謙信
第1章 四 「初恋」
「殿・・・どちらに行かれていたのですか・・・勝手に城から抜け出すなんて・・心配いたしましたぞ」
「そうか・・悪かったな・・影持」
いつもなら不機嫌に返事すらしたがらない謙信が、笑いながら甘粕景持( あまかすかげもち)に答えている。
謙信がふっとどこかに雲隠れするのは今に始まった事ではない。
戦国の世の無情とはいえ、身内のいざこざに傷心していた謙信にとって、馬での遠乗りは気持ちを紛らわす唯一の手段であることは皆が知っていた。
それにしても・・・お一人で・・・困ったお方だ。
「何か良いことでもあったのですか?」
主君・謙信の性格をよく知る影持は謙信の変化に驚きながら尋ねてみる。
「馬に乗って北条の所領となった平井城下の偵察に行って来た。」
「なんと・・敵方に足を運んでいたとは・・・」言葉を失う。
「影持・・天女を見たぞ」
「天女とは・・これまた殿の口から出たことのないお言葉で・・」
今まで、どんな美しい女人にも心をなびかせたことのない謙信の言葉にただ・・ただ驚く。
謙信は、城の重鎮たちを集めた。
「よいか・・皆の者・・我が軍は平井城を攻める。だが、決して平井金山城に手を出してはならぬ。平井城を落とせば、金山城主の千葉采女は、降参してくるだろう。千葉は北条方とは言うものの、もとは桓武天皇の血を引く同じ出自だ。千葉は頼朝の時代には権勢を振るっていたが、今は弱い立場。必ずや我が軍になびいてくる。決して攻め入ってはならぬ。」
今までの謙信では考えられない命令である。
ほどなくして・・・
謙信の軍によって平井城の攻撃が始まろうとしていた矢先、平井金山城主・千葉采女は、この危機を悟り、一族滅亡を回避するため謙信軍の配下に加わりたいと降参を申し出て来た。
「よろしい。千葉采女を我が軍に受け入れよう。ただし・・一つだけ条件がある。伊勢姫を春日城にて預かると・・伝えろ」
「かしこまりました」
謙信の口から出た言葉に・・・皆が驚き・・ざわめいた。
-平井金山城-
「こんなことになるなんて・・・」
母・乳母のふくをはじめ年若い妹たちがすすり泣いている。
「今しがた届いた手紙に謙信公が伊勢姫を所望していると書かれている。謙信公は女嫌いで有名な方と聞いていたのに、なぜこのような仕打ちをなさるのかわかりません。」
父・采女は、黙って考え込み・・口を切る。
「伊勢姫が他の有力武将達から所望されていると・・どこからか耳にしたのだろう。伊勢姫を人質として利用しようとしているのかもしれない。」
「おいたわしい姫様・・・」ふくがさらに嘆く。
「姉上・・直胤が、必ず姉上を助けに参ります。」
目にいっぱい涙を溜めた弟・直胤が叫んだ。
父の話を聞いていた私は、覚悟を決める。
「わたくし・・春日山城へ行きます。いざとなったらこの短剣で謙信公を道連れにわたくしの命を千葉の一族のために捧げましょう。」
「姫様・・・ふくもお伴します。姫様をこのふくがお守りいたします。」
一刻を争う事態に、伊勢は乳母ふくと共に春日山城に向かうことになる。
-春日山城-
「そうか・・伊勢姫が向かっているのだな。」
そわそわしている謙信を、皆が見守る。
こんな殿をみたことがない。
柿崎 影家は、信じられない様子で謙信に尋ねる。
「殿、伊勢姫をどのように利用されるおつもりですか? 人質に情けは無用。武田信玄が伊勢姫をひときわ熱心に所望していたと聞き伝わっています。伊勢姫を武田との交渉に使ってはいかがでしょう?」
「影家・・何を言っている。皆の者に申し伝えよ。伊勢姫を丁重に扱うよう。決して粗末に扱ってはならぬ」
影家の胸に一抹の不安がこの時芽生えていた。
第1章五 「頑なに閉ざされた心」
伊勢姫と乳母・ふくが春日山城に到着したのは、平井金山城を経ってちょうど1週間目の事だった。
「伊勢姫・・お待ちしておりました。」直江 景綱はじめ、影家、影持らの重鎮が出迎えた。
伊勢は、この状況が飲み込めずにいた。
「ふく・・人質のわたくしを謙信公はなぜこのように盛大に出迎えるのですか?」
「お美しい姫様の心を掴みたいのでしょう。女嫌いとは世間の声。本当は女好きな野蛮者かもしれません。姫様・・・決して油断なさらぬように。」
ふくは、私の心を知っている。もしものことがあったなら、この命など・・惜しくないことを。
かご から降りて来た伊勢姫・・
伊勢姫の噂は聞いたことがあるが、なんと美しい姫・・
影持は、この時・・以前、謙信が言い放った天女の意味を知る。
「伊勢姫・・・殿がお待ちです。」
伊勢は、まだ見たこともない・・軍神と呼ばれる恐ろしい武将のもとへ来た事実を思い知り身震いする。
広間に通され、頭を下げて謙信公を待つ。
「足はよくなったか? 久しぶりだな。お転婆姫」
どこかで聞いたことのある声・・
顔をあげると・・そこには・・・・龍と呼んだあの時の武将が座っていた。
「何という間抜けな顔をしている。今日も馬に乗ってやって来たのか?」
笑いながら問いかける。
「あなたが謙信様なのですか?」
「あの時は、敵のお前に素性を明かす訳にはいかなかった。もし俺が謙信と知っていたらお前は俺の助けを拒んだだろう」
確かに・・その通りだ。敵将に助けを借りるくらいなら死を選んでいただろう。
「でも・・なぜ?」
「あの時、言ったはずだ。また会おうと。守れないことは口にしない主義だ。ここでは何も心配いらない。長旅で疲れただろう。今日のところは、ゆっくり休むと良い。」
謙信は、伊勢姫の顔を一目見てそう言い放つとさっさと席を後にした。
「謙信様・・・?!」
頭の中がぐちゃぐちゃすぎて・・整理がつかない。
私は、謙信様の言われた通り、長旅で疲れた体を休ませることにした。
春日山城内では、美しき伊勢姫に誰もが目を奪われ、噂した。
女嫌いの我らが軍神・謙信殿が・・伊勢姫に心奪われている・・と