16
部屋に帰ってから僕がまずしたことは、ぐちゃぐちゃになった写真を破って、ばら撒くことだった。本当に、なにもかも投げ出したい気分だった。細かくちぎれた写真はハラハラと宙に舞い、音もなく床に落ちた。僕の足元に散らばる、彼女にとっての僕の分身達。僕は目を背けた。
切れかかった蛍光灯がチカチカと瞬く。僕は一瞬視力を失って、まぶたの上から強く目を押さえた。ぐしゃぐしゃになった自分の笑顔がまぶたに焼き付いて離れない。
あの写真になんの意味があるんだろう。彼女は死ぬつもりだったのか? 死ぬ間際に、僕の写真を持っていたいと思ったのか? 彼女がどうしたかったのか、考える頭もない。なにも残っていない。彼女が僕の大切なものを奪い去った。ささやかな、僕自身にすらなにを意味するのかわからないちっぽけな僕のかけらまで、彼女の手に握りつぶされてしまった。
彼女の逃げ足は速い。薬を飲んでちょっと手首を切るだけでいいんだ。僕は彼女が残していったガラクタを手に、足がもつれて彼女を追うこともできない。
急に寒気がして、僕は身震いした。気がつけばシャツ一枚で、ストーブもつけていなかった。どうりで寒いはずだ。エアコンを入れて、分厚い毛布にくるまった。隣の部屋の深夜テレビの音が、薄い壁を通して聞こえてくる。ケンからの留守電を聞いたのが、もうずいぶん前のことのように思える。まだ夜は明けない。このまま朝が来なくても、僕はまったく気にしないだろう。僕の光は閉ざされてしまった。
吸いかけの煙草が灰皿の上で長い灰になる。カップにもまだコーヒーが残っている。冷めたコーヒーを飲み干して、新しい煙草に火を点ける。
なんて意味のない夜だったんだ。あのぐしゃぐしゃの写真を見せるため、彼女は薬を飲んで手首を切ったのか? バカげてる。彼女の気持ちにはとっくに気づいていたし、ケンやマミヤくんの考えていることなんて、今の僕にはどうでもいいことだった。だってそうだろ? そんなことに気づいたからって、僕になにができるんだ?
まったく意味がない。彼女は意思の伝達方法をまるで学んでいないのか。これじゃなにも伝わらない。愛してほしいという気持ちなら、受け入れるなり拒絶するなり、対処法はいくらでもある。嫌いだ、顔も見たくないというなら、僕はその通りにするだろう。彼女はどうしてほしいんだ? 自分は苦しんでいた、ケンもマミヤくんもやさしくしてくれた、僕はなにもしなかった。だったら僕にしてほしいことを、自分の言葉でちゃんと言ってみろ。なにも僕に言わなかったのは、自分じゃないか。言葉にしなきゃ伝わらないことだってあるんだ。ムシャクシャする。
だいだい、あいつらもあいつらだ。僕にはマミヤくんの行為もケンの行為も決して肯定できるものじゃない。むしろふたりを責めたい気持ちでいっぱいだ。
マミヤくん、助けてあげたいと思ったなら、どうしてもっと根本的な意味で助けてあげなかったんだ。彼女の非創造的な行動に力を貸すよりも、破壊的な行為をしそうなときに一緒にいてあげた方がもっと有効だっただろう。僕なんてくだらない、そんなに必死になって手に入れるほどの男じゃないとわからせてあげるだけでも、彼女はずいぶん救われていただろう。たしかに大変だと僕も思う。大量服薬や自傷行為がそう簡単に治るものじゃないということはわかってる。その手助けをするよりも、彼女の行動を支援してそばにいる方がずっと楽だろう。だけどそんなのなんの解決にもならないじゃないか。助けようという努力もせずに、助けてあげたいなんて言う資格はない。そんなのただの自己満足でしかない。彼女に賛同するだけだったら誰にでもできる。
ケンもケンだ。僕にこの写真を渡して、それでどうするつもりだ。彼女の代わりに、気持ちを伝えてあげたつもりか? 自己犠牲のヒロイズムかい? 彼女が、お前がこれを見つけて僕に手渡すとまで予測して、それでお前に電話してきたとは考えないのか? そんな打算的な人間に、どうしてお前が義理立てしなきゃいけないんだ。破り捨てちまえばよかったんだ。お前だって見たとき、そうしたかったはずだ。なあ、そうだろ?
僕は確かに身勝手な人間だ。だけどこんな形で、第三者をまじえて逃げたり押し付けたりはしなかったと思う。僕の身勝手は僕のささやかな、どれだけ大きくなっても僕と相手だけのちいさな世界でだけのことだった。誰にも迷惑はかけたくない。ひとと距離を置くのも、あまり感情を表に出さないのも、みんな、僕の身勝手で住み心地のいい世界を壊したくなかったからなんだよ。ケン、マミヤくん、それをちゃんとわかってくれよ。
吐き気がする。足元にちらばる写真の破片を拾い集めて、さらにビリビリに引き裂きたい。こんなものがなにになるっていうんだ。わかるやつがいたら教えてほしいよ、まったく。
テーブルの上の灰皿を思いっきり壁に投げつける。期待していたような破壊音はなく、ゴンッ、と鈍い音がして灰が飛び散っただけだった。やり場のない怒りにかられて、僕は頭をかきむしった。呼吸が速い。心臓が何倍にも膨れ上がったみたいだった。
世界を破壊したい。ダイナマイトでも原爆でも、なんでもいいからこの世界を破壊してくれ。僕も世界も、彼女も彼も、すべてを吹き飛ばせ。こんな世界もういらないよ。なにも生み出さないなにも変わらない。苦しむだけじゃないか。だったら壊しちゃえ! パンク・ムーブメントから四十年。やっとジョニー・ロットンの気持ちがわかった。デストロイだ、まったく。
鏡の前で、五年ぶりに髪の毛を立てた。
ジョニー・ロットン、あんたも世界に失望してたんだろ?
時は過ぎゆく。僕の抜け殻と、彼女の気持ちを置き去りにして。
過ぎていく時間と共に、僕の、彼女に対する怒りもだんだん治まっていった。あの写真は、まだ部屋中に散らばったまますがるような瞳で僕を見上げる。壁にもたれて、僕は今も彼女のことを想っている。
あれだけの失望を経験しても、僕はまだ彼女のことを想っている。大半の非は僕にある。僕が目を閉じて、耳をふさいでいたから、彼女の声は行き場を失くして自分自身に向かった。僕がしっかり受け止めていたら、彼女はあんな愚行には走らなかっただろう。僕のせいだ。
彼女はきっと後悔したのだろう。だからケンに助けを求めたんだろう。泣きながら、死ぬのは怖い、と繰り返したのは、彼女の精一杯の懺悔だ。
ケン――病院で別れて以来、あいつとは一度も会ってない。会う機会がないというよりも(当たり前だ。こんなときに機会もなにもないだろう)、避けられているように感じる。二、三度電話もしてみた。そのたびに留守電の冷たい声が聞こえた。僕はメッセージを入れることもできず、そのまま電話を切る。
これくらいのことで終わってしまうのだろうか。あいつも僕も、最後まで自分の言いたいことのひとつも言えずに離れていくのか。一緒に過ごしたこの長い年月が、今はやけに虚しい。一番近いと思っていた人間が、実は一番遠かったなんて、いままで僕が受けてきた拒絶の中で、一番痛い。
いや、このまま終わっていいはずがない。僕はまだケンになにも言われていない。どんな態度でもいい。殴られたってかまわない。僕はケンの言葉を受け止めなければいけないんだ。それが、傍観を気取っていた、僕のせめてもの償いだ。
ケンに会わなくちゃいけない。
バイト先に訪ねていった僕を見て、ケンは卑屈に目を逸らした。
「電話、着信残ってなかったか?」
ケンは黙って客がぐちゃぐちゃにしていった洋服をたたんでいる。僕の目も見ない。
「ちょっと話がある。もう昼休みだろ?」
無視されても諦めない僕にため息をついて、ケンはゆっくり僕を振り返った。
「キーちゃん、ちょっと外出てもいい? すぐ戻ってくるから」
どんよりと曇った空は、今にも泣き出しそうだった。繁華街の公園ではスケボー少年が一心不乱に練習している。
並んでベンチに腰掛けて、ケンは煙草に火を点ける。
「なーんかパッとしない天気だなぁ」
大きく後ろに反り返って、ケンは空を眺める。だけどそんな態度ほどにリラックスしてるようには見えなかった。
「あ、そうだ。郁弥『24アワー・ピープル』のDVD持ってたっけ? なんかまた観たくなっちゃってさぁ・・・」
ケンは僕の視線に気づいて言葉を切る。僕は無表情にケンを見ていた。どう話を切り出せばいいのか、ケンになにを言えばいいのかわからずに、僕は自分自身に腹を立てていた。ずっと能面のような笑顔で生きてきて、僕は自分の言葉を失くしてしまった。
急にケンは立ち上がる。大きく伸びをして、ポケットに手を突っ込む。
「そんな顔するなよ」
風が最後の葉を運ぶ。ケンは僕を振り返って、いつもの顔で笑う。
「こんなこと気に病むようなつきあいじゃないだろ?」
いつもケンは僕がそれ以上言えないように先手を打つ。いつもそうだ。だからこそ僕達の関係は続いたんだろうし、だからこそなんの発展もなかったんだろう。
「まあそんなもんだよ。オレだってわかってたしさ。しょうがないじゃん。誰が悪いわけでもないんだよ」
な? とケンはまた笑う。渇いた笑いだ。僕はケンの笑顔を見ていられなかった。
「おい郁弥、お前なにそんなに気にしてんだよ。お前らしくないじゃん」
「オレらしいって、いったいどんなの?」
また煙草に火を点けようとして、ケンは手を止める。
「なに?」
今度はちゃんと目を見れた。ケンは不思議そうな、飼い主に怒られた犬のような目で僕を見つめる。そんな目をしても、僕は引くつもりはないし、害のない友達ごっこにももう飽きた。誰かが壊してくれないなら、自分で壊してやる。
「お前が思ってるオレって、どんなヤツ? 自分本位のワガママ? 友達思いのいいヤツ? 全然わかんねぇよ。オレはお前のこと全然わかんねぇ。なんでそんなにヘラヘラしてられるんだよ。むかつかねぇの? オレのこともマミヤくんのことも、許せないって思わねぇの? オレだったら顔見るのもヤだよ。オレも今まで言いたいことひとつも言わないできたけど、お前もそうなんじゃん? いっつも他人のことばっか気にしてさぁ、それって楽しいか? 最近のお前見てるとすげぇイラつく。自分でもヤじゃねぇ? そんなの――」
ベンチごと蹴り飛ばされて、僕はそのまま後ろの花壇に倒れ込んだ。見上げると、いままで見たことのないケンの顔で、僕が今一番見たかった顔だった。
怒りで顔を真っ赤にしたケンが僕を見下ろす。僕はゆっくり立ち上がって、コートの裾を払った。
「お前になにがわかるんだよ」
立ち去る僕の背中に、ケンの絞り出すような声が届く。僕は振り返らなかった。本当は振り返りたくてたまらないのに、ごめん、そんなことを言うつもりじゃなかったんだと謝りたいのに、わざと足早に僕は歩いた。
近くの駅まで歩いて改札を抜けて、ホームに立って電車を待ってる間、僕は初めて自分が泣いてることに気づいた。昼のラッシュの人込みの中、僕は流れ落ちる涙を拭いもせずにただ立っていた。涙を流して泣くなんて、いったい何年ぶりだろう。まわりの人が不思議そうに僕を振り返るけど、まったくなにも気にならなかった。いつも自分のために泣いてきた僕が、今はひとのために泣いている。とめどなく溢れる涙はやけにあたたかくて、冷えた僕の頬をやさしく撫でた。