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やっぱりケンにとっても、彼女と上手くつきあっていくのは大変なことらしい。ケンがどれだけ自分のことを大切に思っているか彼女はちゃんと知っていて、まるで試すようにケンを振り回す。不器用な人だ、と僕は思う。
崖っぷちの恋愛だな。愛されるか、憎まれるか。わざわざ相手を追いつめて、そんな方法でしか彼女は愛を勝ち取れないんだろう。
開場前のライブハウスで、マミヤくんと彼女が楽しそうに話している。人気のないライブハウスはなんだかとても殺伐としていて、どことなく淋しい。
「この前貸した本読んだ? よかったでしょ?」
「えー、イマイチだった。だっていくらなんでもあのラストはないでしょー」
「バカだなぁ、あのラストがいいんじゃーん。あー、もう。全然わかってないなぁ」
「ダメ。SFってみんなラストが哀しいから嫌い。絶望的なんだもん」
「話合うんだよな、あのふたり」
ふたりをうらやましそうに見つめて、ケンがつぶやく。僕はなにも言えずに黙っていると、照れたように笑う。
「いや、オレキリちゃんが読んでる本とか全然わかんないからさぁ」
「お前本読まないしなぁ」
だけど、そんなケンがよかったんじゃないのか? 本について語り合いたかったら、最初からそういう人間を選べばいいんだ。ケン、お前はそんなに卑屈になることはない。読んだ本の内容で人間の価値は決まらないし、ドストエフスキーを読破したからって、そこからなにも得られなかったら、ただ無駄に時間を費やしただけに過ぎない。お前はそんなやつらよりもっと有意義な時間を過ごしてきただろ? お前は小難しい本を書いて後世に残している人間にも、それを読んで感銘を受けてる人間にも、決してひけをとるもんじゃない。
だんだんと、ケンがみんなの輪から離れて、僕のそばにいることが増えた。輪の中心にはいつも彼女とマミヤくんがいた。マミヤくん、小夜ちゃんはどうしたんだい?
ホントに小夜ちゃんはどうしたんだろう。もうずいぶん姿を見ていない。前はマミヤくんのライブには必ず来ていたし、いつもふたり一緒だった。マミヤくんに訊ねてみてもはっきりした答えは返ってこない。マミヤくんらしくない。そんなことを考えていたら、小夜ちゃんから電話があった。
「小夜ちゃん髪切ったんだ。せっかく伸ばしてたのに、なんかもったいないなぁ――いや、短いのも似合ってるけどね」
チンザノ・ロッソを飲みながら、小夜ちゃんは軽く微笑む。
「マミヤが長い髪が好きだったからねぇ、伸ばしてたんだけど。飽きちゃった」
「マミヤくん怒らなかった? って、そんなことで怒らないか。あ――煙草吸ってもいい?」
小夜ちゃんはどうぞ、とうなずいて、
「郁弥くん紳士だなぁ。マミヤなんてそんなこと聞いてくれたことないよ」
と僕に笑いかける。僕はなんて答えていいのかわかなくて、目の前のジンを飲んだ。
まだ時間の早いロックバー。客は僕達しかいない。いつもならカウンターに座るところだけど、今日は小夜ちゃんがなにか話したそうだったので、珍しくテーブル席に座った。いつもと違ってなんだか落ち着かない。
小夜ちゃんとふたりきりで会うのは初めてで、過去の失敗から、僕はとても緊張していた。わかってる。みんなが僕を好きになるわけじゃない。小夜ちゃんがマミヤくんをとても大切に想ってることも、僕のことをカレシの友達としか見てないことも、全部わかってる。だけど、それならどうして僕を呼び出したんだろう。そこになにかあるはずだろ?
「郁弥くん達も最近忙しいみたいだね。この前雑誌に載ってるの見たよ。郁弥くんカッコよく写ってたね」
「えー、なんか間抜け面じゃなかった? あれさぁ、リョーちんが勝手に写真選んでね。自分が一番イケてる写真にしてんの。ズルイよねぇ」
「大丈夫だよ。郁弥くんたいていカッコいいから」
こんな実のない会話をしながら、僕はまだ落ち着かなかった。ふたりでいる緊張感はもう感じなくなっていた。それより、小夜ちゃんがなにか言い出しかけてるのがわかって、訊いてほしいのか、ふれないでほしいのかわからなくて、それが僕の居心地を悪くしていた。
「そうそう、わたしがよく服買いに行くお店でね、何度かライブで見かけたことある子が働いてて、聞いてみたら郁弥くんのファンだったの。今度ライブ行ったら話しかけてみなよって言っておいたから、もし知らない子から話しかけられたらよろしくね」
「小夜ちゃん来ないの?」
「うん・・・ちょっと忙しくて。ごめんね。行きたいんだけど。あのねぇ、その子すごくかわいいんだよ。ちょっとモデルの・・・なんだっけな、名前忘れちゃった。似てる子がいたんだけどなぁ」
マミヤくんと上手くいってないのかな。小夜ちゃんが不自然だ。こんなはっきりしない喋り方をする子じゃなかった。モデルだろうがなんだろうが、そんなことはどうだっていい。小夜ちゃん、せっかく僕と会ってるんだから、話したい話を話そうよ。こんなくだらないこと、いつまでも話してる気はないだろう? これじゃ会ってる意味がないよ。
店内に、低めの音で「ジギー・スターダスト」が流れる。
僕はジンを飲みながら、じっと小夜ちゃんを見つめた。このジンを飲み終わるまでに小夜ちゃんが切り出さないなら、帰ろうと思った。僕だってそんなにヒマじゃないんだ。レポートだってたまってる。
小夜ちゃんは僕から目をそらして、唇を噛み締める。なにをそんなに悩んでるんだ。小夜ちゃんらしくない。
「郁弥くん・・・」
小夜ちゃんは僕から目をそらしたまま、目の前のチンザノのグラスを見つめている。ちいさな手が小刻みに震えて、グラスを揺らしている。
「マミヤと・・・あの人のこと、知ってる?」
「あの人?」
小夜ちゃんは少し困惑しているようだった。どこからどうやって話していいのかわからなくて、言葉を探している。手に持っているグラスは、とっくに空になっていた。
「もう一杯飲む?」
ううん、と首を振る。
僕の携帯が光る。メールだ。ほっといて、小夜ちゃんを見つめる。
「あの人・・・キリコさん」
「キリコって・・・ケンの彼女の? あの人?」
うん、とうなずいて、氷だけになったグラスをからから鳴らす。僕は危うくジンを吹き出しそうだった。彼女? 彼女とマミヤくんがどうしたんだ? ひょっとして、小夜ちゃんはドクター・フィールグッドのアナログを贈ったのが彼女だってことを知っているのだろうか。
「ごめんね。だけどこんな話できる人郁弥くんしかいなくて・・・マミヤ、あの人と浮気してるみたい」
僕はなにも言わなかった。いや、言えなかった。こんな告白されて、いったいなにが言えるんだ? 知ってるなら教えてほしい。
マミヤくんと彼女・・・いや、そんなことは絶対ないと思いながら、僕は頭のどこかで納得している。彼女の不可解な行動も、その一言ですべて説明できる。だけどふたりとも、浮気するならもっと上手くやれよ。お互いのパートナーに気づかれるような、下手な隠し事ならしない方がずっといい。
僕はそのとき、ふとケンを想った。ケンは気づいているんだろうか。ふたりの、この稚拙な隠し事を。気づいているだろうな・・・だからあの打ち上げの夜、自分をなだめるマミヤくんを悔しそうに見ていたんじゃないだろうか。楽しそうに本の話をするふたりを、うらやましそうに見ていたのも、気づいていたからこそじゃないのか?
「なんか・・・電話がかかってくるの。マミヤの携帯に。マミヤいつも慌てて、ろくに喋りもしないで切って・・・わたしがお風呂に入ったりすると、隠れるように電話して・・・」
「小夜ちゃん、それだけじゃ浮気かどうかなんてわかんないよ」
僕の言葉に小夜ちゃんは激しく首を振る。
「違うの。だって・・・みんな言ってるじゃない。郁弥くん知らないの?」
小夜ちゃんはだんだん声を荒げて、こらえきれない涙を流した。
店内には相変わらず「ジギー・スターダスト」が流れている。
「さ、小夜ちゃん・・・」
小夜ちゃんは涙をぬぐって、自分を元気づけるかのようににっこり微笑む。
「ごめん。大丈夫」
僕はしばらくなにも言えなかった。言える言葉がなかった。別に小夜ちゃんの涙を嘘だと思ったわけじゃない。僕だって、いくらなんでも嘘と本当の涙の区別くらいできる。そんなことじゃなくて、こらえきれなくて涙を流した小夜ちゃんの、その気持ちを想像しただけで、僕はなにも言えなくなる。
「ごめんね、ホント。いきなり泣き出したりして」
まだ赤い目で無理に笑う小夜ちゃんは、見ていられないほど痛々しかった。
「だけどね、ホントにみんな言ってるんだよ。マミヤとあの人が腕組んで歩いてるところ見たとか、ライブ中マミヤがあの人のことばっかり見てるとか、いろいろ。まあマミヤの浮気なんて、今に始まったことじゃないんだけどね。だけど・・・今度は違うみたい」
薄暗がりの中で僕の携帯がチカチカ光る。
「小夜ちゃん、それ誰から聞いたの?」
「ん? 忘れちゃった。誰からだったかなぁ・・・いろんな人だよ」
僕はなによりも、小夜ちゃんにその話をした人間が許せなかった。どうしてそんなことをするんだ。世の中には知らなくてもいいことだってあるんだ。わざわざ知らしめなくてもいいじゃないか。そんなに誰かを苦しめたいのか? そんなヤツ地獄に堕ちればいいんだ。
小夜ちゃんが少しでも感づいていたなら教えてもいい。だけど気づいてもいないのに――他人事ながら頭に来る。
「ヤだなぁ、郁弥くん。そんなに難しい顔しないで。やっぱり話すべきじゃなかったね。ごめん。今日は来てくれてホントにありがとう。うれしかった」
「あ、小夜ちゃんちょっと待って」
席を立とうとしていた小夜ちゃんは少し振り返って、恥ずかしそうに笑った。
「どうしたの?」
「なんにも言ってあげられなくてこんなこと聞くのも悪いんだけど――小夜ちゃんこれからどうするの? マミヤくんと別れちゃうの? それとも・・・」
聞かなければよかったと、すぐに後悔した。小夜ちゃんは困ったように微笑んで、うーん、と首を傾げた。
「わかんない。別れるかもしれないし、まだ好きだから、このままかもしれないし」
「そっか・・・ごめんね。ヘンなこと聞いちゃって」
「ううん、全然。あ、そうだ。この話ケンちゃんにするかどうか、郁弥くんに任せていい? わたしじゃよくわかんないし、押し付けちゃって悪いんだけど、ケンちゃんのこと一番わかってるの郁弥くんだと思うから」
静かに立ち去る小夜ちゃんの後ろ姿は、気のせいかとてもちいさく見えた。