黒焔 その3
ニウリエラはアベルの胸に抱かれ、穏やかな気持ちだった。死が間近に迫っていることに恐怖はなかった。アールキエに対する焦燥感のような忠誠心も今はない。
黒の男が、祓ってくれたのだ。
アールキエは、手に入れたニウリエラを弄んだ。内も外も容赦なくいじりまわし彼女の全てを破壊し、アールキエに対する服従によって安寧を得られることを教え、ニウリエラはそれにすがった。だが、アールキエによって押し付けられたものはなくなった。
今、彼女は彼女を取り戻した。僅かな時間のことだが、それで充分だった。時間は彼女の味方ではない。時が彼女を癒すことはない。時間が経てば彼女はまた記憶に苦しまされることになる。アールキエがニウリエラを手放すこともないだろう。役に立つと思い、アールキエに頼み込み黒の男を近くにおいていたことに間違いはなかった。今、彼も穏やかに目的を果たしたことだろうと思う。
しかし、だからこそ、アベルに言わなければならないことがある。アールキエの前では口を開くことはなかった彼もニウリエラの問いには僅かながらに答えた。同情でもしてくれたのだろう。
「アベル」
「喋るな! 傷にさわる!」
「もう助からないわ。いいの、これで」
穏やかな笑みを浮かべ、アベルの頬を撫でる。泣きそうな彼を慰めたかった。
「聞いて。これからのあなたに必要なことだから。お願い」
「なんで、くそ・・・!」
アベルは悔しそうに歯噛みし、唇を噛み締めながらニウリエラの言葉に耳を傾けた。
「あなたのお兄さんのこと。彼のことを信用してはダメよ。これからの彼はもうあなたのことを省みないはずだから」
「どういうこと?」
「彼は変わる。変わってしまう。もうあなたたち姉弟に全てを与えることはない」
彼は奪うだろう。願いを持たなかった彼は願いを持ち、目的のために全てを奪う。それを躊躇うことはないだろう。その果てに彼は孤独を得て、願いを叶える。
あの男は全てを口にすることはなかった。疲れた瞳で、疲労にまみれながら、訥々と抽象的に語っただけだ。あの男自身は、目的を遂行することを放棄していたようだったが、彼が同じようになるとは限らない。
小さなきっかけが、彼を駆り立てる可能性もある。しかし、全てはニウリエラが死んだあとのことだ。深く何かを考えることを彼女は放棄した。
「アベル。楽しかったわ。束の間だけど、幸せなこともあったから・・・」
「ニウリエラ・・・!」
「ゆっくり、させて、ね? ここが、おちつくの・・・」
アベルは口をつぐんだ。片腕で強くニウリエラを抱き締めた。穏やかな笑みが彼女の口元に浮かぶ。
「お休み、ニウリエラ・・・」
馬が王都にたどり着くころ、彼女は動かなくなっていた。穏やかな笑みを浮かべ満ち足りたように、目を閉じていた。
彼女を見た医師は首を振った。
アベルは、静かに瞑目した。
「アベル」
「父上・・・」
「泣くのは後だ。やることは山積している。終わったあとに泣け」
「解ってる。・・・行くよ」
それは、男の記憶だった。それは間違いなく自分ではない誰かの記憶だと解っているのに、ファグナリスはそれを己のものとして認識していた。
男の半生は、戦いの記憶しかなかった。男を駆り立てたのは怒りだったが、何故自分が怒り狂っているのか、男は理解できなかった。怒りをぶつける相手は、今はいないのに。男は殺した。怒りを塗り潰すように殺し続けた。救われることも報われることもないまま、男は生きた。
その人生は、無意味だった。怒りを向けるべき相手は、現れなかった。『あれ』は、その不様を愛し慈しんだ。そして、それだけだった。男が何を望んでいるのか知っていながら、それだけは与えなかった。
不様に生きることを強制した。男の望みを満たすことは、男の死と等しかったからだ。
男はその半生とは裏腹に優しい人間だった。見えるもの、見渡すもの全てに手を差し伸べてしまうような。そして、それこそが、男の唯一の望みを奪っていた。男は、それに気付きながら、戦い続けた。無意味に足掻き続けた。
そして、疲弊していった。
真綿でゆるゆると首を絞められることに疲れ、男は最期の場所を求めて、小さな町にたどり着いた。そこで、余生を生きることにした。平和な町だった。統治をしていた貴族が善政を敷いていたこともあったが、その貴族の周囲には優秀な人材が揃っていたことも、平和の礎になっていた。
そこで、ある女性に出会った。優しく、けれど強い人だった。彼女を偶々助けたのがきっかけだった。
町外れで静かに生きる男を気にかけ、彼女は男の下に足繁く通った。男が、死を求めていたことをなんとなく察知したのだろう。助けたいと思ったのかもしれないが、結局、窮地に陥るのは彼女で、助けるのは男の役目だった。だが、男は彼女に救われた。男の心は彼女との触れ合いに救われた。
次第に男は彼女との関係を深め、周囲には人が増えていった。リリアナも、その一人だった。
静かだった周囲は騒がしくなり、男はよく笑うようになった。今までの人生を取り戻すように。相変わらず、町外れで静かに暮らしていたが、以前のように人との関わりを厭わなくなった。それが、男の人生の中でもっとも輝かしい一瞬だった。
その中でリリアナを祝福し、彼女との間に子を設けるまでになった。
だが、その子が生まれる前にリリアナは流産し、子を失った。畳み掛けるように町を別の貴族が襲った。彼らはその町の領主を厭っており、機会があれば潰そうと考えていた。彼らのお題目は、男が戦争犯罪人として、遠い異国で指名手配されていたことだった。男を匿っていたとして、取り潰しのきっかけとしたのだ。
それでも、領主は、彼女の父であった人は男を守ろうとした。家族として。
だから、男は一人でその軍勢と戦った。たかだか百人の部隊など、男にとって塵芥に等しかったから。
男は、駆逐した。その中で後詰として数十人の守備隊を連れていたのだが、そこにリリアナの夫がいた。不運なことに、彼は男が討ち漏らした兵に殺されてしまった。
さらに男に悲劇が襲い掛かる。
時同じくして、彼女は赤子を出産したのだが・・・その赤子に理性はなく、己の内にあったものを容赦なく、遠慮なく爆発させた。それは、出産に立ち会っていた領主、彼の従える優秀な部下たちを燃やし尽くした。
ただリリアナだけが、被害を免れ、その赤子を連れて逃げた。
男は、全てを失った。一瞬にして、何もかも。
ただただ運が悪かっただけ。最悪が重なってしまっただけ。男は、何も悪くなかった。
悲しみと怒りに身を任せ、男は攻めて来た貴族を、彼の治める領地ごと滅ぼした。男は、それ以後、自分で何かを定め決めることを止めた。主体性を放棄した。流浪のさなか捕まり、奴隷に身をやつされても、男は抵抗しなかったし、どんな暴力も甘んじて受けた。戦奴として酷使されても何も言わなかった。力も最小限しか振るわなかったが、それだけだ。
死のうとしても死ねなかった男が願ったのは、己を焼き尽くす誰かだった。目の前に現れた『仇敵』も彼に手を下さなかった。だが、そこで自分の子供のことを耳にした。
話を聞き、確信し、男はファグナリスと対面した。それだけが望みであり、それだけしかなかった。自分の持っている重荷を与えることで、楽になりたかった。自分勝手な欲求であることは承知していた。それでもなお、男はそうするしかなかった。そうしなければ、我が子が近い将来、確実に死んでしまうからだった。生まれたあの日に渡せなかったものを渡さなければならなかった。
忌まわしい記憶を、与えなければならなかった。
・・・男の追憶はここまでだった。




