二十二日目
「私は、どれだけの事を知らないのだろうか?」
これは、カウンセリングを始めて二十二日目の話だ。
「どういう意味ですか?」
と、聞き返したが、その質問の意図は今までの彼女との会話からして、予測できる。
「私が今まで行った場所は、この部屋と中庭、そして研究所の一部の部屋だけだ。
本はたくさん読んだけど、どれも教授が用意したものばかり。
世界の広さは地図で知っているけれど、それが事実がどうかも私には分からない」
そう、彼女は、自分に与えられている情報が制限、操作されていることに気が付いている。
そういった発想を一切教わっていないにもかかわらず、だ。
彼女は一般的な教育を受けている。だが、40年もあればネタ切れだ。
定期検診やデータの採取もしているが、ずいぶん前から安定しているので、それに割く時間も定期的なものだけだ。
残った時間は、数少ない許された趣味と、思考の堂々巡りに使われる。
その堂々巡りが、時々彼女の境遇からは想像できないような発想を生ませるのだろう。
「キミは良いなぁ。知りたい事をなんでも知れるんだから」
彼女のそのボヤキは本当に羨んでいるようだった。
「……そんなことは、ないですよ」
だけど、彼女は勘違いしている。そうじゃないんだ。
「どういうこと?」
「確かに僕は、君より多少確かな真実を知っているかもしれません。ですが、それでも君と僕に大差はない」
「どうして?」
彼女は不思議そうに、本当に不思議そうに僕に尋ねた。
彼女から見たら僕は、仕事をしている時間以外は自由に行動できて、やりたいことをやっているように見えるかもしれない。
いや、確かにその通りだ。
だけど……。
「僕が知りたいと思って知ることができることは、調べられる範囲です。
虹は光の屈折、地球の直径は12,742 kmで、宇宙に空気は存在しない。
君の学んだ情報と同じでしょう?
君は、そういった情報の真偽を確かめられるように僕を見ているかもしれませんが、実際は、僕自身も証明したものではなく、結局は人から聞いた話で、僕も証明したことがありません。
昔、太陽が地球の周りを回っていることが真実であったように。
きっと、僕の常識にも大きな見落としがあります」
「そっかー。そうかもね」
そうだ、僕の知っている常識なんてすぐに覆る。
昨日までは健康にいいといわれていた習慣がむしろ悪影響だと判明することなんて茶飯事だし、ルールだって立場が変われば簡単に変わる。
この実験だってそうだ。
僕は、僕が大学に入るまでの18年間この実験を否定する道徳をずっと刷り込まれてきた。
だが、大学の四年間でそれは崩壊した。
実験体数名の犠牲で科学が大きく発展する。そういった、事実が存在することを知った。
その功績は間違いなく犠牲になった実験体数名を帳消しに出来るレベルのものだ。
より多くの命を救うための、必要な犠牲。森を広げるために木を殺す。
合理的に考えれば、この実験の必要性は見えてくる。
そう理解して、この実験に参加することを決意したんだ。
なのに……。
彼女と言葉を交わせばかわすほど、彼女を知れば知るほど、18年間が悲鳴を上げて、僕に訴えてくる。
本当に僕は正しいのか?
大切なものを、見落としていないか? と。