新たな決意
『風の音を まつさきたてゝ さゝの葉の みやまもそよに ゆふたちの空』
第二章 二十三 「心に吹く風」
無情にも月日だけは流れていく。
夏も終わろうとしていたある日、謙信は天室光育和尚のもとを訪ねる。
過去からの呪縛とは言え、伊勢への思いを引き裂かれてしまった。
荒んでいく心を前世の記憶がかろうじて引き止める。
このままでは、心が廃れてしまう。
「和尚・・・うまい酒を持って来た。一緒にどうだ」
「謙信殿、お久しぶりですな。さぁ・・どうぞ、どうぞ・・中にお入りなさい。もうすぐ雨が降りそうですぞ」
空は今にも夕立が降り出しそうな気配を見せている。
ヒューと庭の木々に吹く風は、どこか哀れで、もの寂しさを感じさせながら吹き抜けていく。
まるで謙信の心が伝わっているような空模様だ。
酒を盃に注ぎ、謙信は和尚にすべてを打ち明けた。
「和尚・・・俺はどうすればよいのだ」
「謙信殿、人は誰もが因果の中をさまよい、答えを見つけるために生まれてくるのです。前世の記憶を持って、現世を生きている謙信殿には、その答えが必ずや見つかるはずです。いや・・恐らく、答えを見つけるためにこの現世に来たのかも知れませぬ。一切皆苦すなわち、人生は思い通りにならない・諸法無我、すべては繋がりの中で変化しているということを忘れてはなりませぬぞ」
「そうか・・。和尚にはわかるのだな。・・・和尚・・頼みがある。ここに二通の手紙がある。一つは和尚に、そしてもう一通は伊勢にだ。俺は和尚も知っての通り、事故とは言え、絶に怪我をさせてしまった。俺の気持ちは何も変わっていないのだが、絶との約束で伊勢には何も話せない。俺の思いは愚か、今の状況を伝えることすら出来ない。絶は俺をずっと待っていたと言った。絶の思いもまた過去世から続いていたのかもしれない。これも俺の因果なのだろう。何も知らない伊勢を深く傷つけてしまった。伊勢がここに訪ねて来ることなどないかもしれない。だが、もし・・万が一、伊勢が訪ねて来たら、この手紙を渡してほしい」
「謙信殿、この手紙を伊勢殿が訪ねて来た時に渡せばよいのですな」
「頼む」
謙信は、和尚に二通の手紙を手渡す。
「和尚への手紙は、伊勢が来た時に読んでくれ」
「確かに・・・受け取りましたぞ。して、謙信殿はこれからどうなさるおつもりですか?」
手紙を受け取った和尚が心配顔で謙信に尋ねる。
「和尚・・絶との約束を果たすことしか、今の俺には術がない。ただ・・希望だけは失わないように生きていくつもりだ」
なみなみと注がれた盃を一気に飲み干しながら謙信が答える。
「謙信殿、二つの観音菩薩を覚えておりますかな。伊勢殿が前世で命を落とされた時、伊勢殿の代わりとして渡した観音菩薩と七才で寺に預けられ悲しみにくれて泣いていた時、母上の身代わりにとお渡しした・・・二体の観音菩薩を」
「あぁ、はっきりと覚えている。春日山城に別棟を建て、毎日祈りを捧げていたものだ。観音菩薩に悲しみも愛しい思いもすべて祈ったのだ」
「その二つの観音菩薩がこの庵に代々伝わっており、私が毎日祈りを捧げているのをご存知かな」
「和尚・・。そうなのか・・・。和尚は刻を超えてもなお、観音菩薩に祈ってくれていたというのか」
「自暴自棄になってはなりませんぞ。祈りは、必ず叶いますぞ。謙信殿」
二人は、静かに盃を飲み交わした。




