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遠い憧憬  作者: あかり
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 ケンと僕の決別の噂は、またたく間に広まった。誰のライブへ行っても、どこへ遊びに行っても、心配顔の人々が僕を取り囲んだ。どうやらケンは誰にも理由を話していないみたいだ。おかげですっかりあいつが悪者になってしまっている。カノジョの自殺未遂の、やり場のない怒りを僕にぶつけたと、世間は解釈しているようだ。僕もなにも言わなかった。

 僕は今、二十何年間つきあってきた自己が音を立てて崩壊したおかげで、新たな自己確立に取り掛かっているため、世間の評判や自分以外のことなんて考えられなくなっていた。人前で流す涙がこんなに自分を混乱させるものだなんて思わなかった。大切なものを切り捨てるとき、自分の肉を切られているような痛みを感じるということも、この歳になって初めて知った。

 ヘンに同情心を見せて近づいてくるヤツ、僕をうざいほど肯定するヤツ、否定するヤツ、そういう人間は相手にしなかった。なにかあったときに近づいてくる人間を僕は信用しない。あるがままの僕をあるがままに受け入れてはくれない人間を、僕は必要としない。

 本当に必要なものなんて、ほんの一握りしかないんだ。ひとも、ものも、形あるものもないものも。必要ないけどあると安心するもの、無駄だとわかっていても捨てられなかったもの。人間は意外と、自分の心と身体さえあれば生きていけるのかもしれない。




 部屋に余計なものがある。見るだけで僕を不快にさせる。ろくでもないものだ。あるべき場所に返さなきゃいけない。これは僕が処分するものではない。

 彼女が持っていた写真は、あの夜のまま、無表情に僕を見返す。




 写真をコートのポケットに入れて、冷たい雨の降る中、僕は彼女の家へ向かった。入院は数日で済んだと、噂に聞いた。

 この写真さえ返してしまえば、すべてなかったことにできる。彼女に関することは全部、僕は忘れてしまうだろう。ケンやマミヤくんのことは、少しだけ残念だ。まあまた縁があれば会えるし、なければないなりに、僕は新たな人と出会っていくだろう。ケンやマミヤくんの代わりはいないけど、友人の代わりはいくらでもいる。それよりも、わずらわしいことは全部捨てて、ひとりになってみるのもいいものだ、きっと。

 たった一人の人間にここまでペースを乱されて、なかなか僕も情けない。それだけ好きだったのかと聞かれたら、僕は違う、と答えるしかない。そういう時期だったんだ。確かに彼女のことは好きだったけど、それは僕に振り向かない彼女で、裏を返せばただの自己陶酔だ。僕は報われない恋に身を投げる自分に酔っていただけだ。

 感情を分析するなんて、なんてつまらないことなんだろう。好きなら好き、嫌いなら嫌い、なぜそれだけで満足できないんだ。カッコばかりつけようとして、理屈で武装して、それだけしても素直に衝動だけで突っ走る人間には敵わないと思ってるくせに。見せたくない自分をあそこまでさらけ出した彼女の方がよっぽど立派だ。

 電車の窓に映る僕の顔は、吹きつける雨のせいでまるで泣いているように見えた。


 彼女の家の前に立ったとき、初めて人前で歌ったときのように足が震えた。僕はゆっくりと呼び鈴を鳴らした。はーい、と応える声と、パタパタと鳴るスリッパの音。僕は目を閉じて大きく息を吸った。

「マミヤさん? 早いじゃない。どう――」

 彼女の笑顔が一瞬強ばる。怒ったように眉を上げて、次の瞬間泣きそうな瞳で僕を見上げて、急に我に返ったように作り笑いを浮かべる。

 僕は情けない気持ちでいっぱいだった。すべてを自分で暴露してしまった後まで、どうしてポーズを作る必要があるんだ。そんなに僕を見下す笑みを浮かべても、必死に手の震えを隠しても、僕のポケットにある写真は取り消せないんだ。

 だけど、それが彼女だ。僕はゆっくりと目を閉じた。

「出直しましょうか?」

 言葉と一緒にため息がもれた。彼女はスリッパをそろえながら、え? と僕を見上げる。

「マミヤくん来るんでしょ? だから――」

「まだ時間あるから大丈夫ですよ。それに、わざわざ訪ねてきてくれたってことは、なにかわたしに用があるんじゃないですか?」

 どうぞ、と手で僕を招きいれて、彼女はキッチンへ消える。

「コーヒーでいいですか?」

「あ、すぐ帰るから」

 初めて入る彼女の部屋はどこか殺風景で、僕に病室を思い出させた。ベッドとテーブルと、大きな家具はそれしかない。

「なにか珍しいものでもありました? 女性の部屋なんて見飽きてるでしょう」

 いらないと言ったのに、彼女はコーヒーカップをふたつ持って、テーブルに置いた。

「どうぞ、座って」

 僕は写真の破片をテーブルの上に投げた。彼女は不思議そうに自分が握り締めていた写真を見つめて、不意に笑った。

「感想は?」

 胃のあたりが急にむかついて、吐き気がした。感想は? ときたもんだよ。なんだよ、それ。そんな余裕のある態度を装って、それがなんになるんだよ。きみは勝ち負けにこだわってポーカーフェイスを気取ってるのかもしれない。だけど僕はきみとゲームなんかしてるつもりはまったくないし、だいたいきみは僕にカードを配ったか?

 彼女は煙草に火を点けて、ゆっくりと煙を吐き出す。こめかみのあたりがズキズキ痛む。僕はまた目を閉じた。

「正直に言うよ」

 どうぞ、と彼女がうなずく。相手を傷つけるとわかってる言葉を、わくわくしながら言う人間はいないだろう。僕だって嫌だ。だけど逃げてるだけじゃなにも変わらないし、僕はもう終わりにしたいんだろ?

 僕は大きく息を吸い込んだ。彼女が身体を硬くするのがわかった。さあ、攻撃開始だ。

「意味がわかんなかった。なんでオレの写真持ってたのか。だけど、それを知ってオレがどう思ったのかはわかる。とにかく、これ以上オレを巻き込むのはやめてくれ。迷惑だよ。興味ないんだ。あんたもわかってると思うけど、オレはあんたのことをなんとも思ってないし、これからもそれは変わらないよ。あんたがいくら薬を大量に飲もうが、死なない程度に手首を切ろうが、すぐ発見されるようにケンに電話しようが、ケンが僕に渡すだろうと思って写真握り締めていようが、オレには関係ない。なんとも思わない。みえみえなんだよ。今だから言えるけど、あんたの見てくれは好きだったよ。だけど中身は最低だ。過剰包装のまんじゅうよりひどいね。自分を中身以上のものに見せたいなら、もっと上手く演技しろよ。あんたの演技は中身よりひどいよ。自分からわざわざ泥かぶるようなマネして、バカだよ、ホント」

 彼女は僕から目を離さない。彼女の顔にはどんな感情も浮かんでこなかった。ただ無表情に僕を見返すだけだ。泣いてくれ、と僕は強く願った。目を閉じて、五秒数えてまた開けると、彼女は変わらぬ表情のまま僕を見ていた。僕はため息をついた。そうか、泣きたいのはこっちか。

 僕はポケットから煙草を取り出して、ゆっくり火を点けた。気持ちを落ち着かせるためにどうしても必要だった。

「もうオレのまわりをウロチョロするのはやめてくれ。どんなにがんばったって、あんたの望むようにはならないんだよ。それくらいわかってるんだろ? だから――」

「言いたいことはそれだけ?」

 彼女は微笑む。唇を半月のように吊り上げて、でも目は笑っていない。僕は灰を灰皿に捨てて、肩をすくめた。

「忘れた。もっとあったかもしれないけど、もういいや」

「やっと敬語じゃなくなったのね」

 美しい仕草でコーヒーカップを手にとって、彼女はまた微笑む。

「もし、わたしがあなたの望む通りにしなかったら――?」

 なんて醜悪なんだ。部屋の中を重苦しい沈黙が垂れ込める。彼女の目を見て、僕も笑った。

「どっちでも一緒だね。僕はきみを見ない。きみは僕の世界ではいない人間なんだ。そんな人間になにもすることはないよ」

「しなくちゃいけなくなったら? 例えば、わたしがまだあなたの大切なものを壊そうとしたら? あなたはどうするの?」

「さあね。そんなの知らないよ。それに――」

「それに?」

「きみには壊せないよ」

 僕の胸に、彼女の渇いた笑い声が突き刺さる。どうして僕はこんな彼女を見ていなくちゃいけないんだ。僕は目を閉じて、新しい煙草に火を点けた。

 沈黙を切り裂くように、呼び鈴が鳴り響く。部屋の空気が凍ったように、僕達は動きを止める。僕より一瞬彼女の方が動き出して、立ち上がり玄関に向かう。

「あれー? 誰か来てるの?」

 慣れた様子で部屋へ上がるマミヤくんが、僕を見て笑う。

「なーんだ、郁弥くんか。誰かと思っちゃった」

「久しぶり・・・」

「ホントだよね。元気だった? タケちゃん達は? 元気?」

 マミヤくんの後ろで、彼女は所在なさげに立っている。僕は吸いかけの煙草を灰皿に捨てて、

「じゃあマミヤくん、オレ帰るね」

「なんで? もう用済んだの?」

「うん。カズくん達によろしく」

「じゃあ、駅まで送るよ」

 彼女の横を通り過ぎる僕にマミヤくんは声をかける。

「キリちゃんちょっと待ってて」

 まだ雨が降っている。僕達は肩を並べて、無言で歩いた。マミヤくんといることがこんなに気づまりだと思ったことは一度もなかった。もうダメかな、と思ったら、少し哀しくなった。マミヤくんはうつむく僕を見て、笑った。

「郁弥くん元気出せよ」

 僕は足を止めてマミヤくんの顔を見た。マミヤくんは照れたようにまた笑って、傘を軽く揺らした。

「郁弥くんのとった行動は正しいと思うよ。だからもっと胸張りなよ」

 と言って、マミヤくんはまた歩き始める。

「誰も悪くないんだよ、きっと。オレは神様じゃないからわかんないけどね。誰もこいつが不幸せになればいいとか祈ってたわけじゃないんだしさ、わざわざ傷つけようとも思ってないんだし。無責任な言い方かもしれないけど、なるようになった、って感じ?」

「ホントにそう思ってんの?」

 マミヤくんは僕を振り返って、不思議そうな顔になる。

「うん、思ってるよ。なんで?」

「むかつかないの? オレだったらむかつくよ。絶対笑ってなんて話せない。オレのことも彼女のこともケンのことも、絶対許さないよ。違う? オレって心狭い?」

 雨が降っていてよかった。傘に隠れて僕の顔は見えないだろう。自分が意地悪い、醜い顔をしているのがわかる。どうして言いたくないこと、見せたくない自分ばかりが出てくるんだろう。もう嫌だ。ひとを不快にさせることしかできないのなら、ひとりで生きていく方がましだ。淋しいかもしれないけど、傷つける痛みは感じずに済むだろう。

 ポケットから煙草を取り出して、マミヤくんは片手で器用に火を点ける。ふーっと煙を吐いて、ニヤッと歯を見せて笑う。

「郁弥くんて正直者。そりゃオレだってヤだけどさぁ、誰か責めてもしょうがないじゃん。キリちゃんが郁弥くんのこと好きだったこと知ってて、あてつけでケンくんとつきあっちゃうような子だってわかってて、それでもキリちゃんを選んだのはオレでしょ。自己責任ですわ、ホント」

 間断なく降り続ける雨と、煙草の煙のスクリーンに浮かぶマミヤくんの表情は見えない。

「だけど責めたい気持ちはあるでしょ? 頭で割り切れてても、気持ちがついていかないことってあるじゃん。人間なんて理不尽な生き物なんだから・・・」

「うん、そうだね。だけどホントにオレはひとのせいにはしたくないだ。一度そうやってひとに預けて逃げちゃうとさぁ、それが癖になりそうで。楽な方へ楽な方へいきたがるヤツだからさ、一度逃げること憶えちゃうとダメなんだ――なーんちゃって、カッコつけすぎ?」

 マミヤくんは照れたように笑って、煙草を投げ捨てる。僕はなにも答えなかった。こんなことを言われて、いったいなにが言える? 恥ずかしさで胸がいっぱいだった。

 面倒をひとに預けて逃げ出すヤツ、それは僕だ。もちろんマミヤくんは僕へのあてつけで言ったわけじゃないだろう。だけどその言葉は僕にはとても痛かったし、胸に響いた。そうだよな、逃げちゃいけないよな。僕はいままで自分は本当はなにから逃げているのか、まったくわかっていなかった。彼女や、ケンや、自分を取り巻く状況から逃げていたわけじゃない。僕は自分と、背負わなければいけないものから逃げていたんだ。背負える自信がなくて、いつも気づかないフリをしてきた。

「最初はさ、そんなに本気じゃなかったんだ。キリちゃんのことは前から好きだったけど、小夜もいたしね。ちょっとちょっかいだしてやれって気持ちだった。だけどいつの間にかハマっちゃってさぁ。小夜とは別れるし、ケンくんとは気まずくなるし、策士策におぼれる、ってこと?」

 僕はいつも、自分はダメな、なんの価値もない人間だと思ってきた。だけどだったらなぜ、そんな自分を変えようと思わなかったのか。僕はただ甘えていただけなんだ。こんな僕にも仲間はいる、好きになってくれる人だっているんだとまわりに甘えてきた。それじゃダメなんだ。自分が変わらなければなにも変わらない。状況の変化を望むなら、まず自分が動くべきなんだ。マミヤくんはそれを実践している。敵うわけないよな、と僕は笑った。

「あー、ひとの話聞いて笑う? しかもこんな真面目な話のとき。郁弥くんひょっとしてオレに挑戦してる?」

「いや、ちゃんと真面目に聞いてるよ」

 意識せずに思わずこぼれる笑いなんて久しぶりだ。まだ笑い続ける僕を見て、マミヤくんも笑う。笑いながら、僕はまた泣きたくなった。

 ここでいいよ、と交差点で別れて、僕はひとつの季節にピリオドが打たれたことを感じていた。風が変わり、緑が変わり、僕はもう振り返らない。失敗や後悔は今日この場所に捨てる。そして僕は歩き出す。

 後ろ髪を引くように、遠くから彼女の声が聞こえたような気がした。

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