十一日目
「今日のお昼ご飯はオムライスでーす」
これは、カウンセリングを始めて十一日目の話だ。
彼女は白い部屋の片隅に設置されているキッチンに立ち、慣れた手つきでご飯をいためている。
こうして調理することは、彼女に許された数少ない趣味の一つだ。
「人に食べてもらえるって、作りがいがあっていいね」
「そうかもしれませんね」
基本的に僕のカウンセリングは一日2時間行われる。
時間に決まりはなく、早朝から深夜までバラバラだ。
そして、その時間帯が食事の時間帯と重なったときだけ、こうして彼女の料理をごちそうしてもらっている。
彼女と食事をするのは今日で三回目だ。
「ねえ、私たちって生きていくために食事をとるでしょ?」
彼女はIHのコンロから目を離さず、僕と会話を続ける。
「そうですね」
「そして、代謝によって、体は入れ替わっていくじゃん」
「そうですね」
「だいたい、6年あったら体はそっくり入れ替わるらしいんだけど、6年前の自分と今の自分は同じ人って言えるのかな?」
「……どういう意味ですか?」
「つまりは、極端な話をすれば、6年間で自分を構成していた原子が外に分散して、他から接種した別の原子が自分の体を構成するわけでしょ? でも、一般的には6年前の自分と今の自分は同じ人とされている。同じ人の定義って何にあるのかなって」
「同じ人の定義、ですか」
記憶か、人格か、肉体か、遺伝子か。
「君はどう思いますか?」
「うーん、そうだなぁ。6年前とは体が違うし、記憶も減ったり増えたりしてる。それに伴って多分人格も変わってる。でもやっぱり同じ人だと思うよ。教授は6年以上前から知ってるけど、やっぱり教授だもん」
「そうですね」
「でも、だったら転生前の私と転生後の私が同時にいる時間帯は、どっちが正しい私なんだろう?」
やはり、その話になるか。
その答えはあまりに難しい。
なぜなら、今までの人類史で培われてきた道徳の、どれにも当てはまらないことだからだ。
「…………」
いつものように、君はどう思うか? と、質問で返しても良かったが、彼女自身にそれを問うのはあまりにも酷だ。
同一人物だとしても、別の人物だとしても、今の彼女の否定になってしまう。
「……僕から見たら、同じ人ですね」
だから僕は、このように保守的で主観的な意見を言うしかない。
僕の仕事はあくまで、彼女の教師ではなく、研究所と結託して彼女を操ることでもなく、彼女のカウンセリングなのだから。
「そっかぁ。やっぱりこういうのは、誰が観測するかが大事だよね」
「そうかもしれませんね」
あくまで完全な肯定はしない。
肯定すれば、目の前にいる彼女の否定になるからだ。
「だったら、私から見たら別の人だ」
「そうかも、しれませんね」
やはり完全な肯定は出来ない。
そちらを肯定すれば、不老不死の否定であり、彼女の存在意義の否定になる。
「君は……」
「っと、オムライスできたよー。ん? 何か言おうとした?」
「……いえ、なんでもありません。」
君は……。
このジレンマを何十年も抱えて生きてきたんですか?