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彼女と初めて逢ったのは、一月ほど前の、桜の季節だった。恒例の仲間うちの花見に、マミヤくんが彼女を連れてきた。
「あー、キリちゃん久しぶりじゃーん」
芝生の上に座り込んで僕と話していたケンが、急に立ち上がって、近づいてくるふたつの人影に手を振る。彼女はケンに笑いかけて、隣のマミヤくんになにかささやく。マミヤくんが笑って彼女の頭を軽く小突いて、そんな些細なしぐさだけでふたりの親密さが伺えた。
「最近ライブ来てくれないじゃん。どーしちゃったのかあんぁって心配してたんだよ」
「うん、転職したりして、いろいろ忙しかったの。ごめんね」
「あれ? 仕事変わったの?」
「今度は役員秘書だってさー。笑っちゃうよね」
「もう、マミヤさんはうるさいの。あのね、丸の内にあるいわゆる商社で・・・」
キレイな子だなぁと、僕は彼女に見惚れていた。背中まであるまっすぐな髪をひとつに結んで、ちょっと冷たそうな形のいい唇、すうっと鼻筋の通った、どちらかというと日本的な美。目のあたりがすこしケンと似てるな、と思った。美人なんだけどつかみどころがないというか、なんというか・・・上手く言えないけど、とにかく、他人を惹きつけるなにかを持っている。
「ねえねえ郁弥くん、みんなは?」
マミヤくんに話しかけられ、暗転したように現実に還る。
「ああ、酒買いに行ってるよ。オレ達場所取り」
「そっかそっか。早く来すぎちゃったかなぁ」
「重役出勤でなに言ってんだか、まったく」
彼女を見ていたこと、気づかれなかったかな。すこし気がかりだったけど、それでも僕の眼は彼女を追っていた。いつまでも眺めていたいと、本気で思った。
ふと、彼女が僕を見た。初めて彼女と目が合った。互いに軽く会釈して、すぐに彼女はマミヤくんを見る。
「ねえマミヤさん、紹介してくれないの?」
「え? 誰を?」
「こちらの方。郁弥さん・・・でしたっけ?」
首を傾げて、彼女はにっこり笑う。媚びる感じは全然なくて、でも心からの笑顔にも見えなくて、なんだか半端な笑顔だった。
「あれ? キリちゃん初めてだっけ? この前一緒にライブ見たじゃん。ケンくんと対バンのとき」
「あのときはライブ見ただけだったじゃない。会ったのは今日が初めてよ」
「あー、そうだ。あの日は用事があったから打ち上げ出ないで帰ったんだっけ。うーんとねぇ、郁弥くん。女に手ぇ早いから気をつけてね」
「マミヤくーん、そういう紹介のしかたはないでしょー」
「だってホントのことじゃん。あのね、こっちはキリちゃん。麻ちゃんの友達」
「マミヤくんの紹介ってサイコー。愛想もなんもないよね」
やっぱり、僕の記憶は間違えてなかった。あの日、ライブ中僕がずっと見惚れていたのは、やっぱり彼女だったんだ。
今でもはっきり憶えている。僕はあの日風邪気味で、ぼーっとした頭を抱えてステージに立った。微熱のせいか、いつもよりずっと気分がよかった。高いところから僕を見つめる人達を見下ろして、インスタントスター気分だ。昔から、バンドをしていたときもしていなかったときも、他人から見つめられることに慣れていた。特別目立つことをしているわけじゃない、むしろ地味な方だと自分では思っているんだけど、なぜか他人は僕を見る。それを意識し始めた頃は、イヤでイヤでしょうがなかった。お前は異端児だ、ほかの人間と同じように振舞っていても、それは隠しきれていないんだと言われているように感じて、いつも背中をまるめていた。だけどそんなことにもいつしか慣れてしまって、見られていることが当たり前になってしまった。今では無視されることがなんだかヘンで、落ち着かない。エラくなったもんだ、僕も。
そんな僕を彼女はあっさりと無視した。みんなが僕を見ている中、彼女だけが、どこか遠くの方を見ていた。気になって、視線の先を追ってもなにもなくて、それが僕には不可解で、どうしても彼女から目が離せなかった。自惚れているわけじゃないけど、特になにか他に目的のものがないとき、意識的に視線を外さない限り、誰でも僕を見ずにはいられないんだ。だけど彼女は、とても簡単に僕を無視した。すごく新鮮だった。そんな仕打ちは初めてだったんだ。たったそれだけのことで、僕は彼女に恋をしてしまった。
「そっか、キリちゃん郁弥と会ったことなかったんだ」
「うん、でも話はたくさん聞いたよ。一時ケンちゃんって友達ひとりしかいないのかと思ったもん」
「ひっどいなぁ・・・まあこいつとは長いからねぇ。高校からだから・・・かれこれもう十年近いもんね。なあ、郁弥?」
「ああ、そうだね」
四人で話しながら、僕の気持ちはだんだん冷めていった。今目の前にいる彼女が、なぜか気に食わなかった。見ているとイライラする。
「買ってきたよーん」
買い出し部隊が帰ってきて、急ににぎやかになった。彼女は麻ちゃんと話している。麻ちゃんの隣には、カレシのカズくんもいる。さっきよりももっと、僕は彼女にイラついていた。親しい人達と一緒にいる彼女は、なんだかとても無防備で、どこにでもいる普通の女の子だった。僕が見惚れていた彼女は違う。みんなが友達連れのライブハウスにひとりきりで、それでも背筋をしゃんと伸ばして孤高を保っていた。それが今はなんだよ。実のない会話に笑って、当たり障りのない言葉ばかり吐いて、ホントは楽しくなんかないくせに。僕の彼女はそうじゃないんだ。こんな会話くだらないと言って、まわりの空気を凍らせるような、とても魅力的な傲慢さを持った女の子なんだ。つまらない、ただ顔がキレイなだけの女の子にはなってほしくない。
だけどそれは僕のワガママで、ホントはそんなこと思う権利なんて僕にはないんだ。わかってるよ、そんなこと。
僕はみんなと離れたところで、いじけた気分でビールを飲んでいた。ああ、酒までまずい。
「フーミヤくーん、飲んでるかーい?」
冷えたビールを僕の頬にくっつけて、マミヤくんが笑う。
「オレもうベロベロよ」
「マミヤくんいつもじゃん。あれやらないの? 木の上登ってさぁ、枝揺らして、桜吹雪~って」
「えー、もう酔っ払ってるから今日はできないよぉ。枝から落ちちゃうもん」
「サルも木から落ちる、だね」
薄闇の中、桜が白く浮かび上がって、月の光がマミヤくんの顔を照らす。
「桜はさ、やっぱり夜に限るよね」
マミヤくんが桜を見上げてつぶやく。うん、と僕はうなずいた。
ビールの軽い酔いがまわる。マミヤくんが隣に来てから、さっきまであんなに僕の中でくすぶっていた彼女への苛立ちは、いつの間にか消えていた。そうだ、たいしたことじゃない。どうせ僕は彼女の外見が好きなだけで、中身は関係ないんだ。ブラウン管のアイドルに熱をあげるのと一緒だ。だったら彼女がなにを喋ろうが、なにで笑おうが、どうでもいいじゃないか。
「そういえば郁弥くん、アヤちゃんが泣いてたよ」
「え? なんで?」
「なーんかねぇ、この前電話でさ。博愛主義者もいいけどさぁ、もうすこしかわいがってあげなよ。郁弥くん今なに人オンナいるの? アヤちゃんすらわかんないって言ってたよ。まったく、この女泣かせ」
「ふーん・・・アヤちゃんそんなこと言ってたんだ」
煙草に火をつけながら、やっぱり女の子って面倒くさいな、って思っていた。カノジョじゃなくてもいいから、一番じゃなくてもいいからって言うからつきあったのに、後からそんなことを言われても困る。女の子との約束は信じちゃいけない。クルクル変わって、まるで万華鏡だ。
なんだかなぁ、サエない。ほかの女の子にも、まったく同じことを言われた。わたしだけを見て、ほかの子とは会わないで。求めるばっかりで、望むようにならないのは自分が悪いんだってどうして気づかないんだろう。ほかの子なんて目に入らないくらい魅力のある子なら、僕だってちゃらちゃら遊んだりしないよ、きっと。
「郁弥くんも大変だね。でも自分で蒔いた種だし、自業自得かな」
「ひどいなぁ」
「郁弥~、あっちのみんながいぢめる~」
ビールで顔を真っ赤にしたケンが、泣き真似をしながらこっちに歩いてきた。ケンの後ろから、麻ちゃんやカズくんの笑い声が聞こえる。
「ヒドイんだよ、マミヤくん。キリちゃんまでオレのことサルだって。ヒドイよね、ね?」
「あー、そりゃしょうがないよ、事実だもん」
「郁弥、もうお前なんて友達じゃないよ。明日からは他人同士だ」
「もともと他人だって」
僕はわざと冷たく突き放すような言い方をした。別にそんなに深い意味があったわけじゃない。僕達の間では、ごく普通の会話だ。でもちょっと今のはキツかったかな? ひょっとしたらシャレにならないかもしれない。僕はちらっとケンの表情を伺った。ケンは泣き真似をやめて、ふんっと口を尖らせた。
「そう、わかった。もういいよ。オレの気持ちなんて誰もわかっちゃくれないのさ」
やっぱりケンには通用しないか。僕は笑いを隠すためにうつむいた。ケンのこういうところが好きだ。僕の冗談は、あまり他人にはわかってもらえない。
「あーあ、そういう言い方に女の子は泣いてるんだよぉ」
「マミヤくん、違うよ。これは郁弥なりの愛情表現なんだよ」
「なんだよ、それ? あー、ヤだなぁ」
マミヤくんは呆れたように肩をすくめて、麻ちゃん達に向かって「助けて~」と笑った。麻ちゃんとカズくんはそれを見て大笑いしていたけど、彼女はなにやら心ここにあらず、といった瞳で遠くを見ていた。それは、僕が彼女に求めていたイメージそのままの姿だった。さっきまでのみんなと笑いあってる彼女の姿はもうそこにはなかった。まるで砂漠の中でオアシスの蜃気楼を見ているような、渇いた、満たされない表情で彼女は遠くを見つめていた。みずみずしい緑の上で、彼女はどうしてあんなに渇いているんだろう。だけどそれが彼女だ。まわりの風景ごと切り取って、ポケットにしまいこみたかった。それくらい、今の彼女は美しい。僕は目を閉じて、ひとり荒野で立ち尽くす彼女の姿を思い浮かべた。
「――ない?」
マミヤくんの言葉で、僕は現実に引き戻された。
「え?」
「え? じゃないよ。飲みが足りなくないかって言ってるの。郁弥くん全然飲んでないじゃん。なーんかさぁ、さっきからオレばっか飲んでるんだもん。つまんないよ」
「ああ、でもこいつ顔に出ないタイプだから。さっきから見てると結構飲んでるよ。な?」
「うん、でもここらへんに転がってる空き缶の七割はマミヤくん産だけどね。マミヤくんのペースに合わせてたら、それこそ大変だよ」
「なに言ってんの。気合だよ、気合。これくらいダイジョーブ」
まあ、正直なところ、今日はあんまり飲んでない。飲む気になれないんだ。だけど妙に酔いだけはまわって、心地よいんだか気持ち悪いんだかよくわからない。ゆうべの徹夜が効いてるのかな? 僕はぼんやり曇る頭を抱えて、また彼女を見た。彼女の孤高の表情でも拝めば、少しは頭もはっきりするだろうと思った。だけどそこにいた彼女は、またいつもの、普通の女の子に戻っていた。
やれやれ、これじゃ飲まないわけにはいかないじゃないか。
花見の席は、ありふれた情景の中に溶け込んでいった。僕だけを取り残して。
「おい、郁弥、大丈夫か?」
ケンに揺り起こされて、僕は目を覚ました。いつの間に眠っていたんだろう。ケンと麻ちゃんが心配そうに僕の顔を覗き込む。
「郁弥くん顔色悪いよ。調子悪いんじゃないの?」
頭のてっぺんからつま先へ、砂が落ちるように血の気が引く。ヤバイ。飲み過ぎた。僕はふらふらと立ち上がって、歩き出した。平衡感覚までない。こりゃ相当酔ってるな。
「おい、どこ行くんだよ?」
「ちょっと水飲んでくる。あ、麻ちゃん、ひとりで大丈夫だから」
ふと足元を見ると、ビールの空き缶が1ダースと、日本酒の一升瓶が転がっていた。おいおい、まさか僕ひとりで飲んだわけじゃないよな?
「郁弥くーん、逃げるなよぉ。まだまだこれからじゃーん」
「マミヤ、お前うるさいよ」
マミヤくんとカズくんに手を振って、僕は水飲み場を探しに出かけた。確か、こっちの方にあったはずなんだけど・・・僕は五分ほどうろうろと歩き回って、やっとちゃちな水道を見つけた。蛇口に口をつけてむさぼるように飲むと、サビ臭い嫌な味が口の中いっぱいに広がった。それでも冷たい水はありがたかった。
よし、吐き気は治まったし、だいぶ気分もよくなった。徹夜明けでバイトに入って、また徹夜で飲むなんて自殺行為だ。だけど昨日一緒に飲んでたリョーちんはまだ元気に飲んでるみたいだ。遠くで笑い声が聞こえる。まったく、タフだよなぁ。僕にはとても真似できないよ。
はあ、情けない。酒に飲まれるなんて、高校生じゃないんだから。久しぶりにこんなに酔っ払った。嫌なことを酒でごまかすなんて、芸のない人間のやることだってバカにしてたじゃないか。今日の自分が全然好きじゃない。うじうじしてて、はっきりしなくて、カビみたいだよ、まったく。
嫌な気分のまま酒を飲むと、一番嫌いな自分が顔を出す。飲めば飲むほど落ち込むし、だけどもっと飲めば陽気になれるんじゃないかと期待して、泥沼にはまっていくんだ。ケンやマミヤくんがうらやましい。どうしていつもあんなに楽しい酒が飲めるんだろう。
このままみんなのところに戻る気力もなく、僕は近くのベンチに座り込んだ。空を見上げると、桜の枝の間から星が見えた。普段見る夜空よりずっときれいだった。そのまま見続けていると、宇宙のスクリーンに彼女の顔が浮かんだ。ぼんやりとして表情までは見えないけど、確かに彼女だ。
「大丈夫ですか?」
幻聴かな、と最初思った。いつの間にか、スクリーンの彼女が実体として目の前に立っていた。誰かが近づいてくる気配なんてまったく感じなかったぞ。ゆっくりと頭を起こすと、ぐるぐると視界がまわった。
「ああ・・・大丈夫だけど・・・どうしたの? みんなは?」
「まだ飲んでますよ」
彼女はそう答えて、僕の隣に座った。微かに甘い香りがした。
さっきまでスクリーンの中にいた彼女が、今僕の隣にいる。なんだかすごく不思議な気分だ。スクリーンだと思っていたのは、現実だったのかな。
僕達はずっと黙っていた。僕は僕で、こみ上げてくる吐き気を抑えるのと、彼女がなぜここに来たのかを考えるので精一杯だったし、彼女は静かに月に浮かぶ桜を眺めていた。
軽い貧血がおそってくる。酒のせいか、彼女といる緊張感か、よくわからない。まいったなぁ、女の子といるのに、気の利いたセリフひとつ思いつかない。頭をクリアにしようと、煙草に火をつけようとしたけど、手が震えて上手くつけられない。
「どうぞ」
落ち着いた態度で、彼女が火のついたライターを差し出す。どうも、と口の中でつぶいて、煙草に火をつける。うまいのかまずいのかわからないヤニの味が口の中いっぱいに広がる。
彼女はこんな状況にも動じない。当たり前か。なんとも思ってない人間とふたりきりになったって、別にどうってことないだろう。僕だって普段はそうだ。うろたえてるのは僕だけか。
「みんなのところ、戻らなくていいの?」
彼女は月から目を離して僕を見る。月より遠い。
「わたしがいると迷惑ですか?」
彼女はじっと僕を見つめる。なんだか見ていられなくて、僕は目をそらす。
「そうじゃなくて・・・女の子ひとりだと、危ないかなーって思って・・・」
「郁弥さんがいるじゃないですか」
それもそうだな。僕はなにを言ってるんだろう。これじゃ気の利いたセリフどころか、ただの間抜けだ。
風が吹いて、やわらかな香りを運んだ。いや、運んできたのは香りだけじゃない。
「髪に・・・花びらが・・・」
彼女の指が僕に触れて、僕達は初めて見つめ合った。
僕達は、どれくらの間見つめ合っていたんだろう。彼女の唇が動いて、なにか言っている。目を閉じて、僕達はキスをしていた。しようと思ってしたわけじゃない。どちらからともなく、まるで惹きつけられるような、とても自然なキスだったんだ。彼女の唇はとてもやわらかくて、甘くて、僕の知っている誰の唇よりも冷たかった。
彼女が僕の肩に身体を傾ける。なんだか不思議な気分だ。さっきまでの酔いは遠い宇宙の果てまで吹っ飛び、僕の頭は今までにないくらいクリアだった。僕は少し困惑していた。これが夢ならいいと、何度も思った。だって好きな子とキスしたことなんて初めてだし、これからどうすればいいのかわからないんだ。僕は黙って夜空を見上げた。右肩から、彼女のぬくもりが伝わってくる。星なんて全然見えない。
まいったなぁ・・・
彼女が身体を堅くして、急に僕から離れる。見上げると、僕を見るいつもの冷ややかな表情で、もう立ち上がっていた。
「戻ります」
いったい今のはなんだったんだろう? 僕は声をかけることも彼女を追うこともできず、ただベンチに座っていた。遠ざかる彼女の後ろ姿は、五分前とまったく変わらない。