不安
ファグナリスが行方をくらませてから、既に一年近くの時が経とうとしていた。アベルは政務に駆られ、それについて思考することはほとんどなかった。いや、そもそも日の感覚が曖昧模糊となり、いったい、どれほどの月日が過ぎ去ったのかすら、理解することができなかったというべきだろう。
アリシャは王宮で暮らしている。静かなもので、日がな一日、テラスで書物を読み解く日々。無為にその時間を浪費していた。
それについて、アベルに思うところはない。姉を。大事な姉を、彼女が老い、朽ち果てるまで面倒を見るつもりだったからだ。彼女が望むのなら、どのようなこともやってやるつもりだった。・・・兄の代わりに。
ただ、この一年は本当に大変だった。
テニキアス王国連合に参画し、最初に訪れた難事はテニキアス王との謁見だった。現在は、病に伏せる王に代わり王妃が政務を掌っているらしい。無論、建前上は、テニキアス王の息子、世継ぎであるニグリス王子の補佐を王妃が行っているということになっている。
その王妃が所望したのは、さんざ戦場を駆けずり回った厄介な部隊の指揮官・・・ファグナリスだった。
ミエルハンス王が謁見される際には、戦争時に大いに力を振るった部隊の指揮官を呼んで欲しい。そちらにいる黒髪の指揮官を。
そう、王妃は仰られた。
理由を聞けば、幾度か刃を交え、その力を大いに評価しているから、という返答だった。
さすがに友好を結んだのだから、処刑せよと言われることはないとは思ったが、それよりもまず、その指揮官の行方が掴めないのである。元より、王妃の眼前に押し出すわけにもいかないから、これ幸いにと言い訳を携えた。
が、王妃は激怒した。顔には出さなかったが。
謁見を始め、言葉を交わす機会は幾度もあったが、その度にねちねちと嫌味を言われた。本気で腹に据えかねていたらしく、アベルはテニキアス王国に滞在していた一週間ほど生きた心地がしなかった。
殺されなかったのが奇跡だ。
おそらく、王妃はファグナリスを自分の陣営に引き入れたかったのだろう。ファグナリスは小部隊での隠密行動を得意としていたから、諜報や暗殺で重宝出来る。アベルがそれを知り得たのは王になり、カスペルからこれまでの経緯を説明されてようやく知ったのだ。
「ケービットも教えてくれれば良かったのに」
「かか。あほか。お前のあんちゃんの活躍は、俺の活躍と同義なんだぜ? 自慢話は酒の席でやるもんだ。悔しかったらまともに酒飲めるようになりな。したら、話してやるからよ」
ケービットはからからと笑いながら、堂々と王の前で杯を空けた。彼は、『王の剣』が解散した後、アベル直属の親衛隊の指揮官として、彼の傍で身辺警護を請け負っていた。それが、兄の願いだということは、幾らアベルでも薄々と感付いていた。
「・・・兄ちゃんはどこに行ったんだろ」
最後に見たあの兄の姿を、暗く澱んだ瞳の男を思い出す度に背筋に寒気が走る。妻と子を同時に失ったその悲しみから無気力になったのなら解かる。だが、あれはそんなものではなかった。兄から向けられていたのは、凝ったような『怒り』だ。熱く燃え盛るようなものではなく、酷く冷たく、暗い、凍ったような怒り。
それを、兄は自分に向けていた。いや、正確にはこの世界全体に向けられていた、というべきか。おそらく、本人は意識すらしていないだろう。
おそらく、だが。自分はもう兄の笑顔を見ることはないのではないだろうか。そんな予感がアベルにはあった。
「さてな・・・もうあいつの考えていることは俺には解からん。そんなだから、ローザンヌはあいつについて行ったんだろうがな。ま、自分に正直なのはいいことだ。マリウスは歯噛みして地団駄踏んでたけどな」
ファグナリスに連れて行ってもらえなかったマリウスは、書状で領地の管理を任せることを知るまで大いに悲しんでいた。それはもう、可愛がっていた弟が突然反抗期に入り、困惑しているところに家出をされた弟想いの兄のごとく心配し、嘆き、悲しんだ。五体当地で。見るに耐えないというのは、おそらくああいうものを言うのだろう。
そんなマリウスも今はどうにか立ち直り、せっせと領地で蓄財をしていた。無論、それは己の懐に入るものではなく、領地の倉庫に納められているし、それを隠すようなこともしていないが、どうにも不安を掻き立てられる。
直接問い質したところでマリウスは答えないだろう。王陛下は政務に専念すべきと説教をされるのが目に見えている。かといって、ケービットに聞き出してくれと頼んだところで、嫌そうな顔をされるのもまた、解かっていることで、要するにアベルに事実を究明する力が欠けていた。
兄を信用していないわけではないが、万が一ということもあるから密偵でもマリウスにつけるべきだろうか。
「・・・や、無駄だな」
マリウスがそれに気付かないわけがない。逆に利用され、説教される姿が目に浮かぶ。無駄なことはせず、黙って政治にせいを出すがよろしかろう、と。
未だに、『王の剣』が開発した大規模破壊魔術の技術が公開されていないことも、アベルを不安にさせる一要因だった。




