ことづて
さて、さて。何から語り始めたものか。
気付けば私はここにいた。――こんな始め方はいかがだろう。
うむ。気に入った。それでは、これで行くとしよう。
では、改めて。
気付けば私はここにいた。
ここ、というのが具体的にどこを指すのかは分からない。まあ、致し方あるまい。何せ私は、いわゆる記憶喪失というやつなのだから。ここに降り立つ以前のことは、とんと思い出せずにいる。
だがまあ、それも一興。思い出せぬことは仕方あるまい。悩む暇があるのなら、ひとまず先へと進んでみるべきだろう。
周囲を見回す。
目の前には一筋の小川。両岸には遊歩道が設置されており、上流には小綺麗な朱塗りの橋が見て取れる。その歩道に沿うように植樹されている桜は、今は青々と葉を茂らせていた。どうやら花見の季節には遅すぎたようだ。春先に訪れていれば、それは見事な桜のアーチを目にすることが出来ただろう。所々に群生する赤は、曼珠沙華のものか。
ともあれ問題は、だ。上流へ行くか、下流へ行くか。
ふむ、ふむ。
しばしの黙考の末、私は上流へと向かうこととした。そこに深い意味などない。強いて言うなれば、先ほど目に映った橋が気になったというところだろう。
流れゆく水音に耳をすませ、咲き乱れる曼珠沙華の花を愛で、私はのんびりと歩を進める。
ところがだ。行けども行けども橋に着かない。私の目測が間違っていなければ、距離が縮まってすらいないのだ。
これは奇っ怪な。さてはてどうしたものか。
川辺に設置されていたベンチへとどっかと座り込み、私は善後策を模索する。
一つ。とりあえずの目標として橋への到達を設定した。
二つ。どれだけ歩いても橋への距離は縮まらない。
三つ。私には、どうしてもあの橋へと行かねばならない理由などない。
ふむ、ふむ。
以上から導き出される結論は。
別段、行かずともよい。
ま、そうなるわいな。
しかししかし、とするとどうしたものか。
――うむ。押して駄目なら引いてみよ、だ。上が駄目なら下へ行けばよい。
そう結論づけて立ち上がる。
新たに目指すは川下だ。
行くこと暫し。目の前には一本の糸。天から垂れ下がっているではないか。
これは所謂、蜘蛛の糸というものだろうか。なればここは、地獄の底か。それにしてはずいぶんと長閑なものだ。
ものは試しと掴んで引いてみる。すると糸は、あっけなく切れてしまうではないか。
だがまあ、それも当然だわのう。上を見れば桜の枝葉。そこから垂れる蜘蛛の糸。引けば切れるが道理というものだて。
世の中、そうそう面白くは出来ていないらしい。
期待外れに溜め息一つ。そしてさらに行くこと暫し。
目の前に現れたるは、先に目差した朱き橋。
さて、はて。これもまた奇っ怪な。
これまでまるで姿のなかったこの橋は、突然目の前に現れた。狸が化けでもしたのだろうか。だがまあ、せっかくなのだから渡ってみるとしようではないか。化かされたのなら、それもまた一興というものだて。
幸い橋は消えることなく在り続け、いざ征かんと私は一歩を踏み出さんとす。
と、不意に後ろ襟を引っ掴まれ引き戻されたではないか。
すわ何者かと振り向けば、そこに在るべき人影はなく、ただ曼珠沙華が揺れるのみ。
なんと奇っ怪な。
次こそはと念入りに背後を確認し、私は改めて一歩を踏み出す。
が、またしても私は引き戻された。
なればと今度は後ろ歩きで挑戦するも、橋側から突き飛ばされる始末。どうやら姿なき妨害者は、どうあっても私に橋を渡らせない心積もりらしい。
ふうむ。ここまで妨害されると、かえってどうしても渡りたくなるというものじゃ。
私は勢いをつけて走り出す。要するに、引かれる以上の強さで押し通ってしまえばいいのだ。
だが。姿なき妨害の主は、そんな私を易々と引き止め、地べたへと放り投げた。
むう、これでも駄目か。黙考すること暫し、私は新たな結論を下す。
渡れぬ橋なら、渡らなければ良い。
幸い川は、さして深くない。
靴を脱ぎ、靴下も脱ぐ。ズボンの裾をたくし上げ、いざ征かん、対岸へと。
もはや目的を取り違えている気もするが、こうなれば考えては負けだろう。
意気揚々と徒渡りを試みようとしたその時、
パタン
と、背後で何かが倒れるような物音を耳にする。
はっと身を起こし背後を見ると、仏壇に飾った妻の遺影が倒れていた。
そこで私は、一連の出来事を理解した。どうやら、夢を見ていたらしい。
遺影を起こしながら、内容を咀嚼する。
ふむ、ふむ。
写真の中で笑う妻へと目を向ける。
「どうやらまだ、そっちへは行くなということかいのう、ばあさんや」
肯定するように、起こしたばかりの遺影がパタン、と再び音を立てた。