15
自殺未遂。彼女はひとりの部屋で、睡眠薬を大量に飲んで、自分の手首にナイフを当てた。血はそれほど出なかったようだ。ベッドの上に身を投げ出して、顔面を蒼白にして意識不明になっている彼女を発見したのは、ケンだった。
彼女は薄れていく意識の中でケンに電話をかけて、「怖い」と繰り返したらしい。なにを聞いてもまともな返事はなく、ケンはわけもわからずうろたえている間に、電話は切れた。
時間の流れが氷柱のように頭上に垂れ下がる。
病院の待合室に、僕とケンは並んで座っている。僕が来る前から、そして来てからもずっと、ケンの目は空をさまよっていた。病院に入ってきた僕に目も向けず、非常灯をぼんやりと眺めている。抜け殻のようだ。自分がなぜここにいるのか、なにを待っているのか、まったく理解できてないみたいだった。
誰かが廊下を歩く足音が響く。コツ、コツ、とリノウムの床が靴底を弾く。青白い光。眠っているようによどんだ空気。ここは死の匂いでいっぱいだ。毎日誰かが死んでいく。誰だって、どんなに偉い人だって、死は平等だ。誕生日にケーキの上のろうそくを吹き消すとき、自分の命まで吹き消していることに気づいたのは、いつのことだっただろう。新しい生命も一秒ごとに誕生している。だけど生まれてきてしまったら、後は死へのカウントダウンで――
こんなこと、今まで考えたことなかった。自分のまわりの誰かが死ぬなんて、今日明日の話じゃないと思っていた。統計によると、何秒に一人の割合で人が死んでいるらしい。今夜は彼女がその仲間入りをするのか、それとも、僕達の世界に還ってくるのか。自分がどちらを望んでいるのか、それすらわからない。結果を待たされている時間は、どうしてこんなに息苦しいんだろう。それがどんな種類の結果であれ、いつも僕の胸を締め付ける。
頭の片隅に、さっきから気にかかっている疑問が引っかかる。どうして僕が呼ばれたんだろう。彼女が呼んだのなら、僕はその答えを知っている。だけどなぜケンが知ってるんだ? 一番知ってはいけない人間が僕の隣に座っている。知っているのか、ただ頼れる人間がほかにいなかっただけか、僕にはわからない。少し声を出せば簡単に聞けることなのに、どうしてもこの沈黙を破ることはできなかった。ちらっと盗み見たケンの横顔はいつものケンとそっくりだったけど、やっぱりどこか違っていて、イギリスで見たロック・サーカスを思い出した。疑うと柳でも幽霊に見えてしまう。怖くなって自分の手を見つめると、自分の手までもつくり物めいて見えて、僕は思わず目を逸らした。
病院独特の空気が僕を圧迫する。沈黙のせいかもしれない。こんなに長い沈黙は生まれて初めてだ。この緊張感を誰かなんとかしてくれ。深く息を吸い込んで、僕は口を開いた。
「なあ――」
僕はなにを言おうとしていたんだろう。静かな水面に小石を投げ込んだような波紋が広がった。かなり気をつけて声をちいさくしたつもりだったのに、思ったよりずっと響いて、僕は思わず言葉を失った。ジロリ、と見えない眼に睨まれたような気がして、軽く身震いした。深夜の病院は健康な人間に冷たい。
ケンはゆっくり僕を振り返って、じっと見つめる。瞳にまるで表情がなくて、僕は泣きたくなった。ああ――とつぶいて、ケンはくしゃくしゃになった写真を僕に手渡す。
「なに、これ?」
くしゃくしゃになった僕が笑っている。みんなで海に行ったときの写真だ。なんでこれがこんな状態でここにあるんだ?
「キリちゃんが、握り締めてたんだ・・・」
うつむいてるから、ケンの顔は見えない。声に表情もない。僕も言うべき言葉を失った。
写真をどうしていいのかわからずに、僕はとりあえずコートのポケットにしまった。
どのくらいの時間が過ぎたんだろう。メリー・ゴー・ラウンドのように、同じ時間が何度も目の前に現れては通り過ぎていく。いつの間に僕は眠っていたんだろう。ふと目を開けると、白衣を着た若い男が僕達の前に立っていた。慌ててケンが立ち上がる。
白衣の男はポケットに手を突っ込んだままだ。軽くため息をついて、ケンを見つめる。
「心配ないですよ。胃洗浄だけで済みました。手首の方も軽い切り傷程度なので。ただ・・・」
「ただ・・・?」
ケンはつばを飲み込む音が聞こえた。
「まだ自傷する可能性があるため、それが治まるまで入院してもらうことにします。また同じことしそうな状態なので・・・」
医師は淡々とした口調でそう言った。ケンは安心したのか、まだ心配なのか、深いため息をついて、ペコリと頭を下げた。自分の仕事に満足したのか、それともケンの態度に好感を持ったのか、医師はニッコリ微笑んで、ケンの肩をたたいて、ゆっくりと立ち去った。足音が遠ざかる。
よかった・・・とケンがつぶやく。膝の上に置いたケンの手に、なにかが落ちたように見えたのは、僕の気のせいだったのだろうか。顔を上げたケンは、やっと、今日初めての笑顔を見せた。ゆっくりと、まるで鮮やかに花が咲きこぼれるような笑顔だった。
「そうだ・・・マミヤくんに連絡しなきゃ・・・すっかり忘れてた」
散漫な動作で立ち上がって、ケンはポケットから小銭を探す。どうしてこんなときにマミヤくんの名前なんて出せるんだ? マミヤくんを呼んで、いったいどうするつもりなのか、僕にはまったく理解ができなかった。だけどそれは僕が口出しすることじゃない。ケンを見ていたら、なにも言えなくなった。ずっと気を張っていたんだ。疲労もするだろう。見るからに疲れきった後ろ姿だ。エスカレーターの隣に置かれた公衆電話の前に立って、受話器を取り、思い出したように僕を振り返る。
「ごめん、郁弥。もう帰っていいよ。マミヤくん呼ぶし、オレひとりでも大丈夫だから。悪いな、つきあわせて」
「いや、別にいいんだけど・・・」
「あ、携帯の電源入れなきゃマミヤくんの電話番号わかんないや。ちょっとだけならいいよな」
ケンは自分のペースで話し続ける。回転の合わないレコードみたいな声だ。ニコリと感情のない笑顔を浮かべて、もういいよ、という顔をする。
「マミヤくん起きてるかなぁ・・・」
プッシュボタンを押しながら、ケンは平坦な口調で喋り続ける。その声は妙に僕の気に障った。
「あ、マミヤくん? 寝てた? ごめん。ケンだけど。あのさぁ、悪いんだけど今からS病院まで来てくれないかなぁ――うん、来ればわかるよ――ううん、違うよ――そう――じゃあ、待ってるから。うん、頼むわ」
受話器を置いて、僕を振り返る。信頼していた人間が目の前でまったく別の人間に変わるのを見たことがあるかい? 人間はなんてさまざまな表情を持っているんだろう。見知らぬ人間が僕の目の前にいる。視界がかすんで、慌てて目をこすった。
「マミヤくんが来る前に帰った方がいいよ。わかってると思うけど・・・お前がいると話がややこしくなるんだ」
もっともだな、と思って、僕は肩をすくめて歩き出した。僕がここにいる意味なんてどこにもない。バイバイ、と手を振る。後ろは振り返られなかった。
ここは僕がいるべき場所じゃない。このまま家に帰って、ケンのことも彼女のことも忘れて寝るのがベストだ。
病院から一歩外に出ると、満天の星空が僕を迎えてくれた。冷たい空気が容赦なく僕の肌を突き刺す。ぼんやりとかすんでいた意識がだんだんはっきりしてくる。僕は空元気で口笛を吹きながら、足元の小石を蹴った。
ポケットの中がやけに重たい。