二十八日目(上)
これは、カウンセリングを始めて二十八日目の話だ。
一人の監視に見守られ、慣れた手つきで電子ロックと通常の鍵を開けると、ゆっくり扉が開いた。
いつものように彼女のいる白い部屋へ入っていく。
そこで一つの異変に気付いた。
明かりがついていないんだ。
窓から差し込む月光が淡く部屋を照らしているだけだ。
「どうしたんですか? もう寝てしまいましたか?」
そういうと、かすかに「ううん」という声が部屋の隅から聞こえた。
見えづらいが部屋の隅にうずくまっているようだ。
「電気、つけますよ」
「だめ――」
彼女は僕が電気をつけるタイミングで、そう拒否したが、もうスイッチが入った後だった。
電気が数回瞬いて部屋を照らすと、彼女の表情がよく見えた。
目が赤い。それにその表情は非常に不安そうなものだった。
「……どうしたの、ですか?」
少々戸惑う、こんなことは初めてだ。
彼女は自身の境遇を顧みず、いつも笑顔で、どこか心は奥深い。
なのに今は、いつもの様子がみじんも感じられない。
これじゃあまるで、普通の少女じゃないか。
「あ、はは、見られちゃったね。来るまでには何とかしなきゃって、思ったんだけど……」
それで、話題を変えているつもりなのだろうか?
「どうしたのですか?」
今度は彼女の両肩に手を置き、目をまっすぐ見ていった。
彼女は少しだけ目を泳がせる。
「……転生の前はいつもこうなんだ。気にしないで」
これは緊急事態だ。転生にあたって、彼女が大きなストレスを感じている。せめて、原因だけでも突き止めねばならない。
「そうはいきません。僕はあなたのカウンセラーです、あなたの悩みを聞くのが、僕の仕事なんです」
「仕事……?」
しまった、彼女もそのことは重々承知のはずだが、この場では不適切な言葉だった。
ここは、『仕事として』必然性を高めるよりも、『友人として』話を聞くべきだった。
「君に話しても、仕方ないよ」
「話すことで、少しは楽になるかもしれません」
「…………」
彼女は黙る。
口を開くように催促することは可能だが、すでに多大なストレスを抱えている彼女に、これ以上の負荷をかけるのはあまり良い行動ではないだろう。
緊急事態として、いったんこの場を離れるか?
いや、一度この場を離れたら、それ以降に発せられる言葉は『僕の言葉』ではなく、『用意されたセリフ』になってしまう。
まだで会って一月ほどだが、僕は彼女の中で重要な立ち位置にいるはずだ。
さっきは『仕事』と言ってしまったが、今は事務感を極力取っ払い、対処すべきだ。
「ふー……」
ゆっくり息を吐き、自身のこわばった表情を解きほぐした、そして、彼女の肩に置いた手を離し、彼女の横に座る。
「転生することが、不安なのですか?」
彼女から自発的に聞くのは不可能と感じたので、僕から質問を投げかける。
あまりに直球な質問。この聞き方が正しいのかわからないが、今の僕は、彼女の友人だ。
このくらいがちょうどいいだろう。
「……わからない」
わからない、か。
難解ではあるが、沈黙や否定よりはずっといい。
「一言にまとめる必要はありませんよ」
さまざまな感情が渦巻いているのだろう。
転生への不安。ある意味での死の恐怖。そして、自由行動の希望。
もしかすると、実験体であることの不満さえもあるかもしれない。
彼女の心を揺さぶる要因は、いくらでも存在する。
「……きっと、怖いんだ」
彼女は初めて具体的な感情を口にした。
「なにがですか?」
やさしく、ゆったりとした口調で聞き返す。
「明日、記憶をコピーして、明後日に自由行動。その日が怖くてたまらないんだ」
「自由行動が怖い? あんなに楽しみにしていたではないですか。転生しても引き継げないからですか?」
彼女が何を恐れているか理解しているつもりだ。だけど、だからこそ僕はその問題について直接触れることができなかった。
まるで腫物のように、避けて、避けて彼女と会話を続ける。
「転生? その続きなんて知らないよ……」
彼女は顔を膝にうずめ、声は震えている。
「私は――あと2日で死ぬんだ」
そして彼女はとうとう口に出してしまった。
この実験の根本的な否定。同一人物であることの否定。
20以上の転生をその身で経験した彼女が、それまでの転生を否定した。
「…………」
言葉が出ない。
あなたは転生して生き延びる? だめだ、そんな言葉は逆効果だ。
僕は彼女にどういった言葉を投げかけたらいい?
「キミにはわからないよ……。怖い、怖い、怖くてたまらないんだ……!」
そうだ、僕にはわからない。
彼女の恐怖を心の底から共感することはできない。
「う、うぅ、うえぇぇぇ」
彼女は、情けなく。自らを押し殺すように涙した。
そこにいたのは、小さい少女だ。
「…………」
彼女はいったい何者だ?
彼女は――人間だ。
僕は初めてはっきりと、彼女は人間だと、認識することが出来た。
同時に、強い道徳的罪悪感を感じる。
そっと抱きしめた、慰めの言葉は浮かばない僕の、最大限の慰めだ。
彼女が口にした自由行動への憧れは、死への抵抗だったんだ。
彼女が今まで繰り返した問いかけは、恐怖の訴えだったんだ。
そんな事には微塵も気づきはしなかった。
僕は、ただただ彼女の言葉を鵜呑みにしていた。何もわかっていなかった。わかろうとしていなかった。
彼女だって嘘はつくし、建前はあるし、本心を言えない事だってある。
そんな当然の事がわかっていなかった。
「私はいつまで生き続ければいいの? 私は何回死ねばいいの? わからない、わからないよ。もう、自問自答じゃ答えが出ないよ」
僕はなんて無力なんだ。
彼女をここから連れ出すことはできない。
彼女の転生をやめさせることはできない。
彼女を慰める言葉すら浮かばない。
「ねぇ、ここから出してとは言わない。生き延びさせてとも言わない。だからせめて、この恐怖を……消し去ってよ……」
彼女は消えそうな声でそう紡いだ。
ここから出たくても、出たいと言えない。
生きたくても、生きたいと言えない。
オモチャを取り上げられる事を恐れて、泣く事しか出来なくなってしまった、小さな子供。
「………」
彼女は一通り言葉を吐き出すと、ずっと黙っていた。
再び口を開いたのは一時間ほどたってからのことである。