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残された手紙

第二章二十九 「戯月(たわむれのつき)是又(これまた)夢中(ゆめなか)(ごと)し。」


「ここはどこ?」


伊勢が目を覚ましたのは、病室の中だった。


「おぉっ・・・お嬢様。よかった。目を覚まされたのですね」


ベッドの横で付き添っていたふくの目から涙が溢れだす。


「お嬢様は、船から落ちて・・何日も目覚めることなくずっと眠っていたのですよ。幸い、応急処置が早かったので、体に異常はないと言われましたが、助けられた船の中でも目覚めることなく、ここに運ばれてきたのです。もう・・このまま目を覚まさないのではと、心配していたのですよ」



(かす)む頭で、いったい何が起こったかを思い出そうとする。

たしか・・絶さんに押され、海に落ちたんだわ。



海に沈みながらキラキラと輝く陽の光が見えて・・・・

誰かが私の手を引き寄せた・・・・あれは・・夢だったのかしら・・


あの幻は・・・いったい・・・


抱きしめられて・・・くちづけされた・・


優しく私に息を吹き込んでくれた人・・・


・・あの人は、謙信様だったような・・?



「ふく・・私に何が起こったの? ・・・謙信様は? 」


ふくの表情がこわばり、すぐに答えは返ってこない。


「ふく・・お願い・・本当のことを教えて!」




深いため息のあと・・ふくは覚悟を決めて話し出す。


「・・・わかりました。いつかはお耳に入ることですので、正直にお話しします。お嬢様は、船から落ちて海に流されました。沈んで行くお嬢様を助けるため同じ船に乗り合わせていた謙信様が、何の迷いもなく海に飛びこんだのです。謙信様は、深い海の底からお嬢様を見つけだし引き上げると、救助に来た小舟にお嬢様の身を託しました。ですが・・・ご自分は力尽きてしまい・・そのまま流され・・・皆が懸命に探したのですが、見つけることが出来ず・・・・」





「嘘よ。ふく・・嘘だと言って!」


悲しい事実を知らされて、泣き崩れる伊勢。

心がズタズタに引き裂かれるように胸が苦しい。


私の命を救うために、謙信様が犠牲になるなんて・・

私も死んでしまいたい。


その日から、伊勢の笑顔は消えてしまう。





悲しみに伏せる伊勢をみて、医師は自宅での療養を勧めた。

今の伊勢には、心落ち着く家族との時間が必要だと考えたからだ。


家に帰ると、家族みなが暖かく伊勢を迎え入れる。

アメリカでの様子を尋ねることはあっても、その他のことは、一切口にせず、伊勢を気づかっている。


信玄からは、毎日お見舞いの花が届くが、面会は控えるようにと父・信由が頼んでいた。

伊勢の気持ちを乱れさせたくないとの思いからだ。



謙信は自己を犠牲にして伊勢を助けた。

伊勢の様子を見ていると、心はまだ謙信にあることくらい・・家族にはわかっていた。

こんな中で、信玄との結婚を進めることは、伊勢を追いやることになる。


退院したとはいえ、食事も喉を通らず、毎日泣き暮らしている。





そんなある日、伊勢は思い出したように、ひとりでそっと外出の支度をする。

向かうは天室光育のもとである。






天室光育和尚(てんしつこういくおしょう)の庵ー



伊勢は庵の門前に立つ。


「和尚様、いらっしゃいますか」


伊勢の声を聞いた和尚は、すぐに門を開けてくれる。

「これは伊勢殿、よくきてくれましたな」

天室光育は、伊勢を優しく迎え入れる。



伊勢の瞳は、真っ赤になっており、ずっと何日も泣いていたことが一目でわかる。

その真っ赤な瞳からは、いまにも涙が溢れ出そうである。




「和尚様、謙信様が・・・」

部屋に通されると同時に・・・事の成り行きを伝える伊勢。


「謙信殿がいまだ見つからないとは、なんと悲しい事でございましよう。お気を確かにしっかりせねばなりませんよ」


「私を助けるために謙信様は海に飛び込んだのです。謙信様ではなく、私があのまま消えてしまえばよかった」

嗚咽しながら自分を責める。




「伊勢殿。謙信殿から手紙を預かっておりますぞ。・・・さぁ。これが伊勢殿宛の手紙です」

丁寧に折りたたまれた二通の手紙のうちの一通が手渡される。


「手紙? 謙信様はいつ手紙を書かれたのですか」


「あの竜巻で絶殿が怪我をした時、謙信殿は悩んでここに来られたのです。謙信殿は、いつか伊勢殿がここに来た時に渡して欲しいとこの手紙を置いていったのですぞ」


「和尚様、今ここで謙信様からの手紙を読んでもよろしいのですか」


「勿論です。それが、謙信殿の願いでもあります」


伊勢は丁寧に折られた手紙を広げ、読み始めた。





ー伊勢ー


俺は、前世の記憶を持ってこの世に生きている。

前世での因縁が元でお前には悲しい思いをさせてしまった。

すまない。


前世の記憶の中で一つだけ変わらぬものがある。

それは、お前への愛だ。


たとえ、夫婦になれなくとも、俺の思いは変わらない。

伊勢、生きろ。そして、幸せになれ。




謙信の手紙は、短いながらも伊勢の心には充分なほどの愛が込められていた。

手紙の文字が涙で歪んでみえる。


「伊勢殿、私宛の手紙も今ここで読むようにと言われておりますので、お聞きなされ」



ー天室光育和尚ー


この手紙を読んでいるということは、きっと何か・ただならぬ事が起こっているのだろう。

伊勢と和尚が最初に会ったあの時、和尚には、すべて見えていたのかもしれない。


前世からの記憶を持つ俺は、まるでこの現世が夢の中にいるようなのだ。

いや・・前世の中の俺が、夢なのかもしれない。


前世や未来が見える和尚も同じように、いつも夢の中にいる感覚なのだと・・今の俺にはわかる。


和尚は俺がまだ小さかった頃、諸行無常(しょぎょうむじよう)、すなわち世の中のあらゆるものは一定ではなく、絶えず変化し続けていると教えてくれた。

だかな和尚・・・俺には一つだけ変わらぬものがあるぞ。


現世という夢の中にいる俺は、いつ、また前世という現実の世界に戻るかわからない。

あの世とこの世・・・まるで夢の中を行ったり来たりする幻の空間を俺は生きているのかもしれない。


和尚、伊勢を頼む。





和尚は、謙信の手紙を読み終えると「フゥー」と一つ深いため息をついた。

謙信殿は、真理を見つけたのですな。


「伊勢殿、強く生きていかねばなりませんぞ。それが謙信殿の願いなのですから」


伊勢は、和尚の目をしっかり見て、心から沸き立つ思いを尋ねる

「和尚様・・私は、心に嘘をつかずに生きても良いのでしょうか?」


和尚は、少し間をおいて慎重に答える。

「過去を追ってはならない、未来を待ってはならない。ただ現在の一瞬だけを、強く生きねばならない。伊勢殿、苦しみを消すには、自分自身を変えるしかないのですぞ」


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