謝の言葉を唱えていた。




