絶姫
第一章二十一 「変わらぬ愛」
謙信は祈ることで、なんとか心の平穏を保っていた。
しかし・・戦国の世は謙信に静かな祈りの時間を与えてはくれない。
天文二十二年(1553年)九月。従五位下弾正少弼に叙任のため、五十数名を引き連れ、謙信は初めて上洛することとなる。
「謙信殿。関白・近衛前久殿がお待ちでございます。こちらへ・・」
関白・ 近衛前久の屋敷では謙信の上洛をねぎらう為、酒の席を設けていた。
近衛前久は、誠実なだけでなく、義に熱く、戦にも強い謙信に心惹かれていた。
近衛前久は、天皇とも繋がりが深く、己も関わりいづれの日か世の中を変えていきたいと思っていた。
それには、強い武将と同盟を組み、公家・武士共にざわついたもの達を沈める必要がある。
噂にには聞いていたが、やはり・・任せられるのはこの男しかいない・・・直感するのである。
「さぁ。謙信殿。都でも特等の酒を用意したので・・今宵は心ゆくまで飲んでくだされ」
その時・・・一人の可愛らしい娘が立ち上がり・・謙信の前にくる。
「・・・あの。謙信様・・・わたくしがおつぎいたします」
近衛前久のそばに座っていた妹・絶姫である。
「なんと・・・絶姫自らが、謙信殿に酌をすると云うのか・・・これは・・謙信殿。絶姫はそなたを気に入ったようですぞ」
「もぅ・・兄上さま・・何をおっしゃるのです。わたくし・・そんなつもりでは・・」
顔を真っ赤にしながら絶姫が恥じらう。
謙信は・・ちらっと絶姫の顔をみる。
公家の娘らしく品のある美しい顔立ちをした絶姫は、謙信の目線を感じ微笑んでいる
絶姫は一目で謙信を気に入ってしまう。
「・・・どうぞ」
絶姫に注いでもらった酒は、本当に旨い酒で、さすがは京の都だけあり、洗練された味がする。
「・・・旨い酒だ」
謙信は勧められるまま酒を飲む。
「謙信殿、この絶姫は舞が得意なのです。一つお披露目させましょう。さぁ・・絶姫・・謙信殿に舞を披露しなさい」
近衛前久は、絶姫に舞を踊るように指図する。
「はい」
絶姫は、頬を赤らめながら謙信に美しい舞を披露する。
舞を踊る絶姫は、とても美しく、優美で愛らしい。
謙信も、絶姫の美しい舞に、目を離せずじっと見つめている。
絶姫は、美しく舞い終えると、屈託なく謙信の目をじっと見てお辞儀する。
(・・もし伊勢と出会う前にこの愛らしい姫と出会っていたら・・・恋に落ちていたかもしれない・・)
ふと・・そんなことを思っていると・・
「そういえば・・謙信殿は、琵琶が得意だと聞いておりますが、ひとつお聞かせ願えませんかのう」
近衛前久が謙信に尋ねる。
「いえいえ・・琵琶は習い始めたばかりですので・・披露など」
「謙信様・・良いではありませんか・・わたくしも謙信様の琵琶の音を聞いてみたいですわ」
絶姫も謙信に可愛らしくお願いする。
謙信は、伊勢が亡くなった後、悲しみを紛らわすために琵琶を習い始めた。伊勢の大好きだった源氏物語の中で弾かれる琵琶の悲しい音色に誘われたのだ。あれから、謙信は源氏物語を読みはじめ、伊勢と過ごした楽しいあの時を感じる日々を送っていた。
それでは・・・
「ほんの触りだけ・・・」
謙信の琵琶の音は、どこか悲しげであるが優雅に奏でられる。
「謙信様・・素敵な音色でしたわ」
うっとりとした目で絶姫が謙信を見つめる。
頬を染めて潤んだ目をしている絶姫は、謙信に心奪われている。
兄・近衛前久は、妹の絶姫の様子を見て・・・密かに画策していた話をする。
謙信は、一杯・・・また一杯と絶姫に勧められるまま・・・盃をあけていく。
「謙信殿は、お酒がつようございますな。・・・ところで・・・謙信殿。そなた・・そろそろ身を固めても良い頃ではないのですかな」
謙信は、近衛前久が何を言おうとしているのか・・・直感した。
(以前・・影家が絶姫という美しい公家の姫がいると話していたことを思い出す。あの時は、伊勢との婚儀のことで頭がいっぱいだったが、近衛前久殿の家臣から影家を通じて、何か打診されていたのかもしれない・・)
絶姫は、恥ずかしそうに、頬を染め下を向いている。
「いやいや、まだまだ未熟者。嫁取りなど考えにも及びません」
「そう申されるな。謙信殿とはこれからも懇意でありたいのだ。どうだ・・よく考えてはくれまいか・・」
絶姫をちらっと見た近衛前久は、
「この絶姫も・・そろそろ年頃なのでな」
「勿体無いお話・・・。しかし・・この謙信。人間的にもまだまだ未熟者。姫様には耐えられますまい」
「兄上様・・何を突然おっしゃるのです。謙信様が困っているではありませんか」
「絶姫様・・あなたはお美しく、賢いお方だ。私などでは不釣り合いとなりましょう」
謙信は、優しく絶姫に答える。
「謙信殿・・絶姫はまだ若い。急いではおりません。いつか・・時がきたら・・・ぜひ・・」
近衛前久は、なおも謙信に絶姫との話を進める。
「・・・」
無言の謙信に・・
「謙信様・・お兄様のたわ言などお聞きにならなくてよろしいのよ」
絶姫が悲しそうな顔で謙信に言い放つ。
「関白殿・・・かしこまりました。いつか時が来たならば・・」
絶姫は、謙信の返事に頬を染めている。
謙信の立場では、関白・近衛前久からの申し出を断ることなど許されない。
複雑な思いを残した、謙信初の上洛であった。




