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作者: 森田 享

   壁



 私は、この壁を見ていて、なぜだか分からないが、何とかしてこれを越えてみたいと思った。この壁を越えて、向こう側の世界を見てみたい、と考えるようになった。


 辺りは、いつの間にか、夕暮れ時になっている。落陽の射しているところは、燃えるように鮮やかな朱色に照り映えて、そうでないところも、ぼんやり黄金色に染まっている。

 この壁は、人が越えられない高さではない。幸運にも五体満足な成人男性ならば、壁にへばり付いて、よじ登れば何とか越えられるかも知れない。四角い岩を積み上げた石垣で、中世の城郭のような壁なので、手を掛けたり足場にする隙間はある。垂直ではなく、わずかな傾斜もあるから、登り切ることは不可能ではないだろう。しかし、半分以上登ったら、もうそれから先は、落下すれば死ぬかも知れない高さになる。

 ――そんな生命の危険を冒して登ったところで、壁の向こうに何があるのか?

 私は壁の向こうが、どうなっているのかを知らない。ただ、壁のこちら側には、何もないことが分かっている。このまま、壁に阻まれていることに私は失望しているので、壁を越えた向こう側へ期待を懸けるしかないのだ。

それでも実際に私が、まだ壁に手を掛けたことすらないのは、壁の向こう側に一体どんな世界が広がっているのか、まったく何の情報もなく、その謎は希望というよりも、むしろ不安に繋がっていたからであった。


 ――はたして命を懸けてまで、この壁に越えてみる価値があるだろうか。

 もし、手や足を一度も滑らすことなく、また岩が一度も剥がれたり崩れたりすることなく、この壁を登り切ることに成功したとしても、壁の向こう側が下りられるような状況ではないかも知れない。断崖のような絶壁であったり、大きな濠にでもなっているとしたら、まったく無駄になる。こちら側の高い壁を越えても、向こう側へは下りる手段がないということも充分あり得るし、登った意味が全くなかった時の絶望を考えると躊躇してしまう私がいた。

それと、壁を登ってみて、向こう側へ下りて行くにしろ、こちら側へ戻って来るにしろ、とにかくいずれの場合でも、壁から滑落でもして負傷したらどうなるのか、という懸念があった。誰も助けには来ないことだけは確実である。もうかなり長い間、この辺りでは人の気配を全く感じないし、何の物音も聞こえてはこない。日暮れ時だからではない。昼も夜も静寂そのものだった。


 この壁を見続けていれば当然、これはどこまで続いているのか、という疑問が浮かんでくる。

 壁は、北を背にしてそびえている。東の方角へは遥か遠くの森まで、壁面は、うねりながらずっと続いていて、樹海の奥に見えなくなっている。その深緑の海の向こうには、さらに恐ろしく険しい長大な山脈が連なっており、人の侵入を拒んでいるのは明らかである。反対に西の方角では広大な草原を、壁は緩やかな曲線を描きながらずっと続き、なだらかな丘の彼方へ霞んで、視界の限界に消えている。

 ――まさか、西の壁は、地の果てまでは続いていないだろう。

 私は迷わず西へ向かった。


壁が途切れるところまで歩くことを、私は決意していた。

どんな人々が、あるいは如何なる文明が、どれだけの年月と金額を費やして、この壁を築いたにしても、必ず終わりというか、もうこれ以上は壁を築く必要がない、というところへは辿り着けるだろう、と私は思っていた。

あるいは、もっと早く、途中に門のような、向こう側への入口があるかも知れないし、壁の上へ登る階段のようなものが造ってあるかも知れない。とにかく、ひたすら歩いて、そのいずれかを見つけて、そこから向こうの世界を、まず見てみよう。その方が、危険が少ないし、楽なのではないか、と私は考えていた。

そして私は、そのために百年くらいは歩くことも覚悟していた。


歩き続けて行くと壁の際の大地は草原から、やがて草木も生えない砂漠になった。足は砂に取られ重くて仕方がない。昼は容赦なく照りつける太陽の灼熱に、夜は冷たい砂嵐に苦しめられた。楽な道などないな、と嘆きながらも、私は壁をよじ登ることなく、ただひたすらに壁の際を百年は歩いたような気がする。

 自分の肉体に絶対的な自信を持てずにいることを私は認めたくはないが、しかし、体力の限界から、あるいは単純な手足の失態から、壁を登り切る前に、私が転落する可能性は非常に高い。壁を登り切っても、そこから地上に下りるときには、かなり体力を消耗しているし、高所の恐怖や焦りから消極的になって、私の肉体は絶対に不注意な失敗を犯す。自分のいつもの、これまでの人生で何度も繰り返してきた醜態の瞬間が脳裏に甦ってくる。

私は、壁からの落下の危険性や、そのような失敗を犯すに決まっている情けない自分から逃げるためにも、壁はいつか必ず途切れるはずだと信じて、ただ歩き続けた。


だが、壁の圧迫感を感じながら歩いていると、ますます自分の人生の、いつもの失敗や不遇ばかりを思い返すことになってしまう。壁がまるで、何事においても、自分の人生に常に付き纏ってきた不運な条件や惨めな結果の象徴のように感じられ、このまま、とぼとぼと歩いて行くことにも堪え難い心境になってくる。

――この壁の向こうでは、いったい何が私を待っているのか?

そこには、また私の人生に必定の不運が絡んでくるようにも思い、何となく暗い想像しかできない私がいた。

この壁が取り囲んでいるものとは何なのか。中は何かの領地なのだろうか。壁なのだから、何かを取り囲んでいることは間違いないが、それは主に内部を防衛する守備目的なのか、外部からの侵入を拒絶するための閉鎖的手段なのか。その中は私に、まったく関係のない他国の領内で、私は足を一歩も踏み入れることが許されないのだろうか。

いや、入れてはくれるが、私は捕らえられて、奴隷か何かにされてしまうかも知れない。いや、壁は、その中で何か禁忌な、あるいは邪悪なものを外部から隔離しているのではないか?

もし、その中が楽園のような場所だとしても、一度この壁を越えて向こう側へ入ったが最後、二度と再び壁の外へは出られないとしたら、それもまた、とても堪え難い境涯になるのではないか。私の楽観と悲観の葛藤は、いつまでも続いた。


 そんな私だから、高い壁を見上げながら、その際を歩き続けるしかなかった。

 宿命的な威圧感をも感じさせる壁は、歩いても歩いても、どこまでも続いている。途中、いくらか壁が低くなっているように見えるところもあり、ここなら登り易そうだ、私でもきっと登り切れるはずだ、という誘惑に心は動いたが、登ってみようかと思うだけで、私は決意できなかった。

――もし、この壁の向こうにも、また別の壁があるとしたら……。

そういうことも考慮しなければ、私は危険を冒して壁を越えようとは思えない人間なのだ。そして、もし壁の向こうにも同じような壁が、また立ち塞がっているような、そんなことがあったなら、私はもう、その次の壁を越える意欲は持てないかも知れない。眼の前のこの壁は、今ではもう私にとって人生の分岐点における決断を迫る存在となっていた。


しかし、思いもかけない時、人生が急に開けるように、私は壁を越えられたのだ。

あれこれ考え歩いているうちに突如として、壁の際の地面は登り坂になっていた。

大地が隆起しているように砂漠が盛り上がって、その大きな砂丘の頂きは、壁の高さにまで迫っている。いや、その膨大な砂の山は、高い壁をほとんど呑み込み、その向こう側へも砂の裾野を広げていた。私は、ただ砂の山を登って下りれば、そのまま訳もなく安心して壁の向こう側へ入って行けることになる。

今や私は歓喜して、無我夢中で砂の山を這い上がって行く。この何の懸念もない高揚感に心底、酔っている。砂の山の頂きに立ち上がるときの爽快さを思うと、それまでの苦悩は頭が空白になるほどに、きれいさっぱり忘れられたのだ。記憶にある限り、こんなにも興奮と感動に体が打ち震えたことはない。


ほとんど砂に埋もれている壁の上に立ち、私は目を開ける。見渡す限り、荒れ狂う暗い北の海と、鉛色に沈んでいる冬の空だった。壁を登ることを避けて、その際を歩きながら私は、そんな夢を見たのだと思う。


 どこまでも壁は続いているのだから、登って越えない限りは、依然として私は高い壁に阻まれたままでいるしかない。

そして私のような人間は、あと百年くらい歩き続けて、ようやくこの壁が何を取り囲んでいるのかが分かるかも知れないが。

しかし、それでは当然に、もう手遅れで、取り返しがつかない。


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