18
ひとの一生を一本の道に例えるなら、僕と彼女の道は一瞬交わって、そしてまた離れた。交わってそのまま並行に進んでいく道もあるし、湾曲しながら何度も交わる道もある。縁はあった。僕達は出逢った。ただ続けていくだけの力がなかっただけだ。
彼女は髪を切った。細い首筋がむきだしになって、なんだか前よりずっとかよわく見えた。やわらかな笑みを浮かべてマミヤくんに寄り添うようにたたずむ彼女は、本当に別人のようだった。僕が惹かれた彼女の面影はもうそこにはない。顔つきが変わって、笑い方が変わって、今ではマミヤくんの影でしかない。
そんな彼女を見ていると、僕は決まって泣きたい気持ちになる。精一杯虚勢を張って、たくさんのものを犠牲にして彼女が築いた高い城壁は、あのアッシャー家のように一瞬にして崩れ去った。彼女は破片を拾い集めようともしない。ガラスのような瞳でじっと見つめるだけだ。彼女を見ても、もう哀れみしか感じなくなった僕も、大切なものを失くしてしまった。
あの公園での決裂以来、ケンは僕の顔を見ない。今までも何度か言い争いのようなものはあったけど、次に顔を合わせたとき、ケンは必ずなにもなかったかのように笑って僕に話しかけた。だけど今度は違う。マミヤくんやカズくん達と会っていても、僕達は一度も目を合わさない。ケンはあっさりと僕を無視する。あんなことを言ったんだ。それは当然だと思うし、僕がとやかく言えることではない。覚悟してたことじゃないか。
最初のうち、みんなは僕達を腫れ物にさわるかのように接していたけど、この頃はだいぶ慣れてきたようだ。まあそんなものだ。みんな他人のいざこざをいつまでも気にしてなんかいられないだろう。僕だってそうだ。他人のことより自分のことが一番大事なんだよ。
ケンとマミヤくんは、必要以上に親しくしようとしている。まるでボロボロの帆で航海の旅に出ようとする船のように。その努力は無駄じゃないだろう。互いに歩み寄る気持ちがあれば、どれほど深い溝だってすぐに埋まるはずだ。ふたりもそう信じているんだろう。それはとてもいいことだと思う。だけどマミヤくんは、僕にも同じ気遣いを見せる。
「郁弥くん、うちのバンド来ない? ちょうどサックス入れたいなぁって思ってたんだよね」
僕のバンドは音楽的にも動員的にもようやく軌道に乗り始めた頃に解散した。上手くいきそうなものに興味が持てない、僕の悪い癖だ。フリーになった僕を、マミヤくんが自分のバンドに誘ってくれた。遊び程度にはサックスは吹ける。だけど僕は断った。マミヤくんの気持ちはうれしかったけど、しばらくは誰とも組むつもりはなかった。
自己中心的で、本当は共同作業に向く人間じゃないのに、みんなとワイワイ騒ぎながらなにかを創ることは楽しくて、僕はまわりに甘えていた。バンドは好きだ。ひとりで創るよりも、みんなで創った方がすごいものができると信じている。だけどそれはひとりの淋しさをまぎらわすためのものじゃいけないんだ。だから僕は断った。マミヤくんは残念そうな顔をしたけど、それ以上無理強いすることはなかった。
だけど僕はまだここにいる。見られる側から、今度は見る側に立場は変わってしまったけど。
ライブハウスが揺れる。余韻を残して音が消えると、足元の揺れも静かに消える。
ステージの上では、ケンとマミヤくんが楽しそうに歌っている。カズくんが汗まみれになりならが、それでも笑顔でカウントを刻む。セッションバンドとは思えないほど、三人の息はぴったりだ。もしかしたら、あそこで歌っていたのは僕だったかもしれない。僕も歌ってるときはあんな表情をしていたのだろうか。本当に楽しそうな三人を見ていると、ほんの少し自分の捨てたものを悔やんだ。まあしょうがない。自分で選んで捨てたものだ。
「おーい、郁弥くん。ちょっと、ちょっと」
マイクを通してマミヤくんが僕を呼ぶ。
「楽しいことしようよ」
今までステージを見ていた人達が、いっせいに僕を振り返る。久しぶりの浴びるような視線に、僕は少し戸惑った。
ここで呼ばれるということは、飛び入りでなにか歌えということだろう。きっと、最近人前で歌ってない僕のことを、マミヤくんなりに考えてくれたんだ。カズくんもドラムセットから立ち上がって、手招きをしてくれる。僕は無意識にケンを気にするような仕草をしていたんだろう。
「いーからおいでって」
ケンは客席に背を向けて、アンプをいじっている。僕はため息をついて、ゆっくりとステージに歩いていく。
「早くー。みんな待ってるんだからさぁ」
マミヤくんに腕を引っ張ってもらって、久々にステージに上がる。ケンはうつむいたままチューニングを続ける。
「大丈夫。ケンくんちゃんと知ってるから」
僕の気持ちを察してか、マミヤくんがケンに聞こえないように耳打ちする。ううん、別に、と僕は中途半端な笑顔を浮かべる。
一通り客席を見回してみて、ああ、ここのステージはこんなに高かったのかと、少し驚いた。ここが自分の場所だったときは、そんなことまったく気づかなかった。
スポットライトが真正面から僕を照らす。まぶしくて、思わず目を細めた。もう一度客席をぐるっと見回す。懐かしい、みんなが僕になにかを期待する顔だ――僕の視線がとまって、一瞬僕は自分の目を疑った。
フロアの真ん中に僕を見つめる彼女の姿を見つけた。まっすぐな、泣きそうな瞳で僕を見つめている。ゆっくりと、僕の中から世界が遠ざかる。
なんだ――僕も彼女も間違ってたのか。どんな人込みの中でも、彼女が僕を見ても、僕は彼女を見つけるんだ。まわりなんて関係なく、僕は彼女を見つけられるじゃないか。こうやって、ここに立っていても――
「郁弥くんなに笑ってんの?」
いままで見えなかったもの、見えていても見えないフリをしてきたことが、いま僕の瞳に鮮やかに映る。それはとても豊かな色彩の、おだやかな情景だった。どこまでも続く黄金色の草原、秋の風が草の上を吹き抜ける。その向こうから、少年と少女の影が僕に手を振る。ふたつのちいさな手は堅く結ばれ、少女は帽子を風に飛ばす。その陰は僕と彼女だった。
僕達は大人になるにつれ、何かを手に入れ、その代償として自分の手の中のものを少しずつ手放してきた。少年は僕に忘れ物の存在を教える。手放していけないものをあっさりと捨ててしまった僕を必死に呼ぶ。だけど僕にはそれがなんなのか、いつどこで失くしてしまったのかさえ思い出せない。自分がなにかを失くしたことにすら、僕は気づいていないんだろう。少年は何度も僕に手を振る。だけど僕にはその声が聞こえない。
僕はもっと早くみんなと出逢うべきだったんだ。生きていくための知恵を身につける前に、大切な、まだ形にならないものを失う前に。そうすればすべて変わっていただろう。僕はずっと音にならない声で叫んでいたんだから。僕はずっと、たくさんの手が僕に向かって差し伸べられることを待っていた。そんなものはいらないと突っ張っていたのは、知恵をつけてしまった僕だった。
少年が幸せそうに笑う。つられて少女も笑う。楽しいことがあれば素直に笑えばいい。だけど僕は笑い方を忘れていた。
「『ロージー』ね。歌えるでしょ?」
マミヤくんが僕に耳打ちする。うん、とうなずいて、僕はマイクの位置を直す。涙ぐんだのはライトのせいだ。
「いいよ、ケン」
ケンは少し驚いたように顔をあげて、あの日以来初めて僕の目を見た。僕は今度こそまっすぐケンの目を見れただろう。
「はい、じゃー、いってみましょー」
とマミヤくんが笑って、懐かしいイントロをケンが弾きはじめる。僕達ふたりが初めてコピーした曲だ。忘れるわけがない。ケンのギターはあの頃とちっとも変わらない。僕はもう一度ケンに笑いかけ、マイクを強く握った。
これからも、僕は人生にたくさんの選択を迫られるだろう。そのたびになにかを得て、なにかを手放していく。生きていくというのはそういうことだ。選んでしまったものはもう取り消せない。僕はそれを否定するつもりはないし、あるがままに受け入れるつもりだ。
すべてのものが日々変化する。時は流れて、季節は移って、僕もどんどん変わっていく。激しい濁流の中で、大切な、忘れてしまったものと再び出逢えることを、心の片隅で祈りながら。
それは遠い憧憬だった。