過去 その2
ありとあらゆるものが、セアントリウスが生み出したありとあらゆる魔法が、全竜の前に屈服した。彼の息吹は炎を打ち消し、雷を払い除ける。彼の挙動は、風を逆巻かせ、水を乾した。束縛は身震いのひとつに打ち破られ、幻術はため息ひとつに破られた。
この時、彼は一歩たりとも動くことはなかった。背後にあった村に気を払うこともしなかった。ただ、この近辺に住む動物と、セアントリウスから見れば弱弱しい魔族には優しさを見せた。彼らの住処にはセアントリウスは指一本すら触れることができなかったのだ。
「・・・人を守らないんですね」
「守る必要はない。お前だって、気にしないだろ? それと一緒さ。あいつらのことは心底どうでもいい。どうせ、俺の同胞じゃない」
「どういうことです?」
無様に少年の前に跪きながら、セアントリウスは問うた。
「それを聞くのか、『術理の王』・・・お前も女神に犯されたのか・・・っ!」
死んだような瞳に僅かな光が燈る。しかし、それはあまりにも暗く、陰惨でいて、汚物を見るような、絶望的な、憎悪と憤怒の色だった。だが、それも一瞬のことで、彼の瞳からはすぐに色が消え失せた。諦念と諦観に満ち満ちた死んだ瞳が、無表情の顔にそれだけが浮き上がるように在った。
「俺のように、連綿と続く記憶に苛まれることはないお前が羨ましい。妬ましい。嫉ましい。憎々しい。・・・だが、それだけだ。俺はこうやって続けていくしかない。ふふ・・・地獄だな」
ふらりと、少年は踵を返した。セアントリウスはその後姿を追いかけたいと切に思ったが、魔力を使い果たした今の状況ではそれすら叶わず、ただ去っていくその姿を見送ることしかできなかった。
・・・セアントリウスが彼と再会したのは、それから六十年後のことだ。戦場で、人間たちの営みを観察していたときのこと。
そこに、彼の姿を見つけた。彼の外見は変化していなかった。美しい黒髪の少年の容姿。ただ、その瞳にはあの時見たような暗さはなく、ただ残酷な現実を見据える鋭い瞳があった。剣を手にし、戦場をかける少年。活き活きと戦うその姿に、セアントリウスは見惚れてしまった。しかし、あの時から思い続けてきた目的を忘れることはなかった。
夜になり、少年が千を超える屍の山を築き終えたあと、セアントリウスは彼に接触した。
「やぁ、久しぶりですね」
「・・・誰?」
「・・・へ? いや、この前会ったじゃないですかっ! 六十年前にほら! 海岸で」
「・・・ああ、あんたまだ生きてたのか。・・・いや、あんただったらその可能性もあったんだな」
「覚えていてくれましたか・・・」
「ん? それは違うな。確かに『記憶』にはあるが、俺はあんたと会うのは初めてだよ。たぶん、あんたが会ったのは俺の爺様だ。見たことはないけどさ」
「・・・は? どういう意味ですか?」
「そのままの意味さ。知りたいか?・・・いや、俺のことが知りたいから、あんたは俺に接触してきたんだろ? 今まで通り引きこもっていればよかったものを、わざわざ外に這い出してまで」
愉しげに笑い、少年は腰を下ろしていた死体の山から飛び降りた。セアントリウスの前に立ち、にやりと唇を歪めて見せた。
「教えてやるよ、あんたが知りたい何もかもを。この世界の真理ってやつの、欠片をな」
煙管を咥え、懐かしい記憶にまどろみながらセアントリウスは彼のテリトリーに入ってくるものを感知していた。・・・あの少年は、全てを解かっていながら進んできている。他の兵の気配もない。おそらく、ダミーにと仕掛けておいた別の場所を攻めているのだろう。影武者には悪いが・・・と、いうかそうだと気付いていないだろうが、頑張ってもらいたい。
ドアを開け、入り込んでくる青年の姿。容姿は昔とほとんど変わらない。短い人生を共に過ごし、別れた、彼の姿はまた時を逆流していた。
「・・・やぁ、久しぶりですね」
「ああ。・・・相変わらず陰気なところに棲んでるな」
「落ち着くんですよ、こういうところが。性分なんでしょうね」
「・・・頼んでいたものは出来たのか?」
「はい。無論、完成させましたよ。・・・ただ、確実に動くことは保障しますが、効力までは如何せん解かりかねますね。何せ、私では起動できない。本当に厄介なものですよ。・・・これで、私の役目も終わり。あとは、君に任せるだけです。私の邪魔をし続ける彼女の顔を拝むことが出来ないのが至極残念ではありますが・・・分相応なんでしょうね、これが」
「・・・それがお前の役目というわけじゃないよ」
抜き放たれた剣の刀身が漆黒に染まる。それを向けられても尚、セアントリウスは笑顔を崩すことはしなかった。どころか、どこか清々しいとさえ思っていた。
これまでずいぶんと長く生かされてしまったものだと思えてすらしまう。それは、女神が望んだことである。それをセアントリウスは知っている。この世界に起こったこと全てを知らされ、彼は理解した。あのころ、『彼女』を別格として、最も全竜と親しかったのは自分で、だからこそ長い人生を生かされる理由となったことを。
「君が寂しくないように。永久に戦い続けるために」
「・・・」
「また、しばしのお別れですね。私の可愛い弟・・・次は、もっと良い世界で会いましょう」
「・・・っ。・・・ああ。それじゃあ、また。兄さん・・・」
心臓を切っ先が貫く。
黒の焔が毒のように全身を回って侵し尽くす。その感覚は抱擁に似ていた。少なくともセアントリウスはそう感じた。
まったく・・・
「君たちの愛情はいつも苛烈ですねぇ。甘えん坊だからですかね?」
女神も、全竜も。
望んだ先は同じだったというのに。
ふと、浮かんだ言葉に、セアントリウスは僅かに哀れを感じた。




