その弐
「カミサン。なんかいるもんある?」
「いや。これで十分。ありがとう」
獲ったばかりのまだ生きている魚が入った桶を受け取りながら、朝の陽ざしを浴びて晴れやかに笑う壱太の、初めて出会ったときとはずいぶんに身長が伸びて髪も上げて大人になった姿を、カミサンは眩しそうに眼を細めた見つめた。
浜辺で壱太に拾われてからすでに五年。
カミサンはこの五年の間に随分といろんなことがあったなと過去を思い起こした。
初めて壱太が男を連れてきたときの村は大騒動だった。
村の誰もが見たことがない風貌に、海の水に濡れて汚れた不思議な着物、村の誰よりも圧倒的に大きな体は恐ろしく、近寄ることもできなくて遠くから見ているだけだった。
どうみてもこのあたりの人間ではいことは明らかだったが、じゃあどこの人間だといわれれば、誰にもわからない。
村一番のお金持ちで物知りの村長ですら、さっぱり要領を得なかった。
言葉は通じない、身体が大きなせいかやらたと動作が大きく、表情が豊かな姿は、まるで同じ人でもないように思えた。
「名前はなんていうんや」
「ナン?」
「あー、村長。こっちがなにゆうてるかわからんみたやから」
壱太は男を見ながら笑った。
男も壱太を見て笑った。
「せやけど、いっこだけわかってん」
壱太は自分を指さして「壱太」というと、今度は男を指さした。
男はわかったとばかりに何度か頷いて、自分の広い胸を指して言った。
「カミーユ・サン=テク××××」
「なんやて?!」
男の名前を聞いた村長は声と体がひっくりかえった。
今この男は自分のことを「神」さんやといわへんかったか。
神さんが自分を神さんやてゆいはるんは随分変わってるかもしれへんけど、神さんは八百万。一人くらい毛色が変わってはる神さんがいてもおかしない。その証拠に見た目もずいぶんと汚らしい……ちょっとまたんかい。もしかしてこの神さん、貧乏神とちゃうか。
村長は急に慌てふためいて、自分の嫁に何やら指示を出し始めた。
すると嫁もわたわたと慌てて近くにいた数人の村人を引き連れて屋敷のほうに駆けだした。
それを見送った村長はさっきまでの高慢な態度をどこかに綺麗に引っ込めて、それどころか少し遜って今度こそ壱太と男に向かい合った。
「ここにいはるんは何かの縁やさかい、ゆっくりしていってください。とりあえずはその濡れそぼったお姿ではなんや病気になりそうや。今お風呂の準備をさせてるよって、うちにお越し願えますか」
まるで都の偉い人が来た時のような村長の態度に、壱太はあんぐりと口を開けた。
壱太が拾ったのは、どこからどうみてもみずぼらしい一人の男。
髪の色と目の色と体つきが自分たちとはちょっと違うがどこからどうみても都の偉い人には見えはしない。
だというのに、村長の態度はあからさまに違った。
腑に落ちない壱太だったが、男がもっとわけがわからない顔をして肩をすくめていたから安心させるようににっこりと笑って誤魔化した。
風呂から上がって身綺麗にした男は、それはそれは煌びやしかった。
信じられないほど盛り上がった筋肉は力強さを物語り、海水や砂に汚れていた髪はまるで小判の金色に輝いていた。
村長が持っいた着物はどれも丈が合わなせいでちんちくりんに見えるはずが、着方が粋なのか胸板の厚さが男らしさを示しているのか、堂々とした偉丈夫が座敷の上座に立っていた。
ただでさえ体が大きくて威圧感があるというのに、いくら村長の家だとはいっても浜辺ほど広くはない。狭い座敷は男が座らないからよけいに狭苦しく感じられた。
「なんで座らんの」
すでに座っていた壱太だったが、言葉がわからい男のために立ち上がって、もう一度座りながら手でも合図をした。
男はかなりおぼつかなく足元をちらちらとしながら、それでも壱太がしている通りに、けれども出された座布団の上に座らずに直接畳の上に座った。
「こら、壱太。神さんになんて口きいてるんや!」
「神さん?言葉もようわからん男が神さんのわけないやん」
「お前こそ何ゆうてるんや。こんだけ堂々としたお人が普通の人なわけないやろ。それに見てみい。髪はまるで黄金のようやし、瞳は夏の日の海のようや。言葉がしゃべれんのも神さんやからに決まってる。それにご自身でもカミサンやゆうてはったやろ。それが何よりの証拠や」
名前を聞いた瞬間に男を貧乏神だと思ったことは決して口にはしない村長だった。
それにしても金糸を束ねたようにうねる髪といい、青々とした瞳、初めてこの村に降りてくださったというのに堂々とした様はまさに何事も超越している神だからにほかならない。
神は八百万。
海から現れたというのなら、きっとこの神は海の神にほかならない。
ここはちゃあんと崇め奉って、この村に、ひいては自分に徳がくるようにしてもらわなければ。
打算が働くからこその村長は、おのれの頭の良さに一人悦に入った。