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わかりきったことだけど、あれで終わったわけじゃない。むしろあの日から始まったんだ。
物語は転がり続ける。関わる者すべてを巻き込んで、穴に落ちて、そして――暗転。
ライブから三日後、麻ちゃんから電話があった。ヒマだったら一緒に飲もう、というお誘いの電話だった。
「初めてじゃない? 麻ちゃんとふたりで飲むのって」
「うん、そうだね。いつもカズとかマミヤくんとかいるからね」
「カズくんに怒られないの?」
「わたしと郁弥くんで、いまさらなにがあるっていうのよー」
麻ちゃんが僕を呼び出した理由はわかってるつもりだ。きっと彼女から聞いたんだろう。マミヤくんをまじえての悲喜劇、その後のライブでの蛇足。彼女の気持ち、僕の反応・・・麻ちゃんがなにを言うつもりかもわかっている。僕が一番聞きたくない言葉だ。
両手で耳をふさげれば、こんなに簡単なことはないのに。だけどそんなわけにもいかず、僕にできることといえば、麻ちゃんがその話を切り出す瞬間を引き延ばすだけだ。
「この前郁弥くんのお店行ったんだよ。でもいなかったね。今日はお休みだって」
「あ、そうなんだ。いつ?」
「うーんとねぇ、先週の、土曜日か日曜日」
「あ、土曜日だったら休みだった。じゃああいついたでしょ? ドレッドの、頭悪そうな・・・」
「うん、いたいた。あ・・・別に頭悪そうって言ってるんじゃないよ」
と、麻ちゃんは笑う。
「その人に休みだって教えてもらったの」
ロックのバラードが流れる。エルヴィス・コステロだ。麻ちゃんはキレイな色のカクテルグラスを持った自分の手を見つめている。ちいさな桜色の爪。彼女の人工的に作られた爪と対照的だ。
「やっぱコステロっていいよねぇ。いつ聴いても」
「うん、オレも大好き」
グラスの中身はなかなか減らない。僕も麻ちゃんも、目の前のグラスより気を取られていることがある。
「そうそう、わたし郁弥くんにCD借りたままでしょ? 今日返そうと思ってたんだけど、忘れてきちゃった」
「なんか貸してたっけ?」
「うん、ニルヴァーナのブートのやつ」
「あ、カズくんに貸してたやつか。別にいつでもいいよ」
そんなものを返すためにわざわざ呼び出したわけじゃないだろう。麻ちゃんはいつまでも切り出さない。独房の中で死刑を待ってる気分だ。こんな生殺しの状態がいつまでも続いたら、僕は発狂してしまうかもしれない。
麻ちゃんがピーナッツを割る音が響く。
「そうだ。カズが残念がってたよ。ほら、マミヤくん達とセッションやろうって話」
「ああ、あれかぁ・・・」
「どんなセッションにするつもりだったの?」
「いや、オレもよくわかんない。みんなで好きな曲持ち合って、ジャムろうって話だったんだけど・・・」
時間の流れが妙に遅いような、こんな時間早く過ぎてしまえと思うほど、時は意地悪く居座る。
麻ちゃんが空のグラスをカウンターに置いて、2杯目を注文する。真っ赤なグラスに麻ちゃんは少し口をつけて、なぜか首を振った。
「郁弥くんて・・・なんか静か過ぎるよね」
と、麻ちゃんはまわりの客に聞こえないくらいのちいさな声でそう言った。僕がなにか言おうとするのを手でさえぎって、軽く笑う。
「違う違う。きっと郁弥くんが思ってるような意味じゃなくて・・・」
麻ちゃんは困ったように軽く笑って、壁際に答えを探す。
「例えば――無理しない人っているじゃない。どんなときでも自分のやりたいことはやるし、自分のできること以上のことは決して手を出さないで、やりたくないことはどれだけ無理強いされても絶対やらない人」
「マミヤくんみたいな?」
言ったあと、我ながら嫌味だなぁ、と後悔した。麻ちゃんは笑って、器用な手つきでピーナッツの殻を割り続ける。
「郁弥くんね、無理ばっかしてるように見える。もっとワガママになればいいのになぁって・・・」
「いや、オレ全然無理してないよぉ。じゅうぶんワガママだし」
「違うの」
と、麻ちゃんは首を振る。
「郁弥くんはね、無謀なことをしないのよ。自分の手に負えないことは、絶対にしないでしょ。一回くらい、我を通してみればいいのに。まわり巻き込んでさ。ムチャクチャにしちゃって」
「ふーん・・・麻ちゃんにはそう見えるのかぁ。でもねぇ、オレってよく苦労人っぽく見られるけど、それって得なのかなぁ。女の子はそこがいいって言うけどね」
麻ちゃんが今言ったことは、最近僕がよく思っていたことだ。自分ではずっとその通りだと思っていたけど、ひとに言われたのは初めてだ。ああ――そうか。言葉は違うけど、彼女が僕に言ったことも同じことか。麻ちゃんは彼女から話を聞いてきたんだろう。やっぱり今日はその話になるのか。これは前振りだ。
だけど麻ちゃんは最後まで切り出さなかった。一時間くらいだろうか、お互い二杯ずつ飲んだだけで、僕達は店を出た。
「明日も仕事だし」
と、麻ちゃんは笑った。
線路沿いに、駅まで歩く。もうそろそろかな、まだ言わないのかな。そんなことばかり気にしていて、麻ちゃんにもうちょっとゆっくり歩いて、と言われてしまった。
いろんな人の名前が会話に出たけど、マミヤくん、ケン、彼女の肝心な話は一度も出なかった。そのことが僕を余計に不安にさせた。
「あ、ここでいいよ」
駅の階段の下で麻ちゃんは立ち止まる。
「今日はどうもありがとう。郁弥くんと飲めて楽しかった。一度ふたりで飲んでみたかったんだ」
「うん、オレも楽しかったよ」
「今度カズ達とも飲もうね。最近郁弥くんつきあい悪いって評判だよ。ダメじゃん、遊んでくれなきゃ」
僕はジーンズのポケットに手を突っ込みながら苦笑した。麻ちゃんは僕の頬を軽く叩いて、
「じゃあ、またね」
と、階段を昇り始める。
「ちょっと待ってよ」
麻ちゃんは僕を振り返って、不思議そうに首を傾げる。すぐに後悔して、僕は舌打ちした。
「どうしたの?」
僕のしていることは、この前の彼女とまるで同じじゃないか。黙っていればなにも起こらないのに、わざわざ波風立てて、事を深刻にしようとしてる。麻ちゃんの顔に僕の姿がダブる。あのときの彼女の気持ちが、今ならよくわかる。知りたくてたまらない気持ちにわざと気づかないフリをされることほど、イラつくことはない。子供じみた感情で笑っちゃうけど、事実なんだからしょうがない。
麻ちゃんは階段を三段昇ったところで、次の言葉を待っている。僕はつばを飲み込もうとして、ビールを飲んだばかりなのに、喉がカラカラに渇いてることに初めて気づいた。
「麻ちゃん――」
かすれながらも、なんとか声は出た。言いたい気持ちと、言わずに済ませたい気持ちを首を振ってシェイクして、僕は麻ちゃんを見上げた。視界が揺らぐ。
「今日呼び出した理由は? 言わなくてもいいの?」
言葉が喉に引っかかる。自分の声じゃないみたいだ。
怪訝そうな表情で、麻ちゃんが僕の目を見る。心の底まで見透かれてるみたいで、僕は思わず目を伏せた。耳が燃えるように熱い。
麻ちゃんは軽く息を吐いて、そしてやさしく微笑んだ。
ゆっくり、一段ずつ確かめるように階段を下りて、麻ちゃんは僕の前に立つ。クシャクシャと髪をなでられて、僕は急に自分が恥ずかしくなってうつむいた。まるで子供だ。
「郁弥くんって、やっぱり考えすぎ。理由なんてないよ。ただ会いたかっただけ」
僕はなにも言わなかった。じゃあね、と手を振りながら、麻ちゃんは階段を昇る。僕は麻ちゃんの姿が視界から消えるまで、ずっと見送っていた。
考えすぎか。僕はひとりで笑ってしまった。確かに僕は考えすぎる。悪い癖だということもちゃんとわかってる。だけど麻ちゃん、それだけじゃないんだろ?
夜道を歩いていたら、いろんなことが頭の中に浮かんできて、僕に考えろ、悩め、と強要するんだけど、僕はなにも考えられなかった。もう嫌なんだ。彼女のこれであれこれ悩んでる自分はもうたくさんなんだ。僕に多くを求めないでくれ。これ以上なにを搾り取ろうっていうんだ?
寒さで煙草を持つ手が震えた。寒さだけじゃないだろって? その通りだよ。
ひとりでトボトボ家に帰ると、留守番電話のメッセージランプが点滅しながら僕を迎えた。再生ボタンを押して、顔を洗おうと洗面所へ向かう。そんなに飲んでないのに、結構酔いがまわってる。やっぱり疲れてるからなのかな。明日はゆっくりして――ダメだ、学校だ。そろそろ真剣にヤバイって、この前教授に言われたばかりだし、親もブーブーうるさいし・・・って、当たり前か。親にしてみれば高い金払って勝手なことばかりされて・・・
「ピー・・・ノリコです・・・携帯に電話してもつながらないので・・・何時でもいいので電話ください」
ヤだよ。だから着信拒否にしてるんじゃん。
「ピー・・・嫌い・・・どうしていないのよ」
知るかよ。オレの勝手だろ。
「ピー・・・オレだよ、オレ。なんだよ、いないのかよ。携帯つながらないし・・・しょーがねえなぁ。また電話するわ」
誰だよ、お前は。
独り言を言うことにも飽きた。なんで今日に限ってこんなに入ってるんだ? 地下の店にいたからか? ンだよ、まだあるのかよ。いいかげんにしてくれ。
「ピー・・・もしもし、郁弥?」
顔を洗う手が止まった。僕はゆっくりと振り返る。
「いない? あー・・・ケンだけど。今十一時・・・二十四分。すぐS病院まで来てくれ。うーんと、渋谷だ、渋谷。すぐだぞ、すぐ――頼むよ・・・」
部屋の温度が五度下がった。最後にゴチャゴチャなにか言ってるみたいだったけど、声がちいさすぎて聞こえなかった。タオルで顔を拭きながら、僕は首をひねった。なにをやったんだ、あいつ。ケンカだったら警察のはずだし、バイクでコケたか? まったくなにやってんだか。
軽く考えてるフリをしてたけど、頭の中で警鐘が鳴り響く。行くな、行ったら後悔するぞと僕に告げる。わかった、わかったからと、僕は煙草に火を点ける。だけどほっとくわけにはいかないだろ?
まあいい。とりあえず、渋谷? そこまで行ってみよう。僕は風呂に入る前だったことに感謝して、分厚いコートを着込んだ。ポケットに、もしものときのためにありったけの金を入れて、身分証明書も持った。僕はドアを開けた。
外は寒い。